父の話15 | happy00514のブログ

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受診はもう少し先なので、今日は父の生き様?について

 

朝、6時前、定例の母の電話。

父さんがデイサービスに行かないと、、。

まあ、いつもの事よ。デイサービスのお姉さんやお兄さんが来ると、外面の良い父は「そうか、行こうか」と出掛けていく。送ってもらうと「お礼を渡せ」と母に言うらしく、月謝払っているからと母はやんわり断る。

 

父は、近所では、良い人ランキングで多分上位。50歳を前に父親〔私にとっては祖父〕が事故で急逝したので、山奥の実家に戻ってきた。

私は、親元離れていたので、一緒に帰ることはなかったが母親は一緒に転居した。と言っても同郷なので、母も実家近くに帰ったことになる。それから、2人は里親をして、3人の子供を成人させた。最後の子は60歳の時に引き取っている。田舎の小学校で、PTAも限られているので、長いことPTA役員や地域の活動に携わってきた。山をなかまと共に開拓して、自然が体感できる公園を作り、開園式には市から市議が来て挨拶された。頼まれると嫌とは言わない。すぐ物をあげてしまうので母は閉口した。父は良い人代表!

と、ここまでは実家に帰ってからの父。

街中で過ごしている時の生活は荒れていた。

成績は良かったらしく高校を出て大学に行きたかったが、母親が亡くなり、諸事情で進学を諦め小さなクリーニング店に勤めた。父にとっては不本意だったのか、若き青年は、ギャンブルに走る。妻子がいるのに、パチンコ、競艇とやりたい放題。お給料がまともに入ったことはなく、母が縫製工場に勤めて私たちを育てた。ついに、母は離婚を決意し、姉妹に子供を預けることまで考えたらしい。でも、どうにか思いとどまった。年金については、父はワシは60で死ぬからかけんと言ったらしい。

ふと思う。母が父を見限っていたら、父は1人だった。こうして、実家でゆっくり療養生活も送れなかった。年金が入らないので生活保護でも受けていたのかな〔今は、母の年金と少しの蓄えで生活している〕。

私が父の介護の一旦を担えるのは、母が父への愚痴を子供にぶつけなかったから。大変な家計とは薄々知っていたが、子供にとっては、優しい父だった。

父さん。母さんに感謝してねと心から思う。

時々、父に毒を吐く母。でも、84歳になっても、一生懸命に父の世話をする母。

父は大切だけど、母はプラス尊敬に値する。ちぃと、母の認知機能は下がってきてるけど、一生懸命頑張る母がいるから、共に頑張れる!