空と阿羅漢、一切の執われから離れて生きる

 

 

いつもブログをお読みいただきありがとうございます。

 

人生の疑問、「悩み」「苦しみ」「問題」が仏法真理を知ることで解決できれば幸いです

 

 

 

仏法真理の基本的考え方

 

正しき心の探求としての「四正道」

幸福になるための四つの道

 

正しき心とは、身近な言葉で言えば良心のことです。

その究極が、仏の御心、創造主エル・カンターレの御心です。

正しき心の探求をしていくことが、本当の幸福への道なのです。

 

「四正道」の四つとは、「愛」「知」「反省」「発展」です。

 

① 「愛」とは、人から「もらう」ものではなく、相手の幸福を願って「与える」ものです。与えきりの気持ちで、相手を幸福にしていく行為です。これを「与える愛」と呼びます。

 

② 「知」とは、「知は力なり」—— 「仏法真理」を学ぶことで悩みを解決でき、「智慧」が得られます。仏法真理は、そのための最高の教科書であり、参考書でもあるのです。

 

③  「反省」とは、人間には自由意志があり、その分、幸福感も生まれますが、間違いを犯すこともあります。反省は、心の間違いを修正し、明るい未来を開く道具です。たとえて言えば、“消しゴム”のようなものです。

 

④ 「発展」とは、「利自即利他」—— 信仰を通して得られた、自らの幸福や成功を、周りの人へ広げていくことです。この地上においても、幸福な人で満ちた世界を創ることです。

 

 

霊界の基本構造観

霊界は悟り(心の境涯)に応じた、多次元の階層に分かれています

 

3次元:地上界

4次元:精霊界、地獄界

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5次元:善人界(ここからがいわゆる天国)

6次元:光明界(各界の専門家達の世界)

7次元:菩薩界(ここからが天使の世界)

8次元:如来界

9次元:宇宙界

 

・霊界は、天国が圧倒的に広く、地獄はごく一部です。

 

四次元幽界の一部に地獄があります。そこは、悪想念の曇りによって、仏の光が射さなくなった暗黒の世界です。

 

ただし、地獄は、天国に対抗できるような大きな勢力ではありません。また、人間は地獄からこの世に生まれてくることはできません。

 

 

・あの世に還るときには、この世で生きた心境にふさわしい世界に還ります。

 

心の世界も、霊界と同じく、多次元構造をしています。私たちの心のなかに、天国があり、地獄があるのです。

 

その心に応じて、善い心で生きた人は天国に、悪い心で生きた人は地獄に堕ちることになります。

 

 

転生輪廻と守護霊

人間は、生まれ変わりを繰り返し、魂修行しています。そして、「魂の兄弟」の一人が、守護霊しています。

 

・人間は、魂として ”永遠の生命” を持っています

 

人間の本質は霊(魂)であり、あの世が本来の住処です。数百年に一度くらいのペースで、この世に生まれてきて、また、あの世に還っていきます。これを「転生輪廻」といいます。

 

・転生輪廻の目的は “悟りの向上”

 

人間は転生のたびに、新しい環境に生まれ、新しい出会いや経験を経て、たくさんの魂の糧を得ることができます。順境も逆境も悟りの向上のためにあるのです。

 

・あなたを幸福へと導くために守護霊が頑張ってくれています

 

この世の魂修行を、安全で有意義なものとするために、各人には、必ず一人、守護霊がついています。

 

私たちの魂は、原則、六人一組の「魂の兄弟」というグループをつくっています。そして、そのなかの一人が、守護霊を担当しているのです。

 

 

真実を知ることであなたも幸せになれる――With Savior(救世主と共に)――

あなたに『真実の世界、人生、幸福、健康に生きる方法』を贈ります。

 

 

 

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今日のブログは、Happy Science 大川隆法 東京ドーム講演集 空と阿羅漢、一切の執われから離れて生きる” をご紹介いたします。

 

 

【目次】

1.     阿羅漢とは何か

2.     釈迦の説いた「無我」の思想とは

3.     執われの自己を放ち去る「無我」の思想

4.     唯物論化した「無我」と「空」

5.     霊的なるものの見方を内に秘めていた「空」の思想

6.     「空」とは何か

7.     八不中道の真なる意味を解き明かす

8.     空とは、この世とあの世の両者を眺め、融合しながら生きていく境地

9.     「空」は阿羅漢の悟りに到る法門となる

 

 

 

■阿羅漢とは何か

 

