ハイパー・ウェポン 最終狙撃者 ~負の感情の連鎖を断ち切るのは並大抵の事では無いのだろう~ | つれづれ映画ぐさ

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忘れ去られそうな映画を忘れ去る前に

皆さんは「アイルランド」と言われてどの様なイメージが浮かぶでしょうか?筆者なんぞは勉強不足なモンで、「過激派組織「IRA」が爆弾テロを行っている」とか「ジェーム・ジョイスの小説「ダブリン市民」はアイルランドが舞台だよなぁ」くらいの凄んごく浅い知識でのイメージしか湧かないのですが、今回紹介する『ハイパー・ウェポン 最終狙撃者』( 『 The Hard Way 』 1980年 アイルランド、イギリス合作 )は、そんなアイルランドを舞台にした映画です。

 

原題を直訳すれば「困難な道、方法」となりますが、そこから「身をもって~する、辛い思いをして~する、自分の努力で~する」等の意味となります。果たして、どの様な困難に対し、身をもってどの様にしようと言うのでしょうか。

 

凄腕の狙撃手コナーは、今回の「仕事」で引退しようと決めていた。いつしか家族からも距離を置き、一人で暮らし、誰かの命を奪う様な「仕事」を続ける事にうんざりしていたのだ。コナーが所属する「組織」は、次の「仕事」の指示を与えるも、コナーはキッパリと拒絶するのだった。しかし、別居中の妻の身の安全に関して仄めかされ、渋々ながら引き受ける事となってしまう。しかし、決行当日の土壇場で裏切り逃走、妻を海外に逃亡させる。依頼主に顔が立たない「組織」は、不始末のケジメを付けさせるべく、腕の立つ者を裏切り者コナーに差し向けるのだが…。

 

この様な感じで本作は始まります。コナーは、普段は岩山に囲まれた里でひっそりと隠遁生活の様な暮らしをしている。妻を逃がした後は、この山小屋の様な家に籠るのである。妻は逃がすが、自身は追手を迎え撃ち、自分の人生にケジメを付ける覚悟なのである。元々が凄腕な所に持って来て、コナーのホームでの戦闘。追手はあっさりと返り討ちとなってしまう。「ヨーロッパ一の凄腕を送り込んだ」なんて言ってたけどね。ハッタリでしたか。こうなったら、「組織」の親玉マクニールが自ら出張るしかあるまい、と言う事になる。何せ、コナーの事は知り尽くしていると言う自負がある。「仕事」に関する様々なテクニックをコナーに教えた張本人だからだ。コナーも、情報屋にマクニールの隠れ家を探し出させ、乗り込んで、一気に片を付ける作戦に出る。しかし、勿論それも想定内のマクニールであった。

 

と、言う事でコナーとマクニールの一騎打ちがクライマックスとなります。

 

主人公コナーを演じたのはパトリック・マクグーハン。代表作はイギリスで1967年から1968年に掛けて(日本では1969年)放映されたテレビドラマ『プリズナー№6』( 『 The Prisoner 』 )の主人公「№6」役。この作品では、プロデューサー、監督、脚本も手掛け多才ぶりを見せている。更に『刑事コロンボ』シリーズ( 『 Columbo 』 1968年~1978年 )の一本『祝砲の挽歌』( 『 By Dawn's Early Light 』 1976年 )での好演が切っ掛けとなり、その後も『新・刑事コロンボ』( 1989年~2003年 )まで、シリーズの監督、脚本、出演を計五作品程担当している。その他の代表作には、クリント・イーストウッド主演、ドン・シーゲル監督の『アルカトラズからの脱出』( 『 Escape from Alcatraz 』 1979年 アメリカ )での刑務所長役、デヴィッド・クローネンバーグ監督の『スキャナーズ』( 『 Scanners 』 1981年 カナダ )等が有る。『スキャナーズ』では主人公に、マイケル・アイアンサイド扮する悪の超能力者レボックの殺害を命じる博士役だった。

 

マクニールを演じたのはリー・ヴァン・クリーフ。渋いッスよね。細身の長身で鋭い眼つき。フレッド・ジンネマン監督の『真昼の決闘』( 『 High Noon 』 1952年 アメリカ )で映画デヴュー。会計士の傍ら、地方劇団の役者として舞台に立っていた所、プロデューサー時代のスタンリー・クレイマー監督に見出されて映画デヴューとなったとか。1950年代は、西部劇や犯罪映画で悪役として活躍していたが、時代の流れと共に徐々にそのキャリアが低迷して行く。そして、半ば俳優業をリタイアしかけ、絵を描き過ごしていた頃、『荒野の用心棒』( 『  Per un pugno di dollari 』1964年 イタリア )を大ヒットさせたばかりのセルジオ・レオーネ監督から、次回作『夕陽のガンマン』( 『  Per qualche dollaro in più 』 1965年 イタリア )への出演依頼が舞い込む。この作品での「モーティマー大佐」役で、主役のクリント・イーストウッドを食う程の存在感を示し、この作品以降は、マカロニウエスタンで主役を演じるまでになった。キャリア後半の、ジョン・カーペンター監督作『ニューヨーク1997』( 『 Escape from New York 』1981年 アメリカ )でも存在感は健在だった。筆者としては、ロジャー・コーマン監督の『金星人地球を征服』( 『 It Conquered the World 』 1956年 アメリカ )もお薦めします。この頃はまだ、リー・ヴァン・クリーフも髪の毛がフサフサです。

 

