この記事の続きです♡


 

 

 

20代の頃の私はよく

 

いつか結婚して妊娠したら、出産までの間は思う存分「何もしない日々」を過ごせるなぁ。

誰にも何も言われず、世間的にも認められて、思いっきり休むことができるなぁ。

あーーーー、早くそんな日が来ないかなぁ。

 

そんなことを考えていた。

 

それから何年か経ってから結婚し、31歳になる少し前に1人目を妊娠しました。

 

 

 

 

 

 

だけど、1人目を妊娠する直前。

 

このブログを始めたことをきっかけに、だんだんとセッションやセミナーが自分の仕事になっていった。

 

生まれて初めて自分の意思で「やりたい!」と思った仕事が楽しすぎて、出産ギリギリまでとても忙しく働いていました。

 

産後も、3ヶ月くらい経つとなんだかソワソワしてきてまたすぐに仕事を始めました。

 

 

 

 

 

 

当時は

 

楽しくて仕方がないから!

仕事してた方が体調も良いから!

大好きなことをやっているから!

 

100%そう思っていたし、もちろんそこにまったく嘘はなかったんだけど・・・

 

今、当時の気持ちを丁寧に思い返してみると、楽しさや、充実感や、もっともっと先に進みたいという気持ち。

 

そんなキラキラして見える気持ちの影に隠れるようにして

 

止まってしまうことへの恐怖。

 

そんな気持ちも存在していたけど、気付かないようにしていたなぁって思う。

 

 

 

 

 

 

妊娠中、本当はのんびりしたい気持ちもあった。

 

何もせずにぼーーーっとしたいと思ったときもあった。

 

産後も、もっと赤ちゃんとゴロゴロしたいなって感じることもあった。

 

 

 

 

 

 

「外側で起きていることなんてどうでもいい」

 

「ずーーーっと今のままでいい」

 

「別に先へ先へと進まなくてもいい」

 

心の奥の方でそんな風に感じる反面、その気持ちをしっかりと捉えようとすると出てくるのは

 

せっかく好きな仕事が上手くいきはじめたのに、今止まるとまた振り出しに戻るぞ!

みんなに忘れられるぞ!

また上手くいくという保証はないぞ!

 

そんな恐怖の方だった。

 

 

 

 

 

 

そして、そんな恐怖に向き合うことよりも

 

楽しくて、勢いがあって、変化があって、多くの人に必要とされているような感じがする。

 

そんな世界にいる方がずーーーーっと楽だった。

 

なので1人目を妊娠中の頃は、少しだけそこに存在している気がする「恐怖」は見ないようにして、エネルギッシュに動き続けました。

 

とっても充実した楽しい日々でした。

 

 

 

 

 

 

ただ今回は、あの頃よりもずっと自分が感じていることを誤魔化さずに見れるようになっていた。

 

自分の感覚に従うことが前よりずっと簡単にできるようになった今、

 

楽しさや充実感の影にほんの少しだけ感じていた

 

止まってしまうことへの恐怖。

 

それを、もっとじっくりと観察してみようと思ったんです♡

 

 

 

 

 

 

インスタにも載せたけど、お友達とのランチでピザを食べに行きました!旦那さんがチーズが苦手なので、普段食べないピザが幸せ😍😍

 

 

 

 

 

 

言葉にするのは簡単だけど、何一つ生産的なことをせず消費を続ける生活は

 

人に不思議な不安定さを与えるものだなぁと思った。

 

そして、その不安定さは「恐怖」という感情に繋がっている。

 

 

 

 

 

 

前回の記事にも書いたように


20代の頃の私は、その恐怖に耐えかねてすぐに動くことを選んだ。

 

1人目を妊娠していた頃の私も、良い感じに進みはじめた仕事がまた上手くいかなくなることを恐れて、やっぱり動くことを選んだ。

 

止まることの恐怖に向き合うことよりも、多少の苦しさを感じながらでも、そのまま動き続けていた方がずーーーーっと楽だということを知った。

 

 

 

 

 

 

何一つ生み出していない私という存在。

 

だけど生きている限りは、ご飯も食べるし、電気もガスも水道も使うし、空間も使うし、時間も使うし、お金も使う。

 

そんな事実に向き合ったときに感じる恐怖。

 

それは、

 

私という「存在」が何の「価値」にも結びついていない。

 

言葉にすると、そこから生まれる恐怖なんだということが分かった。

 

 

 

 

 

 

前菜の盛り合わせもぜーんぶ美味しかった♡

 

 

 

 

 

 

私たちって本当に無意識に、自然に、当たり前に

 

私という「存在」と「価値」を結びつけている。

 

出来ること、やっていること、役に立っていること、資質、能力、持っているもの、今いる環境、これまでやってきたこと、周りの人間関係、仕事、趣味、好み、センス・・・

 

ありとあらゆるもので自分の「価値」を測っている。

 

 

 

 

 

 

もしそれが、どこにも繋がっていないとしたら?