今日は、あなたがたに、仏弟子にとって最も大切な話をいたしましょう。

 

「阿羅漢」という言葉は、確かに、日常の生活では聞かない言葉です。

 

しかし、いったん悟りを求めて修行の道に入った人間にとっては、忘れようと思っても、決して忘れることのできない言葉であるのです。

 

では、その阿羅漢とは、いったい、いかなる意味を有している言葉なのでしょうか。

 

 

それを分かりやすく語るとするならば、すなわち、「悟りたる者」「目覚めたる者」という意味であります。

 

では、この「目覚め」とは、いったい何を意味するのでしょうか。何が目覚めていない状態で、何か目覚めている状態なのでしょうか。

 

何を捨てて、何を選び、何に気がついたならば、あなたがたは、「目覚めた」と言えるのでしょうか。「悟った」と言えるのでしょうか。

 

 

確かに、その道は広く、奥深く、そしてまた高いものです。それを一言でいうのは,極めて難しいことなのです。

 

しかしながら、悟りたる者、目覚めたる者としての阿羅漢を、あなたがたに分かるような言葉で、簡単に説明するとするならば、

 

 

それは、この三次元という、私たちが現在生きているところの物質世界、すなわち、私たちが肉体を持って生きており、そしてまた、さまざまな物質によって出来上がっているところの、

 

 

縦・横・高さのある、この三次元世界のなかにおいて、「物質的なる考え方、肉体的なる思いというものを捨て去って、真実の霊的なる世界のものの見方・考え方に立つ」ということです。

 

 

 

■釈迦の説いた「無我」の思想とは

 

 

そのためには、大切なことがあります。

 

人間は、肉体を持って生きている以上、この肉体から現れてくるところの「眼・耳・鼻・舌・身・意」という六根、六つの感覚器官、意識による作用に惑わされてしまうのです。

 

 

眼で見たもので、耳で聞いたもので、鼻で嗅いだもので、舌で感じたもので、手で触れたりして皮膚で感じたもので、そして、頭脳で「こうだ」と思ったものによって、さまざまなる判断をします。

 

 

いろいろな出来事を、いろいろな人を、その感覚器官を通じて、さまざまに判断します。そうして生きていくなかで、苦しみというものが生まれてまいります。

 

その「苦しみ」とは、いったい何でしょうか。

 

それは、肉体に基づくところの、肉体から発生するところの、六根から現れてくるところの、「渇愛」とでも言うべきもの。

 

 

喉の渇きのごとく、あなたがたが、欲しくて欲しくてしかたがないと思う、その渇愛、タンハーが、実は、あなたがたの苦しみの因であるのです。

 

 

求めても求めても満たされない気持ち、それを苦しみといいます。

 

その苦しみを断つためには、苦しみの根っこを探さねばなりません。苦しみの根っことは、いったい何でしょうか。

 

六根煩悩―六根によるところの悪しき精神作用は、いったい、いかなるところから生まれてくるのでしょうか。

 

そう、それは、みなさまがたが最も当然だと思い、当たり前だと思っているところの、「自分」という視点・見方・考え方から、実は始まっているのです。

 

それぞれの人間が、まず、自分のことを考える。自分の要求を考える。そして、それを満たしたいと思う。

 

それぞれの人が、それぞれに、肉体に基づくところの自己意識から、求め、求め、求め、そして満たされない苦しみを味わいます。

 

そうです。苦しみの根源は、まさしく、その己なるもの、自分なるもの、自我なるものから、発生しているのです。

 

 

 

■執われの自己を放ち去る「無我」の思想

 

 

ごく当然に本能のままに生きていくなかに、その思いが遂げられず、手に入れられないものに対する「執着」を生みます。

 

執着とは、それに心が執われて離れないことです。その離れない心が、苦しみを生みます。

 

そうして、だんだんだんだん、心というものが、黒い想念の曇りによって覆われるようになります。

 

思うこと、なすことの一つひとつが暗黒の思想に染まり、人々への敵意、害意、憎しみ、怒り、愚痴、不平不満、足ることを知らぬ欲望、

 

こうしたものでいっぱいになって、「自分はなぜ、これほどまでに不幸であるのか」ということを考えます。そのままにいったなら、この世の中は、不幸な人で満ち満ちることになるのです。

 

 

そうです。今から二千六百年の昔に、釈迦(釈尊)が人々に教えた「無我」の思想とは、その執われの自己を放ち去ることであったのです。

 

あなたがたは、自分をかわいいと思う。

 

