新・ウィークエンド ~その道に行くあては有るのだろうか~ | つれづれ映画ぐさ

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忘れ去られそうな映画を忘れ去る前に

1950年代後半から1960年代初頭に掛けてのフランスで、それ迄の映画制作スタイルとは異なる、新しいタイプの映画制作を始める若者達が現れ始める。スタジオ大作とは違い、手持ちカメラでの街頭ロケなど、若い感性で作られた映画は大いに反響を呼び、「ヌーヴェル・ヴァーグ」(「新しい波」の意味)と総称され、世界の映画界に影響を与える事となったのである。その「ヌーヴェル・ヴァーグ」の代表的監督で、恐らく一番影響を与えた監督と思われるのが、去る2022年9月13日に永眠したジャン=リュック・ゴダールであろう。「ヌーヴェル・ヴァーグ」の旗手と言われた若者も91歳となっていた。

 

ゴダールは、1960年代後半から毛沢東主義に傾倒、以後10年ちょっと位、一般映画を離れ「ジガ・ヴェルトフ集団」と言う映画制作集団を立ち上げ、政治映画を撮る様になって行く。そのゴダールが当時、最後の商業作品と宣言したのが1967年の『ウイークエンド』(原題『 Week End 』)と言う作品である。一般的な商業作品と言うにはかなり実験的な作品だが、これ以降10年ちょっとは完全に政治映画に移行してしまう。

 

1976年のカナダ映画にも、そのゴダールと同題の『ウィークエンド』(原題『 Death Weekend 』)と言う作品が在る。因みにゴダール作品では「イ」と大文字表記で、カナダ産は「ィ」と小文字である。細かい話ではあるが一応書いておきます。こちらは、週末を別荘で過ごそうとしたカップルが暴漢達に襲われると言う映画です。昔のホラー映画、バイオレンス映画に関する書物で、この二作品の写真がよく混同されていた。勿論、その手の書物なのでゴダールの作品が紹介される事は無い。カナダ産の映画を紹介する所で、ゴダールの『ウイークエンド』での有名な、延々と列をなす自動車の事故渋滞のシーンが、カナダ産『ウィークエンド』のシーンと紹介されていたのである。昔は情報が少なかったと言うか、その位の知識で本を作っていたりしたんだなぁ、と思うと、今の情報過多の時代とは隔世の感である。カナダ産をテレビで初めて観た時「自動車事故の列のシーンが無いなぁ」などと思ったが、有る訳が無いのだった。後にゴダール作品のシーンだと知って、「結構イイカゲンなモンだな」と思いました。そう言う間違いや勘違いは、勿論今でも充分有る話なので、インターネットの情報を鵜呑みにするのも気を付けましょう。

 

そのカナダ産『ウィークエンド』とは、カナダ映画と言う以外にはナンにも関係は無いが、「新」を冠せられたタイトルでテレビ放映された作品が在る。だいぶ長い前振りとなってしまいましたが、今回紹介する作品は、その『新・ウィークエンド』(『 Rituals 』 1977年 カナダ )であります。

 

五人の医師達が、休暇を利用して或る湖を訪れる。毎年恒例のバカンスで、どこかしらの大自然の中でキャンプなどを愉しむ事にしている様である。今年は、湖まで水上セスナで運んで貰い、そこから川を遡上して川下りを愉しむ予定である。湖にセスナが迎えに来るのは六日後である。と、言う事で、邦題の「ウィークエンド(週末)」は特別関係無いと思われ…。

 

一日目の夜、お互いに「医療ミス」の件だとか何だとかを言い争っていたりしていて、どうもこのバカンスのリーダーであるⅮ.J.と、主人公ハリーはウマが合っていなさそうである。そんな医者同士だから話せる様な、患者やその家族には決して聞かせられない様な内容でも、他には誰も居ない森の中ならOKでしょ?みたいな会話だが、実は聞いている者が居たのである。

 

翌朝、火を焚いていた場所の傍に置いていた筈の全員分のブーツが紛失していた。自分以外、誰一人として約束を守らず、替えのブーツを持って来ていない事に憤慨するⅮ.J.は、この先のダムまで進み、町と連絡を取る事を提案するが、残り四人はその提案に躊躇、まだ距離の短い湖に戻った方が良いのではと提案。ここでも意見が割れてしまうのだが、Ⅾ.J.は一人ダム行きを強行してしまうのである。人間、色々な場面で判断を迫られる時が有るが、危険な状況な時ほど、冷静な判断を下したいものである。状況が分からないダムに向かうよりも、湖まで戻った方が連絡の取れる確率は高いのではなかろうか?

