豪州北部準州で発行された歴史文書への寄稿文(和訳) | 日本は世界を平和にします

日本は世界を平和にします

オーストラリアに移住してから日本がとんでもなくいい国だと言うことに気が付きました。
世界を平和にするのは日本ですよ、間違いない。
でもそのためにはまず日本が元気にならなくっちゃね。
ダーウィンから応援しています。

2017年、ダーウィン空爆75周年記念に発行された「The Territory Remembers」空爆体験者や地元の歴史家と共に、私もダーウィンに住む日本人として寄稿しました。色々あってどうしても読み返すことが出来なかったのですが、ようやく和訳しましたのでご一読くださいませ。日本がどうして戦争をしたのか、など日本の立場からかなり突っ込んで書いています。

The Territory Remembers

A Japanese Lady Speaks
By Sachi Hirayama
 

北部準州の記憶

「日本女性が声をあげる」

平山幸子著

 

 

私は2006年、長崎市からダーウィンへ移り住みました。 今年は日本がダーウィンを空爆して75年となり、戦争を経験していない若い世代である私は誰に対しても恨みはありませんが、一部の人達はかつての敵、つまり日本を許すことが出来ずにいるようです。そこで、 何故日本が戦争を始めたのかを、日本人の立場から書いてみたいと思います。 また、現代に生きる日本人が戦争についてどのように感じているかも記します。日本側のの事情、日本人の心情を知ることで、これを読んだ人が怒りを収め、心の平安を取り戻す手助けになればと思っております。

 

1942年1月から43年に、ダーウィンを攻撃した日本のパイロットや潜水艦乗組員は豪州が憎いわけでもなく、またダーウィンを占領しようとして攻撃したわけではありません。  日本の軍人は日本を守るために命をささげ、オーストラリアの軍人たちも同様です。

今日、オーストラリアと日本はビジネスや文化交流、観光などで良い関係を持っています。 両国の軍は合同軍事演習を行い、信頼関係を築いています。 2014年カカドゥ合同演習で護衛艦はたかぜがダーウィンを訪れた時に私はその様子を目撃することができたことを嬉しく思います。 はたかぜは、日本軍によるダーウィン空爆の両方の被害者の為に慰霊祭を行いました。 慰霊式はダーウィン港で行われ、それはとても意義深いことでした。

しかしながら、第二次世界大戦中の両国の関係は違いました。言うまでもなく両国は敵国です、そして戦前当時の環境は今と大きく異なります。オーストラリアは英国と強い関係を持っており、
当時オーストラリア人はイギリスを母国と考え、オーストラリアがイギリスの植民地と考える人が沢山いたと聞いています。 その良い例がブリスベンラインです。 この線はブリスベンからアデレードを結ぶ地図上のラインで、もしこの線を越えて敵が侵入してきたら国を守るために反撃しよう、というものでした現代でも豪州南部に住む人たちはダーウィンのことをまるで他国のように扱いますから、さもありなんと思います。
 
一方日本はこの戦争を全く違う視点で見ていました、つまりは西洋と東洋の戦いです。  日本はドイツ、イタリアと 日本はドイツ、イタリアと同盟関係を結びましたので、戦いの動機が見失われがちですが、アジア諸国が西洋の国から植民地化される中で、極東の小さな列島である日本の立場に身を置いて考えてみてもらえませんか? 独立国はタイと日本だけでした。 日本人が、「次のターゲットは日本だ」、と恐れるのは自然なことです。

更に、アメリカ、イギリス、オランダ、中国が日本への石油の輸出をとめる包囲網を作ったのです。 アジアおよび有色人種の国で唯一の独立国として 領土を守るために、発展に努めていた日本には大きな打撃でした。

日本は資源に乏しい国ですから、石油の供給を止めることは、二つの選択肢を突き付けられたようなものでした、つまり戦争か降伏。
日本はアメリカとの交渉を行いましたが、全ての提案は拒否され、ついには 日本は戦う事を選びました。 日本にとっては自衛の戦争だったのです。 
 
後に   アメリカのフーバー大統領によって明らかになったことですが、フランクリン・ルーズベルト大統領は、日本が最初の攻撃をするように仕向けました。それは、アメリカの市民がイギリスとナチスドイツとの戦いに参戦する事に賛成するように意識を変えるためでした。 日本は戦争への入り口として利用されたのです。

 

二つの国の、防衛に関する姿勢には大きな違いがあったが故、軍の装備にも大きな違いがありました。日本は真珠湾攻撃を行ったのとほぼ同じ船隊で、熟練したパイロットを伴ってダーウィンにやってきました。 これはダーウィン市には大きすぎる規模でした。 一方ダーウィンは防衛の準備ができていなかった。ほとんどの兵士は銃を撃ったこともなく、初めて撃った銃声の大きさに驚くほどでした。