そのかわいいと思う自分が、自分自身に縛られることによって、肉体的なる自己意識に縛られることによって、残念なことに、その正反対に、自分自身を苦しめ、不幸のどん底に落とすことになっている。

 

 

そうであるならば、あなたがたは、その思いを捨ててはどうか。

 

「自分が自分が」「私が私が」「俺が俺が」と思うその心、それは、本当に、あなたがたを幸福にする心であるのか、思いであるのか。

 

そう思った結果が、あなたがたは、決して満たされることのない世界へと行ってしまうことになるのではないか。

 

さすれば、あなたがたは、自分自身を真に愛するためにも、「無我」ということを心に留めなさい。

 

我なるものは、実は無いのである。そう思いなさい。―そう釈迦は教えたのです。

 

 

あなたがたが自分自身だと思っているのは、実は、先ほどから述べているように、眼の感覚、耳の感覚、鼻の感覚、舌の感覚、手の感覚、その他、神経作用

 

―肉体に基づくさまざまな反応によって、幸・不幸を、快・不快を感じているだけなのです。それをいったん断ち切りなさい。

 

それが、「無我」の思想であったのです。

 

 

■唯物論化した「無我」と「空」

 

 

釈迦没後、「無我」の思想が無霊魂説にすり替えられた

 

釈迦在世の当時には、この「無我」の思想と、「空」の思想というものは、ほとんど同義において使われておりました。

 

「無我則空」「空則無我」― 「無我」と「空」は、同じような使われ方をしていたのです。

 

ところが、釈迦没後百年、仏教教団は大きく二つに分かれました。それが「根本分裂」といわれるものです。それによって、「上座部」という宗派と、「大衆部」という宗派に分かれました。

 

上座部というのは、厳格に釈迦時代の戒律を守って生きていこうとする考え方を持った団体であり、大衆部というのは、非常に進歩的で自由な気風を持った団体です。

 

この二派に分かれ、さらに、この二派が十八に分かれ、さらにまた二十に分かれて、分裂していきました。

 

こうした、分裂した仏教教団の時代を、「小乗の時代」といいます。小さな乗り物、小さなとらわれの段階にある仏教教団でありました。

 

その時代に、先ほど私が語った、釈迦の「無我」の思想が、なんと、まったく違った意味に取られていきました。

 

「我」なるものを、インドの言葉ではアートマンといいます。

 

「アートマンなるものはない―アナートマンが、釈迦の説いた説であるならば、自我なるものはない」とされ、

 

インドの言葉において、アートマンというのは、「自我」という意味と同時に「魂」という意味を持っておりましたから、

 

 

釈迦没後、二、三百年たった、その小乗の時代に、釈迦の無我の思想が、なんと、「死ねば、その後に残るものなで何もない」という思想に、すり替えられていったのです。

 

 

そして、ここに、無霊魂説というものが出てきます。

 

「魂なるものはない。人間は、死んだら、それで終わりだ。それで終わりだ。そういう悟りを釈迦は教えたのだ」という思想が出てきました。

 

 

これは大変なことです。そういう考え方をしている人であるならば、今、みなさまがたは、日本国中、どこでも会うことができるでしょう。

 

「人間は死ねば終わりである。焼かれて煙になり灰になれば、もう終わりである。死後の世界はない。魂などない」―そういうことを言っている方なで、いくらでもいます。日本中にいます。

 

しかし、それが悟りでしょうか。釈迦の開いた悟りとは、そのような思想だったのでしょうか。

 

今の日本人のほとんどが持てるような思想を、彼は悟ったのでしょうか。そんなはずはありません。

 

 

■霊的なるものの見方を内に秘めていた「空」の思想

 

そこで、紀元前後、釈迦没後五百年近い歳月が過ぎたころ、大乗仏教の運動が起きました。

 

小乗仏教のなかでは、そのような形式的なものの考え方をして、本来の悟りが失われ、人々を救う力が失われたので、大乗運動が起きました。

 

その大乗の中心になったのが、「空」の思想です。

 

先ほど言ったように、「無我」と「空」とは、釈迦在世中には、同じ意味を帯びた言葉でした。しかしながら、小乗の時代に、無我の教えが、まったくの唯物論に近い見解に流れていったので、

 

 

大乗の段階においては、この無我思想を打ち砕くために、特に、無我思想を強調していたところの「説一切有部」という部派の考えを打ち砕くために、「空」という思想を前面に出してきました。

 

 

この「空」の思想のなかには、非常霊的なる意味があったのです。

 