監督はイギリス人のマイケル・ドライハースト。1950年代から映画業界に携わって来ているけど、監督作はコレ一作。後は第二班監督とか助監督とか、裏方さんって感じだろうか。列挙はしないが、結構な本数の有名作品にスタッフとして参加している。父親はエドワード・ドライハーストと言って、日本に入って来た作品は無いかも知れないが、1920年代末から1950年代末まで、脚本家、監督、プロデューサーとして活躍した人。

 

制作総指揮はジョン・ブアマン。代表作として、リー・マービン主演の『殺しの分け前 ポイント・ブランク』( 『 Point Blank 』 1967年 アメリカ )、ジョン・ボイト、バート・レイノルズ主演の『脱出』( 『 Deliverance 』 1972年 アメリカ )、ショーン・コネリー主演の『未来惑星ザルドス』( 『 Zardoz』 1974年 イギリス、アメリカ、アイルランド合作 )、『エクソシスト2』( 『 Exorcist II: The Heretic 』1977年 アメリカ、イギリス合作 )等が有る。いつの頃からかは分からないが、アイルランドに移り住んだジョン・ブアマン。元々イギリス生まれのオランダ系イギリス人だが、活動の拠点はすっかりアイルランドになっている。本作のロケ地の一つは、ジョン・ブアマンの家が有るウィックロー州のグレンダーロッホと言う湖のそばである。本作の撮影以前からそこに住んでいたのか、このロケで気に入って移り住んだのかは分からない。

 

本作の主演にどちらかと言えば、脇役が多いパトリック・マクグーハンを据えたのは、パトリック・マクグーハンがアイルランド出身だったからかも知れない。筆者には分からないが、どこかイギリス人とは違い、アイルランド人ぽさが有るのかも知れない。

 

サントラには、イギリスのロックバンド「ロキシー・ミュージック」の初期にシンセサイザー奏者として参加していたブライアン・イーノ。日本では「環境音楽」と呼ばれる「アンビエント・ミュージック」と言うジャンル名の名付け親と言われている。そのイーノの1978年の、架空の映画のサントラと言うコンセプトのアルバム「Music for Films」から2曲サントラとして使われている。クレジットでは「Events In Dense Fog」「A Measured Room」となっているが、後者は「Patrolling Wire Borders」の間違いである。殆どの人にはどうでもイイ話だとは思うが訂正させて頂きます。

 

このマクニール率いる「組織」は、どうも世界中で要人暗殺だとか、国家転覆を謀る組織に雇われて、その国で何かコトを起こすとか、そんな国際的な大掛かりな組織みたい。「南イエメンは部下が指揮を執っている」とか「アフリカ奇襲作戦」「暴動を起こす」「イスラエルを見習わなきゃ」なんてセリフが出て来るからね。コナーがドタキャンした暗殺の相手は黒人の神父。アイルランドの次にはフランスに行く様な事を言っていたので、そのアフリカの国でかなり影響力が有り、政府にとっての危険人物と言う事なのだろう。

 

そんな組織でもナンバーワンの凄腕のコナー。劇中では、どの様な経緯で「組織」の一員となったのかは明らかにされないが、コナーの人物像に関しては、妻の独白で或る程度は分かる。その独白の中で、次の様な事が語られていた。ちょっと長いが引用してみよう。「彼が知っているのは銃だけ。彼の父、家族の全てがそうだった。原因はずっと過去の物かも。とても奥深い物よ」とこんな感じ。

 

ここでちょっと本稿の冒頭でアイルランドと言えば「IRA」と書いた部分を思い出して頂きたいのですが、「IRA」が何故テロを起こしていたりするのかを大雑把に言うと、アイルランドを統一する為である。イギリスの正式国名を日本語で言うと「グレートブリテン及び北部アイルランド連合王国」となる。北アイルランドはイギリスの一部なのである。1919年に始まった独立戦争の結果、南アイルランドは独立国家となったが、北アイルランドはイギリスに残される事となったのである。その事に反発した人々により結成されたのが「アイルランド共和軍(Irish Republican Army)」である。その頭文字を採って「IRA」と呼ばれるのである。

 

この独立戦争の頃から存在する組織に、コナー家の者は関わり続けていたのではないか、何かそんな気がするのである。コナーが「組織」の精鋭達と死闘をする事を覚悟の上で、堅気になろうとした事は、自分の父や祖父も、ひたすら闘争に人生を捧げて来た事を清算する為だったのではないだろうか。その連鎖を断ち切るのは、確かにかなり「困難な道」であり、「身をもって辛い思い」をしなければ、遣り遂げられない事なのかも知れない。そんな気がしました。

 

「ジャン=ピエール・メルヴィルがアイルランドで映画を撮ったらこうなったかも知れない」なんて事を誰が言ったかは知らないが、その様な評も有る本作、2010年には、エジンバラ国際映画祭の中の「失われたり、忘れられたりしたイギリス映画特集」で上映されたそうで、本国でも忘れられてるのか、と思いました。当ブログにピッタリの映画ではないですか。

 

情報サイトでは、テレビムービーと紹介されている本作、元々は劇場用だったと思われる。何故ならタイトルロールで「脚本」の部分に「screenplay」と英語表記されているから。最初からテレビ用に制作されたのなら「teleplay」となると思うのである。

 

アクション的に地味なので劇場公開が見送られてしまったとして、その事でマイケル・ドライハーストが、これ以降監督を任される事が無かったのなら、少し惜しい気がする。地味ではあるが、決して悪くは無い出来だと思うので。いつの頃からか、街中や大勢の人が居る店内などで、ド派手な戦闘や殺人を繰り広げる映画が多くなったけど、本来プロ同士の闘いなんて目立つ事を避ける筈なので、地味になるのが当たり前だと思うのであります。

 

そんな地味な本作ですが、もう一度日本でソフトを発売して頂きたい所です。