あれから15年 | 死の淵から運動で人生を好転させた好美の運動スクールUpTurn24

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普通には歩けないかもしれないと言われ高エネルギー外傷の事故からインストラクターに…
のべ1万人の運動指導歴!!
ヨガ、トランポリン、筋トレをオールオンラインで指導中!運動、体重、食事のこと伝えます!あなたの健康はあなたを大切に思う人の健康でもあります


こんにちは
生死の狭間から運動で人生を巻き返したインストラクターの好美です!





今日は10月4日
わたしの2回目のお誕生日です
お誕生日プレゼントほしいから2回作ってるわけじゃありません!(笑)





事故にあった日でした。
とても長いです
ご興味ある方はお時間あるときに読んで頂けたら嬉しいです





復活を助けてくれた素敵な人たちとの出会い、救われた言葉、復活の経緯、心の持っていき方などこれまでのことを15年とゆう節目に改めて書く事にしました






事故にあったのはもう15年前
こうやって文字にすると15年も経ったのかと思います。
ホントの意味でちゃんと歩けるようになったのは6年前だったのでそんなに経った感覚がありません。





わたしはタクシーに乗っていて、
右折途中130キロで信号無視の車がぶつかってきて側面衝突。
車外に投げ出され30メートルほど(25メートルプールよりも長い)飛びました。





大量出血、全身の数えきれないほどの骨折、肺挫傷、モルヒネ、輸血をしてなんとか命を繋いでもらって札幌の北大のICUにいました。






骨盤だけで、ものすごい数を折りました。
鎖骨骨折、膝、足の指、肋骨、首、頭のすごいコブ、顔の焦げたキズ、そこら中のアザや、えぐれ傷に、肺には水と血がたまりました。書くと結構エグいです


事故後2年とかで別の病院でここも折れていましたね、ここも怪我していましたね、という場所をたくさん言われました。





ICU→特別な部屋→一般病棟→転院→リハビリです





ICUのことはほとんど覚えていません。
一般病棟にうつってから1ミリもどこも動かしてはいけない絶対安静。
肺がつぶれて息が苦しいから鼻から酸素をもらい点滴のみでした。





頭を強く打ったせいかめまいがとまらず、輸血で39度以上の熱も出てその後も38度が2か月くらい下がらずでした





一般病棟にうつってからは特に意識がハッキリしているので、
気が狂いそうな程の痛みが毎日続きました。




この痛みを軽減することができる同意書をかく治療があったそうですがリスクも多かったみたいで




両親はさせたくはなかったけどわたしに聞いたそうな…
わたしは「歩けなくなってもいいからやってほしい」と言いました
当時の大切な人がなだめるようにその治療をしない方向にもっていってくれたみたいです。





寝てもさめても気が狂いそうな痛みに耐えるのが苦痛で仕方なかった。時に頭をかきむしって耐えてました。





足がなくなってもいいからこの痛みから解放されたいとバチあたりなことを何度も思っていたことを覚えています…





布団を握りしめて口癖は痛い、痛い、痛い、痛い、モルヒネが切れるとそれしか言わなかったと思う。
モルヒネで幻覚が見えるから変な言葉を発したりしてました。
毎日イライラして母にあたって、どこにも行き場のない気持ちをもってました。






母が疲れてディールームで休んで誰もいない間に悔しくて泣いていました。
片方の手はモルヒネの管が通っていて動かすと痛くて反対の手は鎖骨が骨折しているから動かしてはいけないから涙をぬぐうことができなかった。





痛くて仕方がないからひたすら天井のシミを数えてた…
毎日どこにあるかわかるシミ。増えることのない変化のないシミを。






転院する前に『普通に歩けるようにはならないかもしれない』と。
座っていることすら1分もできないときに言われる。
PTSDの検査も精神科医からのチェックが入りました。





1分も座っていられないわたしを車いすに乗せて8階の窓から車を見せる検査。
そんな事どうでもよかった、座骨が折れて泣きそうに痛いので必死に鎖骨が折れている方の手で体を持ち上げておしりが椅子につかないように必死だった。
そして地元の病院へ転院しました