ところが、現代の日本では、大学の仏教学科、宗教学科へ行ってごらんなさい。

 

「無我の思想とは、霊魂がないことである」と教えている。「空の思想とは、死ねば何もかもなくなることである」と言っている。「一切がなくなることだ」と教えている。

 

間違った無我思想とまったく同じことになっている。唯物論になってしまっている。

 

こんなところで教えている人、そこで学んで僧侶をやっている人たち、すべて仏教徒にあらず、釈迦弟子にあらず、仏弟子にあらず。

 

あなたがたは考え違いをしている。そんなことを「悟り」と言うはずがあろうか。

 

霊的なる世界を自覚することなくして、悟りなるものはなかったのです。そう、空の思想とは、そのように、霊的なるものの見方を、その内に秘めていたものであります。

 

 

「空」とは何か

 

竜樹の「空」の思想① ― 肉体感覚に基づく考え(有)と、それを夢幻と見る見方(無)の両者を否定

 

空の思想で有名なのは、紀元二世紀ごろのインドに出て、大乗仏教の中興の祖となり、そして、その後、さまざまなる宗派の宗祖になったという意味で、

 

「八宗の祖」ともいわれている、竜樹、ナーガールジュナという方です。この方の「空」の思想というものが有名です。

 

この方は、空という思想をいかに説いたか。先ほど述べたように、「肉体感覚に基づいて、この世の物事すべてがある」という考えを、「有」の立場とし、

 

 

それを否定した立場、「そんなものはない。すべて夢幻だ」という見方を、「無」の立場だとするならば、

 

 

竜樹は、「空とは、この有と無の両辺を離れたところの、その中なる道にあるものである」ということを教えました。

 

 

肉体感覚によって感知され、この世での常識的なる感覚に映ずるところの物質、物体、それも確かに存在しているように見えます。感じられます。

 

生きている以上、そう無視することはできないものです。これも一通りの真理ではあります。これを、竜樹は「世俗諦」と名付けました。

 

世俗とは、この世のことです。諦とは、真理という意味です。サティアといいます。これが世俗諦、この世的なる真実、有の立場です。

 

これに対して、これを否定する立場、世俗的なる事柄、この世的なる物質や肉体、そのようなものは本来はないと否定する立場、この無の立場、霊的な立場を、彼は、「第一義諦」、第一の意味、そのような真理というふうに説きました。

 

この有と無の立場、世俗諦と第一義諦、この二つは共に真理であるが、三次元で生きている私たちは、この両者を無視することはできない。

 

この両者の中なる道―世俗諦のなかにも、第一義諦のなかにも、「この世的なる霊的生活」という真理はないという立場、この立場を、彼は「空」と呼びました。

 

有でもなく、無でもない、その中なる道を、「空」と呼んだ。そして、その空こそ「中道」であると説きました。

 

 

 

竜樹の「空」の思想② ― 八不中道(八つの否定によって現れる境地)

 

 

さらに、彼は言葉を換えて、この「空則中道」「中道則空」の教えを次のようにも説きました。

 

空なるものは、否定を通して現れるものである。いかなる否定か。いかなる極端の否定によって現れるか。釈迦は何を否定して空を悟ったのであろうか。

 

それを考えたときに、まず、「不生・不滅」生まれることなく、滅することのないもの、それが空である。

 

「不常・不断」常なるものでもなく、断ぜられるものでもない。

 

さらに、「不一・不異」一なるものでもなく、異なるものでもない。異なるとは、多様なる姿という意味です。一つでもない、複数でもない、それが空である。

 

「不来・不去」来るものでもなく、去るものでもない。

 

「不生・不滅」「不常・不断」「不一・不異」「不来・不去」― この八つの否定を、「八不」といいます。

 

 

そして、そこに現れる中なる道を、「八不中道」といいました。この八つの否定によって現れる境地、この中道の境地を、彼は空の真髄と見ました。

 

 

■八不中道の真なる意味を解き明かす

 

現代の仏教学者は、これを仏教論理学として捉えます。仏教論理学として捉える以上、この八不中道の意味は永遠にわかりません。いくら論理学を駆使しても、この否定の意味がわからないのです。

 

この「八不」の意味を、幸福の科学的真理において解き明かしましょう。

 

 

生まれることなく、滅することのない、「不生・不滅」とは何であるか。生き通しの命ではないか。

 

 

「不常・不断」、そのまま、永遠に、そのままの姿であるものではない。されども、しかれども、死ぬことを通して、すべて無になるものでもない。

 