 
(真珠湾攻撃にも加わった)指揮官の淵田美津雄氏は、ダーウィン空爆を振り返り、”卵を砕くためにハンマーを振り下ろすようなものだった’と述べています。 軍事力の差は甚大だったのです。私は移住する前から空爆のことは知っていましたが、ここまで大規模なものだとは知らなかった。
 
空爆は2年間にわたり64回続きました。

私は自分が今住むこの小さな町を何故日本は攻撃したのだろうかと考えるようになりました。
このような敏感で難しい話題についても、気さくに話してくれるダーウィンの人々のお陰で、私は多くのことを学びました。 そして、この悲しい歴史を乗り越えようと尽力した両国の人々に感謝するようになりました。
 
戦前ダーウィンに真珠貝採取の潜水夫として住んでいた日本人は、戦争勃発後に逮捕され、戦争捕虜として収容所に入れられました。 戦後ほとんどの日本人は日本へ送り返され、唯一村上家の人々だけがダーウィンに戻りました。 彼らにとっては大きな決心であったと思いますが、彼らは地域に受け入れられます。 それはダーウィンが多文化共生の町だからでしょう。
 
1950年から61年にかけて日本の会社藤田サルベージが、ダーウィン港に沈む船の引き揚げ事業を行いました。 これには、「日本が沈めた船を日本人に引き揚げさせるのか」、という批判がありました。 しかし2年間にわたる作業の後、彼らの仕事は高く評価され、日本人のイメージを働き者の人々、と変えるのに大きな貢献をしました。

正式な調査をしたわけではありませんが、 日本人のバックパッカー(ワーホリ)の話によると、驚いたことに、ダーウィンは豪州で最も親日の町のようです。 戦争は悲惨です。しかし、オーストラリアと日本の間には沢山の心温まる話があるのです。 シドニーでは日本の特殊潜航艇の乗組員が、戦時中にもかかわらず正式な海軍葬で葬られました。

また
第二次世界大戦中に、カウラ捕虜収容所で日本人捕虜が脱走事件を起こしました。戦後、日本人捕虜墓地は、うらびれて居り 地元の人々が日本人捕虜の墓地の手入れを行い、今では美しい公園が作られ、オーストラリアと日本との和解のシンボルとなっています。
 
この話はオーストラリアでは有名ですが、日本ではあまり知られていません。 このような悲しい歴史とその後に続く話を知ることによって、両国の関係は深まるのです。
 
2015年、日本軍パイロット河原真治氏の親族がダーウィンを訪れた時には、特別なイベントが行われました。 その目的は、妻美 代子氏の遺骨を、バサースト諸島近辺で撃ち落とされた偵察機に乗っていた夫の眠る海で散骨するためでした。 この家族の儀式は豪州海軍、北部準州政府、ダーウィン市からサポートを受けました。
 
オーストラリアの人たちの温かい気持ちには感謝の気持ちでいっぱいです。 しかし残念なことに、日本がオーストラリアを攻撃したという罪悪感か、遺族がダーウィンを訪れることはあまりありませんでした。

私は過去10年間ダーウィンに住む間に、オーストラリア人の人柄の良さに多々触れましたが、私が最も感心したのが、憎しみを次の世代につなげないように努力しているところです。
 
実際に戦争を経験した人たちが世代を超えて怒りを持ち続けることは自然なことですが、少なくともダーウィンではそのようなことはありません。 それどころか、「貴方の国の為に戦った人達(この場合日本人)に敬意を払うべきだ」、と多くの人に言われたのです。 これには大変驚きました。なぜなら 日本でそんなこと(自国の為に戦った人に敬意を払うべき)とは言われたことがないし、また第二次世界大戦で大きな被害を受けた土地で、そのようなアドバイスをオーストラリア人から受けるとは思いもよらなかったからです。
 
このような話を聞く度、ダーウィンに来てよかったなと思い、 私は他の多くの日本人にも同じ経験をしてもらいたいと思い声をあげています。これが私の使命だと思っています。
 
ダーウィンや私の故郷の長崎などは、次の戦争を防ぎ、平和を保つために、自らの経験を次の世代に語り継がなければなりません 歴史的事実と心の傷を分けるのは容易ではありません。しかしながら、ダーウィンは、”前向きな姿勢”で過去を振り返り、歴史から学ぶことができる、素晴らしい街です。
 
著者情報 Sachi Hirayama came to Darwin to study at Charles Darwin University in 2006, and finished Master of Accounting in 2009 and MBA in 2013.
 
平山幸子 2006年からチャールズ・ダーウィン大学に留学、会計学修士を取得。2013年にMBA取得。 彼女はライター、日本のメディアのレポーター、イベントコーディネーター、折り紙アーティストである。
 
 

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