リハビリが始まる前日に、
「1年後か、5年後か、10年後かわからないけどもっと歩行が困難になる日がくる」と言われた。






まだ歩く練習も始まっていないのに、
現実を受けとめきれず過呼吸になってしまったのを覚えてる。
何故だか太陽があがると涙が止まらず毎朝太陽を見ながら泣いてました。







リハビリを4年半もしました。
確かに少しかたびっこな歩き方で卒業しました。






そこからわたしは自問自答をする…







このままでわたしの人生終わっていいんだろうか。







終わってたまるか!





そこから大雨の日も大雪の日も2年間プールに通い続けました。
歩き続けているうちに確実に痛みが軽減していった…でも2年はかかりました。






プールがお休みに入るのでジムに移行した。そこが今仕事をさせて頂いているサンドーム音更!
わたしの体が治っていった特別な場所






マシーンで歩いてみると、
強制的に歩かされるのでこれはわたしのリハビリになると思いました。





最初は激痛で寝込みましたが、
プールの時も最初の1ヶ月は相当痛かったのでかける思いで続けました。






5、10、20分と歩けるようになり…
なんと!変でも走れるようになった…
ここにも毎日朝通うようになり走っていました…






Tシャツの色がみるみるうちに変わっていくくらい毎日頑張っている女の子がいる…
何者なんだ…という噂があったらしい…
のちにここのスタッフとして入る事になり常連さんにそのことを聞かされました。






そこで1人の男性と出会う。
その人は60歳を超えていて腹筋バキバキの100キロマラソンとかにでちゃう方。





「なんでそんなに頑張っているの?」と話しかけられ・・経緯を話す。






するとその男性は言った…







「伴走してあげるからマラソン大会にでよう」と。






わたしは本当に練習して大会にエントリーし走りきりました
たった3キロだったけど…
わたしにはどれだけ凄くて嬉しかった事か





ビリは伴奏者だったのでわたしはビリから2番目だった!
わたしは事故後初めて自分に自信をもつことができました
紛れもなくこの自信は伴走をしてくれた素晴らしい方がもたらしてくれたもの…
今も感謝しています





マラソンにいく朝、両親はわたしに遠慮がちに無理しないようにと言った。
体を治している間、誰とも会わず、友達ともあまり遊ばず、両親とも話さず、とにかく体を必死に治してました。







その完走した日、わたしから両親に完走できた事を涙をこらえながら話しをした







わたしはそこから毎朝5時に起きて朝日に向かって走るようになりました
雪の日も、マイナス20度の日も、雷の日も・・どんな天候の日もやめなかった






朝日にむかって毎日本当に毎日願いました






この世の中の人々の為になにかできることがあればさせてほしいと。。






太陽だけがわたしを見ていてくれて心を照らして救ってくれてるようなそんな気がしていました
すがる思いだったのかな…






ありとあらゆる自分を励ます言葉を本やテレビから探してその時に合う言葉を書きなぐって自分を励ましました






そこで農家のおじさんに出会う・・
「なぜそんなに頑張ってる?どこの子だ?」と言われ説明をしました。






そのおじさんは言った・・
雪の日も、雨の日も、風の日もそんなに頑張ってるんだから好美ちゃんにおてんとさんが当たらないなんて事はないから!大丈夫だと言った。






その言葉を信じ、その言葉を拾って、
泣きながら走って帰ったのを覚えてる。






わたしの努力を知ってくれている人。
いまだに会うとトラクターをなげすてて走ってきてくれる。





まもなくしてサンドームの関係者が一緒に働こうと声をかけてくれる・・
そしてもう一度勉強をし直して、資格を取り直し今に至ります。





もともとエアロビクス専攻で専門学校にいたので資格は持っていたのですが…
足から水ぶくれが消える日がないくらい毎日、毎日、練習しました。
練習しすぎて一時松葉杖になりました(笑)わたしらしい笑






