以前、「地頭シャッフル その2」で「努力信仰」の信者が生まれるメカニズムを考察しました。学業分野での「努力信仰」(努力原理主義と言ってもいいかもしれません)の特徴として、

・「理系職」にはほとんどいない。数理系は学ぶほど人間の理解の難しい概念・領域が広がっていて、努力の限界を理解する。

・人間が理解しやすい分野を理解できる範囲(努力が通用する範囲)で勉強して一定の成果をあげた人間がなりやすい。

ということを述べました。付け加えるならば、理系の業界は「既知の概念をどれだけ知っているか」よりも「その上で新しい知見・技術を作ること」に価値が置かれるので、「既に知られていることを良く学んだ」ことを自慢するとイタい人扱いされる、という事情もあると思います。

そんな「努力信仰」「努力原理主義」の信者は、日本全国津々浦々に存在します。彼らの信仰は最大限尊重したいと自分は思いますが、彼らが「異教徒」を攻撃するとなると話は別かな、と思います。

本稿では「地頭シャッフル その2」の補遺として、「努力信仰」「努力原理主義」の布教を受ける側の人間が、なぜ反感を抱くのかについて述べたいと思います。

補遺 その1はこちら


成果に対する「自分の努力の寄与」を過大に評価・主張する

学業であれスポーツであれ「その分野の第一人者」のインタビューを見ていると、自分の指導者や自分の練習環境を整えてくれた人への感謝、機会や運・偶然に恵まれたことの感謝、アスリートであればスポーツに適した身体に生んでくれた両親への感謝が述べられていることがよくあります。
彼らにとって一般に「努力」と呼称される練習や修練をハードにやってきたことは当たり前すぎて改めて主張するようなことではなく、「自分の努力によって手にしたわけではない先天的な才能や環境・運」があった上での「努力」の「成果」であることを、第一人者に至る過程で理解しているからだと推察します。

翻って「努力信仰」「努力原理主義」の信者の中には、自分の出した成果に対して「自分が努力したからできた」ということを、ことさら大きく主張する人がいます。しかし「自分が努力しなかったらできなかった」のは事実としても、「自分の努力」だけで「成果」を成しえたわけではありません。「周辺の環境」や「努力すれば成果に結びつく(先天的な)能力」など、「自分の努力なしに手に入れたもの」の寄与は決して小さくありません。
「自分の努力なしに手に入れたもの」への評価も感謝もなしに「自分の努力の成果」を声高に主張する、その態度を不遜だと感じる人間が少なくないから、「努力信仰」「努力原理主義」は反感を買うのだと自分は考えます。

例えて言うと、社会のシステムの中で親のすねをかじって生きている中学生が、「おれは一人で生きてきた」と言っているようなものです。中学生の中二病患者なら周りの人間も笑って済ませますが、成人しても中二病を患っていたら、白眼視されるのも仕方がないと思います。



「努力が成果に結びつかない」人間の存在を理解しない

当ブログの「地頭シャッフル」でたびだび述べていますが、「努力できること」も「努力が成果に結びつく」ことも「先天的な能力」であると考えます。
努力信仰・努力原理主義者には面白くない話だと思いますが、「努力しなくても一定以上の成果が出せる人間」が世の中には存在します。そして、「努力しなくてもできる人間」がいるのですから「努力してもできない人間」も存在します。

努力原理主義者の「努力すればできる」という主張には、「できない奴は努力していない」という価値観が透けて見える場合が多々あります。しかし、学力レベルが様々な不特定多数の生徒に勉強を教えたことがある人間で、建前やスローガン以外で「努力すればできる」と言う人間は稀です。
「努力すれば成果に結びついた自分の狭い範囲での成功体験」を拡大解釈して「努力すればできる」と一般化して主張すれば、その見識の薄さを嗤われもするし、その範囲に当てはまらない人たちが反発するのは必然ではないかと思います。



「努力」に対する承認欲求が激しい

努力信仰・努力原理主義の信者の中には、「自分が努力したこと」を他人に認めさせることに並々ならぬ熱意を持っている人たちが少なからずいます。そしてその熱意には、「努力したこと」に対して見返りがあって然るべきだ、という価値観がセットである場合が多いです。

以前、「好きこそものの上手なれ」と「努力は実る」という当ブログの記事で、次のように述べたことがあります。

自分が好きな言葉にこういうのがあります。

・三流の人は努力が嫌い
・二流の人は努力が好き
・一流の人は努力をしない

一流の人は何もしない、という意味ではなく、凡人が努力だと思ってやっていることを、もはや努力と認識しないレベルに昇華してやっている、という意味だと自分は捉えています。「自分は頑張っている」「努力している」と意識しているうちは、まだまだ二流である、とも言えます。

(中略)

自分がやっていることを「努力」と表現している段階で「好きでやっているわけじゃない」と言っているようなものだし、「報われる」という言葉が「自己の内部で完結する満足感や納得感」ではなく「他者基準の評価や対価」を前提にしているように思います。
「努力は報われる」という言葉には、「自発的な動機に基づかないことを我慢してやっている」から「外部から相応の対価があって然るべきだ」という思いが垣間見えます。



上記に書いた通り、「一流の人」は「努力」をもはや意識せずにやっているし、必要なのは努力というプロセスではなく「成果」であることを理解しているから「努力アピール」をしません。
「成果」よりも「努力プロセス」を重視・評価し「努力アピール」に実利がある小中高(最近は大学も)の教育の弊害かもしれませんが、努力信仰の信者には「努力アピール」の大好きな人たちがいます。しかし、努力アピール」は「自分は二流であること」のアピールでもあり、「努力」に対して対価をよこせという価値観がなんだか「ケチくさい」のです。

もし本当に「努力」に効果と価値があると考えているのなら、そこに他人の承認を求める必要はないでしょう。他人の承認が必要な「努力信仰」「努力原理主義」は、ある意味、信心が不足している気がします。「努力」だと意識するにせよしないにせよ、黙って「努力」すれば良いと自分は考えます。