それは、いったい何なのか。それこそ、霊的生命にほかなりません。

 

死後の世界では、あなたがたは、霊体として、生命を持ち、生活をします。

 

しかし、その世界は、この三次元の世界とは違います。あなたがたは、食べ物を食べなくとも生きることができます。空を飛ぶこともできます。思ったことろに現れることができます。壁を通り抜けることができます。自由自在の世界です。

 

このままの姿が永遠に続くわけでもなく、死ねばなくなるわけでもありません。これを「不断・不常」「不常・不断」― このようにいいます。

 

 

さらに、「不一・不異」、一なるものでなく、多なるものでもない。これは、いったい何であるか。

 

それこそ、生命の神秘そのものであります。

 

あなたがたは、自分を一人の人間だと思っているが、一人であって一人ではない。

 

あなたがたの魂の奥底、潜在意識のなかには、「魂のきょうだい」という生命が生きている。

 

原則、「本体一・分身五」の六人の魂グループが一体となって生活している。

 

その中の一人が、地上に生まれ、肉体に宿っている。これが、「不一・不異」。

 

一なるものでもなく、異なるものでもない。

 

一でもなく、多でもないとは、このことをいう。生命の神秘です。

 

 

さらに、「不来・不去」、来るものでもなく、去るものでもないとは何か

 

あなたがた、「霊界」という世界を、はるかな遠い世界だと考えがちです。阿弥陀の世界、西方浄土と考えがちです。

 

しかし、霊界とは遠い彼方にある世界ではありません。ここ(この世)をはるかに去った世界ではありません。

 

現在ただいま、みんさまがたがいるそこに、ここに、その心のなかにあるのです。

 

天台智顗が言ったとおり、「一念三千」― 心の世界は、そのまま菩薩の世界、如来の世界に通じ、はたまた地獄の世界、畜生の世界にも通じています。

 

 

そうです。これが、来ることもなく去ることもない世界の説明なのです。

 

現在ただいまが、霊界世界そのものである。そこにいる世界(この世的時空間)こそ、その世界(あの世的時空間)なのである。(現象界則霊界、霊界則現象界)

 

 

この八不中道の思想は、実に、私たちの永遠の生命と、その永遠の生命が生活しているところの霊的実相世界の秘密を解き明かしているのであります。

 

 

 

■空とは、この世とあの世の両者を眺め、融合しながら生きていく境地

 

もう一度、言います。

 

「不生・不滅」「不常・不断」「不一・不異」「不来・不去」― 「八不中道」即ち是れ「空」

 

 

空とは何ぞや。空とは霊的生命なり。空とは霊的生活なり。

 

 

霊的なる生命が、物質と霊界とが共存しているところのこの世界のなかにおいて、この世的なる仮の真実を、完全なる真実と見るのではなく、

 

この世を去った世界を、完全なる真実と見るのでもなく、その両者を眺めながら、包含しながら、融合しながら、そのなかに生きていく境地こそ、「空」である。―と教えたのです。

 

 

■「空」は阿羅漢の悟りに到る法門となる

 

そうです。空とは、そのようなものです。

 

空とは、虚無主義、ニヒリズムではありません。唯物論ではありません。何もかもなくなるという意味でもありません。

 

また、この世をすべて肯定する思想でもありません。霊的なるものと物質的なるものとを調和させながら見ていく思想、それが「空」。

 

執われることなく、流動的立場、「縁起」のなかに、すべては流れている。

 

「空」は即、「縁起」であり、「縁起」はまた、「空」であり、「空」は「中道」である。

 

そう、すべては、「諸行無常」― 変転変化のなかに、その縁起の法のなかに、「空性」なるものは見いだすことができる。

 

そこに人生の真実がある。

 

諸行無常のなかで、一切の執われから離れて生きること、それが、阿羅漢の悟りに達したということであるのです。

 

 

「空」は、かくして阿羅漢に到る法門となり、阿羅漢は、かくして「空」なるものを示すことになるのです。

 

 

 

Happy Science 大川隆法 東京ドーム講演集 第五章 空と阿羅漢  より

 

 

 

                                 

仏法真理は「真実を知ること」であなたを「幸福へ、健康へ、成功へ」導いてくれるのです。---With Savior(救世主と共に)---

 

                                                 

『真実の世界、人生、幸福、健康に生きる方法』を知りたい方は、Happy Scienceの経典をご参照ください。

 

 

 

潜在意識を使って幸福になりたい方へ

 

 

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