2014年11月6日、豊な自然が広がる丹波路へ 興禅寺(春日局の誕生地)・黒井城跡や柏原藩陣屋跡へ、今も丹波に残る史跡をあちこち訪ねてみました。
興禅寺総門
「春日局生誕の地」として知られる国指定史跡。徳川家光の乳母として有名な「春日局」は幼名をお福といい、春日局の名はこの春日の地で生まれました。
お福の父・斉藤内蔵利三は明智光秀の重臣で、光秀が丹波攻めで黒井城を落とした後、その下館を陣屋に改めました。これが現在の興禅寺で、お福はここで生まれ、三歳までを過ごしています。下館とは戦国時代の城主が合戦がない平時に住んだ場所のこと。興禅寺は水をたたえた七軒堀や高い石垣・白壁など、当時の下館の様子をよく残すものとして、国の史跡に指定されています。
境内には「お福の腰かけ石」や「お福の産湯の井戸」などがあり、江戸幕府を裏から支えた春日局の幼少期に思いを馳せることができます。
興禅寺の裏が登山口になっていて、ゆるやかコース 健脚コースの2コースがあります。
黒井城は豪勇をうたわれた赤井(萩野)直正が城主で戦国時代の丹波を代表する山城です。赤井直正は、自らを悪右衛門と名乗り、近隣の有力武将を従え、奥丹波三郎(氷上郡、天田群、何鹿群)を領し、また度々但馬へ侵攻を続けました。天下布武をめざす織田信長が、明智光秀に丹波平定を命じると、この黒井城でも明智の大軍と黒井勢との間に、二度にわたる激しい攻防戦が繰り広げられました。苛烈な戦国時代の遺構を山中に残す黒井城跡は、貴重な「戦国の城」として国の史跡に指定されています。
かなり急な坂を登った先に石踏の段が見えてきました。大手道最大の曲輪跡、切岸の遺構がみられます。
石踏の段 当時を模した赤門が設けられていて眺望が広がっています。
東曲輪跡の石垣・400余年の風雪に耐えて今に残る石垣は自然石をそのまま積んだ野づら積み。石垣もよく残り、いかにも山城の遺構らしいです。
本丸石垣。自然石そのままの野づら積みの高石垣は迫力満点です。直正の時代を生き生きと感じさせてくれました。
二の丸、三の丸、本丸跡が残る、山頂からの素晴らしい眺望が小雨の為望めず残念です。
下山途中、お二人と出会いました。雨の中登る人がいるのだなぁー 私も傘をさして登っているか
健脚コースをちょっとだけ登ってみました。 ずーっと続く石段90段ありました。
石段上は本丸まで800mの標識 次に来る機会があればこのコースで上って行きたいです。
国道から標高356m猪ノ口山が平らな山頂を見せています。この山の山頂が黒井城本丸跡
下山途中出会ったおじさんが、石踏の段・赤門で休憩されています。
木の根橋・・・樹齢1000年とも推定される巨木で、目通り幹径6m、樹高21m、枝張各25mを測る丹波市内では最大のケヤキです。本樹の根の一本が太く成長し、直下を流れる奥村川をまたいで対岸の地下にもぐり込み、長さ10mにも及ぶ自然の橋梁を形づくっていることから「木の根橋」と呼ばれています。
木の根橋横にある、八幡神社に立ち寄り
万壽元年(1024年)男山八幡別宮として創建後、明智光秀の丹波攻めで戦火にあったが天正(1582年)豊臣秀吉が武将・堀尾茂助に命じて再建された。
柏原藩陣屋跡 長屋門 柏原藩に移封されてきた織田信長の子孫、信休により、1714年に造営されました。創建当時のまま残り、当時の威容を今に伝えています。
表御殿は1820年に再建。玄関と大書院は再建当時のままその姿を残しています。入館料200円 今回は外観だけで・・・
175号線 さんなん仁王駅でトイレ休憩、帰路に