「用いられた香油」ヨハネ12章1節~11節 | ロックな税理士 原 眞人の「プロ社長を目指せ!」 伊豆夢(イズム)の日記

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おはようございます。伊東市・中小企業元気アドバイザー、

伊豆夢(イズム)こと

ロックな税理士、原 眞人(ハラマサト)です

■「用いられた香油」ヨハネ12章1節~11節

川奈聖書教会の火曜礼拝では旧約聖書ルツ記が終了し、

今回から、新約聖書ヨハネ福音書に戻ります。

1節
イエスは過越の祭りの六日前にベタニアへ来られた。

そこにはイエスが死人の中からよみがえらせたラザロがいた。



この過越の祭りこそがイエス様が十字架掛けられるとき

第12章から始まるヨハネ福音書の後半は

イエス様の最後の1週間が記されています。


第11章53節
そこで、彼らはその日から、

イエスを殺すための計画を立てた


とあるようにユダヤの宰相、律法学者たちは

イエス様を捕え、殺害することを決定しました。

現代風にいえば、国中に逮捕状が出て

指名手配がされた状態です。

そんな緊迫した中、イエス様一行が

ベツレヘムへ向かう途中、ベタニアへ立ち寄った件です。

ベタニアにはイエス様が懇意にしていた

マルタ、マリア、ラズロの姉弟がいました。

ラズロは病により、一度亡くなりますが

イエス様の御業によりよみがえりました。


この御業はベタニア中で評判になり、

さらにイエス様が指名手配をされた中で

ベタニアに立ち寄ったことに町中が騒然となっていました。


2節
人々はイエス様のために、そこに晩餐を用意した。

そしてマルタは給仕をしていた。

ラザロはイエスとともに食卓に着いている

人々の中に混じっていた。



今回の箇所は晩餐を舞台としています。

騒然とした外の様子をよそに、晩餐の席は静かであった。

その静けさを打ち破るかのような

唖然とする出来事が起きます。


3節
マリアは非常に高価な、純粋なナルドの香油三百グラムを

取って、イエスの足に塗り、

彼女の髪の毛でイエスの足をぬぐった。

家は香油のかおりでいっぱいになった。


この晩餐に姉のマルタが忙しそうに給仕をしているのに

マリアは手伝うこともせず、イエス様の横に座り

ずっと話をしているような不思議な女性です。


当時、男性の食卓に女性が同席しないことが

常識であったのに、給仕もせず

男性ばかりの晩餐の場に居座り

壺を割り、その中に入っていた最高級の香油

ナルドを手に取りイエス様の足に塗ると言う驚くべき

行動をしました。

ナルドという香油は300ナルド、

1ナルドは当時の日給に相当する額なので

およそ1年分の給与に相当する、大変に高価なもの。

それを迷いもなく、惜しげもなく、壺を割り

油をイエス様の足に塗った。

その場に居合わせた人たちの度肝を抜く行為に

最初に言葉を発したのはイエス様の弟子ユダでした。


5節
「なぜ、この香油を三百デナリで売って、

 貧しい人々に施さなかったのか。」



その晩餐の席にいた人はユダと同じようことを思ったはずです。

「もったいない。これを売れば、

 もっと有効な使い道があるのに・・・」

マリアの行為を素晴らしいとは誰も思わなかった。


6節
しかこう言ったのは、彼が貧しい人々のことを心にかけていた

からではなく、彼は盗人であって、金入れを預かっていたが、

その中に収められたものを、いつも盗んでいたからである。



聖書はユダがマリアを非難したことについて

盗むという言葉で、彼の過ちを指摘しています。


「心にかける」とは四六時中そのことについて

考えていること。

貧しいひとたちのために何かできることはないか?