レッスン後はやっぱり痛かったです。
お部屋でシクシク泣いたこともありました
やっぱりわたしには無理なのかなって…
でもそこからもどんどん良くなりました






そこからわたしの仕事の仕方は60連勤するくらいの尋常じゃないペースではじまった
とくに母は大丈夫?無理しないで!休んで!といつも言ってくるようになりました





わたしは家族の心配をスル―して働き続けました。ここが頑張り時だってわかっていたからです。





肋骨を折っても帯状疱疹になってもひたすら仕事をし続けました(汗)
堰を切ったかのようにわたしは止まらなかった。





やっと見つけたわたしの生きる道
これでやっていけるならなんだってやる。
そう思ってました






あまりに心配する母にわたしはある日言いました…





わたしは痛みや気持ちを理解してくれたり大丈夫?と心配されるよりも…
頑張れ!と励ましてほしいと正直に伝えました。





それ以来母は大丈夫?と聞きたいところを頑張れに変えてくれるようになりました







もうわたしには心配はいらない。







立ってい続けることが厳しい
座り続けていることが厳しい
左の骨盤を触ると未だに痛い
膝には爆弾がある
朝1は肺が痛くてあくびができません
深い呼吸をすることが苦手です。痛いからです。
赤ちゃんが育つスペースが骨盤のたくさんの骨折によりきびしい、諦めたら?と整形の先生はサクッと言いました。


無理をすると痙攣し呼吸が乱れるくらい骨盤と背中が痛くなる。
ワンオクの野外ライブの時は帰り歩けなくなりました
時に痛くならせてやります!(笑)
それぐらいの気持ちで向き合ってます
もう15年、右向きにしか寝れません。




これらが残っている後遺症です





たち続けない、座り続けない、動くとゆう天職につけました
痛くなるからメンテナンスをしてあげるので大事にできる体を手にいれました
膝には筋肉とゆう素晴らしいものを
あくびはお昼までとっておける!
呼吸はヨガの時間に自分と向き合いながら
子供は叶わないかもしれないけどわたし結婚してないからそっち先でしょ!爆笑






どっち向きにも寝られて、
あくびが自由にできて、
工夫しなくてよかった、
健康だった前の自分はもう思い出せません






今の体が、わたしのほんとの体!






弱さを売りにする人もいる…
わたしは強さを売りにしたい
諦めずにやればなんとかなるかもしれないとゆう光になりたい






普通に歩けないかもしれない
10年後かに歩行が困難になる…







そんな日はきっとこない






誰かが決めた、症例が決めた限界は、
それはわたしの限界じゃないんだってことをわたしは知っている







誰かの物差しにはかられちゃいけない








諦めなかった者だけが手に入れられるものがある…








運動がわたしを助けてくれたから、
運動に誠実でいたいです






そんなわたし今年の12月に嬉しいお仕事を頂きました






先生の復活してきた今までのことを、
未来ある中学生に聞かせてあげたいんです!と





子供の未来を考えている大人がいること、それにわたしを抜擢して頂けたことが嬉しかった







朝日に向かって世の中の人のためになにかできることをさせてほしいとゆう願いが叶った気がした






トンネルの最中は暗くて先が見えなかったです。しかも何年も…






ただひたすら自分を信じて諦めずに朝日に願いながら毎日走っていたあのキツイ日々が報われた今は…
過去の自分が必死に念じた今なんだってこと…







そうなりたい未来から考えればいい
そしたら今なにをやらなきゃいけないのか見えてくる。







今が未来に繋がってるんじゃない。
未来から今に繋げるんだ…






自分には負けないこれからも…








この15年とゆう間に関わってくれた全ての人に感謝します







この先もこの体1つでみなさんの健康のお手伝いをしていきたいです








長い文を最後まで読んで頂き心からありがとうございます







2017.10.4 西部好美
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※2018年10月4日
このブログに到底書ききれなかった部分を書きました✨
『あれから15年の真実』として・・



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