 

この後、鹿の生首が突き刺され、更に蛇が巻き付けられた木が、テントの傍に立てられているのを四人が発見した時にも、明らかに判断を誤ってしまった。その禍々しい物が、アメリカの医療協会のシンボルであるカデュケウス、またはアスクレピオスの杖と呼ばれる紋章を表していると思った一行は、Ⅾ.J.の嫌がらせと思いダムに向かってしまうのである。四人の中にⅮ.J.の弟が居り、一人ダムに向かった兄を心配した事も理由ではあるが。

 

ここから、徐々に謎の人物からの地味な襲撃が始まるのであった。決して派手には襲って来ない。ジワリジワリと一人ずつじっくりと、である。かなり地味である。

 

この襲撃は、実は復讐である。この医師グループの中の一人に襲撃者にとっての仇が居たのである。全くの偶然に、自分のテリトリーに仇が紛れ込んだ様である。

 

1981年のスプラッター映画『バーニング』では襲った中に偶然、仇が居て襲撃者がその事を知らない儘のパターンだった。こちらの場合は、仇がその場所に居る必然性が有るのだが、本作の場合は、本当に全くの偶然である。実にご都合主義的ではあるが、この手の映画では細かいツッコミは無用である。ここは目をつむるべき所であろう。

 

最初は森林地帯を進み、急流な川に出て、そこを抜けると荒れ地に出る。その間、見えない敵に追い込まれて行く感じは、『ウィークエンド』よりも、ジョン・ブアマン監督作『脱出』に近いと思う。「カナザワ映画祭2019」では『荒野のいけにえ』と言うタイトルで上映された本作、テレビ放映時の邦題は『新・脱出』の方がピンと来るのではなかろうか。原題の「Ritual」とは「儀式」の事である。見事なまでにミスリードを誘うタイトルである。どうも、タイトルに恵まれていない気がする。

 

主役のハリーを演じたのは、ハル・ホルブルック。『ダーティ・ハリー2』では一連の事件の黒幕、『大統領の陰謀』では、ロバート・レッドフォード演じる記者に情報提供をする謎の人物「ディープ・スロート」を演じていた。筆者的には、『クリープショー』の四話目『箱』でのイヤなカミさんをどうにかしたい大学教授役を代表作としたい。

 

監督はピーター・カーター。代表作はピーター・フォンダ主演の『ハイローリング』と、本ブログでは何度もその名が出るギル・メレさんが音楽を担当した『深海からの侵略者サラマンダ』と言った所か。だったら本作が代表作でイイか?

 

本作のラストシーンは、サム・ペキンパー監督の『わらの犬』のラストシーンと同じ印象を受ける。『わらの犬』では、学者である主人公は、カミさんの地元で理不尽に暴力に巻きこまれる。『わらの犬』は制作年代的にも、ベトナム戦争の影響が色濃い時代の作品である。本作の主人公や登場人物の(少なくとも)何人かはベトナム戦争に従軍した医者の設定である。

 

従軍した若者達が、帰国後、どうして良いか分からない状態、茫然自失の路頭に迷った状態を、ラストで生存者を道路に配する事で表現しているのではないだろうか?本作では、この先をどっちに進めば良いか分からない、『わらの犬』では進んでも闇を抜け出せるかは分からない、みたいな。そう言えば『CUBE』での光の洪水にも同様の感覚を覚えるな。

 

映画とかの様に暴力に対抗出来た、又は、してしまった場合は、その後は途方に暮れるばかりだろう。その様な理不尽な暴力の中に投げ込まれてしまった人々の人生への絶望感、そんなものを本作と『わらの犬』には感じました。

 

全然そんな風には思えないでしょうが、本稿は筆者なりのゴダールへの追悼記事であります。そんな事は無いかな、やっぱ。