 

自分の価値を感じられなくなったら?

 

私という「存在」と「価値」が切り離されてしまったら?

 

 

 

 

 

 

先月、つわりをきっかけに本当に何もしない日々を過ごしてみた訳だけど

 

健康な心と体を持ちながら生産的なことを何もしていない自分が、ただの「肉の塊」のように思えた。

 

そのときの私は、もう20代の頃や1人目の妊娠のときのように

 

何も生み出さない自分に対する恐怖や不安や後ろめたさみたいなものは感じていなくて、ただその奥にあるものをしっかりと観察したいと思っていた。

 

なので、とても冷静に淡々と

 

「私ってただの肉の塊だなぁ」と思った。笑

 

 

 

 

 

 

そしてそう感じたときに、あることに気付いた。

 

「自分を好きになる」とか、

「自分を認める」とか、

「どんな自分も愛する」とか、

「自分のことを大切にする」とか。

 

そういう言葉って私も憧れていたし、大切なことだと思っていたし、キラキラして素敵な感じがするけれど、本当は全然そんなことはない。

 






本当の本当の本当ーーーの意味での

 

「自分を好きになる」も、

「自分を認める」も、

「どんな自分も愛する」も、

「自分のことを大切にする」も。

 

私という「存在」が何の「価値」にも結びついていない。

 

この、ものすごい恐怖の先にあるものなんだ。

 

 

 

 

 

 

私は貧乏なフリーターで彼氏もいなくてやりたいこともなかったとき、自分のことが大嫌いでした。

 

だけどその後、


結婚して家族ができて好きな仕事でお金を稼げるようになったとき。

 

前よりもずーーーーっと自分のことを認められて、好きになれたような感じがした。

 

 

 

 

 

 

だけど、そんなのって本当の意味での「認める」でも「好きになる」でもないんだよね。

 

お金を稼げるようになったから、自分のことを好きになりました♡


こんな成果を手にしたから、自分を認められるようになりました♡


こんな素晴らしいものが手に入ったから、自分のことを大切に想えるようになりました♡

 

そんなのって当たり前。

 

これまでと何も変わらず、

 

自分という「存在」と「価値」をただ結びつけているだけなんだ。

 

 

 

 

 

 

本当の意味での「自分を認める」ということは、

 

自分という「存在」と「価値」を切り離すこと。

 

自分という「存在」を何の条件もなく、ただ「存在」させてあげるのを許すこと。

 

それはつまり、何一つ生み出していない

 

ただの「肉の塊」という私。

 

これを、私自身が一旦そこで「それで良い」と許してしまうこと。

 

 

 

 

 

 

お腹いっぱいだったのにデザートにモンブランまで食べました…笑

 

 

 

 

 

 

これはね、

 

「頑張らなくてもいい」とか

「人の役に立つ必要はない」とか

「休むべき」とか

「どんな人でもその存在を認めなさい」とか

 

そういうことが言いたい訳ではないんです。

 

もちろん頑張ってもいいし、人の役に立ってもいいし、休まなくてもいいし、誰かの存在を認めなくてもいい。

 

そんなのは好きにすればいい。

 

 

 

 

 

 

何をするかという表面的な「行動」の話をしているのではなくて

 

私たちの根底に必ずある、


「自分の存在をどのように認識しているのか」

 

そんな話をしています。


それは、他人はもちろん、近しい人も、家族も、大切な人も、誰一人関係のない

 

私と私だけの関係の話なんです。

 

 

 

 

 

 

努力をして、何かを手に入れて、何かを達成して、自分のことを認め、自分のことを好きになる。

 

もちろんそれでも全然良いし、むしろとても素晴らしいことだと思う。

 

だけど、もし私という存在がただの肉の塊になったとき。

 

「価値」と結び付けることで私に認められた私という「存在」は、その「価値」を失ったときとても危うい「存在」になる。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

どれくらい役に立つ?


どれくらい大切にされている?

 

そんなことで簡単に、その大切さや値打ちが変わってしまう「存在」になってしまうんだ。

 

 

 

 

 

 

 

もちろんそうやって、存在と価値を結びつけることさえも


「私が安心して存在できますように」


その願いを叶えるために私が選んだ、私に対する愛の表現だったんです。


誰かの役に立つことで、誰かに大切にされることで


私は存在していて良い存在なんだ♡

 

そんな風に簡単に安心することができるから。

 

 

 

 



だけど本当は、

 

神様、宇宙、源・・・つまり私の内側に在る「本当の私」は知っている。

 

もし私がただの肉の塊になり、世間の基準で考えたとき何一つ役に立たない存在になったとしても

 

それでもあなたという存在の尊さは何一つ変わらない。

 

そんな風に伝え続けてくれていることを。

 

 

 

 

 

 

その声に耳を傾けるかどうかは、自分だけが決められる。

 

そして、価値と切り離された「私」という存在をしっかりと認識した先に

 

本当の自由と安心が存在していると思うんです♡

 

 

 

 

 

 

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