それをユダがいつもは心にかけていて出た言葉ではなく、

「売れば大金になり、貧しい人たちに施しをしてして

あげれば喜ばれただろうに、もったいない」

という思いつきで出た言葉です。





ユダはイエス様の弟子の中で会計係をして

お金の管理をしていました。

その管理しているお金を実際にユダが盗んでいたのかも

しれませんが、ここで言っているのはもっと意味が深い

ことです。


ユダは「お金の心」を盗んだ。

だから聖書はユダの発言をよしとはしませんでした。


「そんな高価な香油をイエス様の足に塗るなんて

もったいない、私だったら、その高価な香油を売って

お金に換えて、イエス様の喜ぶことをするのに・・・」


自分の利益や思いつきに囚われていると

人の行動を批評したくなります。

それは、自分の尺で人を測っているから

でも、それは盗みと変わらない。

神の喜びに向かう心を自分の喜びとして盗み取ってしまう。

神に委ねられたものを自分の計算の中で盗み取ろうとしている。

神ではなく、私がそれを生かす。

これを聖書は「盗み」としています。


7節
イエスは言われた。

「そのままにしておきなさい。マリアはわたしの葬り

の日のために、それを取っておこうとしていたのです。」




「マリアを責めてはいけない。

マリアのしていることは私の葬りのために、

しようとしていることなのだから。

マリアがわたしのことを心にかけてくれたことを

私はうれしくおもう。」

とイエス様はユダの言葉を制しました。


ナルドとはヒマラヤ山中でいまでも採取される

植物であり、その香りはとても強い。

このために、イエス様の体からはこの日から

十字架に掛けられるまで、そして墓に葬られるまで

ずっとこのナルドの香りがしたに違いありません。


マルコの福音書では以下のように記しています。

マルコ福音書14章6節

するとイエスは言われた。

「そのままにしておきなさい。なぜ、この人を困らせるのですか。

わたしのために、りっぱなことをしてくれたのです。」

8節
「この女は自分にできることをしたのです。埋葬の用意にと

わたしのからだに、前もって油を塗ってくれたのです。

まことに、あなたがた告げます。世界中のどこででも、

福音が宣ね伝えられる所なら、この人がした事も

語られて、この人の記念となるでしょう。」


ヨハネ福音書11章2節でマリアのことを説明するさい

「このマリアは、主に香油を塗り、髪の毛でその足をぬぐった

マリアであって・・・」

としています。

マリアの突拍子もない行動が福音書で語り継がれるほどの

尊い業として用いられました。

ユダヤ人は男性も女性も髪をとても大事にし

足を汚れたものとしてみていました。

したがって、最も大切にしている髪で、最も汚れた足をぬぐう

ということに、マリアの精一杯の心があらわれています。


イエス様が指名手配され、いつ捕まり処刑されるかもしれない

そんないてもたってもいられない中で

マリアはイエス様に最後に自分でできる精一杯のことを考え

周りの人の目など気にせずに迷いもなく行動した。


マリアの精一杯の心を神様は汲み取り、用いて下さりました。

人はうわべだけを見ますが、主は心を見ます。

人々は高価な香油を見たが、マリアの心を見ていなかった。

イエス様は

「マリアが神のために捧げものをした心を盗んでいけない。」

とおっしゃりました。

心を見ずにうわべだけを見てしまう私たちの目は狂い

打算的になってしまいます。

5千人の食べ物を調達するために、イエス様の弟子たちが

計算をしますが、到底、その数を満たすだけの食物を

準備することはできず、途方に暮れる中

一人の少年が、2匹の魚と5つのパンをイエス様に

差し出します。もちろん、その数で

5千人の空腹を満たすことはできません。

でも、イエス様はその少年の心を汲み

用いて下さり、奇蹟を起こしました。

計算ではなく、心を主は用いて下さるのです。

計算が成り立つかどうかじゃない。

計算は神に委ね、神さまが意味のあるものして下さります。

生かされている命とはそういうものなのです。


ダビデ王の時代から王に任ぜられるときに

油がそそがれました。

マリアの行為はイエス様が私たちの王になった

後世に語り継がれるものになりました。


大事なことは、いつも聖書とロックが教えてくれた。

ラヴ&ピースKeep on Rock’n


今日も楽しく、誇りをもって行こう!