(1)なぜ避けられたかを考える
介護保険制度が始まった当初は新しい分野への期待からホームヘルパー講習を受ける人で溢れていた。
それはこれから来る超高齢社会に向け、知識をつけたいというカルチャースクール感覚プラス資格が取れるという動機で受講する人も多かった。そこで実習などで体験してみて、自分に合うと思えば仕事として考えてみたいという人も多かった。
そして今では全く考えられないが、平成の前半、完全失業率4%を超える時代では、福祉分野への求職者で溢れていた。老人ホームの介護職員を募集すれば倍率はおそらく10倍という所もザラにあった事だろう。
今は求職者一人に対して10事業所以上が取り合う時代。なぜそうなったか考えてみたい。
(2)家族における介護とは
そもそも介護というのはどういうものだったのか、という事を紐解いてみたい。
昔は家族の誰かが高齢sになり、介護が必要となった時には「長男の嫁」が介護を担う事が多かった。それは複合家族だから出来た事でもあるが、核家族化された今でもそういう事は多いと思う。
しかし特に嫁いびりされた人なら、義母の顔など見たくないし、ましてや世話なんかしたくない。高齢になり身体が弱ってきたとはいえ、そうした過去を忘れることは出来ないという人は多い。だから都市化、少子化、核家族化という社会問題は、義両親に会わなくて済む、介護もしなくて良いという意味でプレッシャーからの解放されたという見方も出来なくはない。
本来であれば、義両親も味方につけて、うまく関係を作れば良いというのが理想である。そしてそれは乗り越えるべき壁だし、そこから逃げるのは如何なものかとも思うが、それが時代の流れというモノとも思うのだ。
つまり高齢者の世話というのは「そもそもしたくない」ものであったという現実は見過ごしてはいけないと思うのだ。
(3)事業における介護の捉え方
そして介護という新しい分野への期待というのは、事業的に見れば儲かる事。そしてその手法は「FAST ERT SLOW」。とにかく先手を取る事である。
理念などはどうでも良い。よく「そうしたいい加減な所は淘汰される」なんて言われていたが、理念などは人それぞれの価値観だし、介護に向き合うとなれば考えることにさほど差が出るわけでは無い。重要なのは盤石な経営基盤である。
転職する側も新しい分野への期待はあった。今までの社会人生活で嫌な思いをしたりで疲弊しきった人や埋もれて出世できなかった人が再起の機会ととらえた人も多かったと思う。
いずれにしてもそういう期待が一気に壊れたのはコムスンショックであり、過度にハードルを上げた制度でもあった。
そうした事を含め「介護は儲からない」「仕事は大変な事ばかり」という実態にそぐわない理想の塊のようなものになってしまった。
特に福祉というのは「奉仕精神」を求められ、押し付けられる事がある。そう考えるとそもそも介護というのは憧れの仕事になりうるだろうか。
(4)介護だけが社会的意義があるわけでは無い
こういう議論をする時にいつも思うのは「だったら議論する人がやってみろよ」ということである。勿論、やりたくない人が議論しているわけだが、介護をやりたくない人のする議論なんて、どうやって人に押し付けるかという事になるしかない。
だから「仕事のやりがい」とか「個人の満足感」とか「社会的意義」という事にフォーカスするのであるが、それはどんな分野でも同じ事だろうと思う。介護だからと言って、それが特別に感じられるものでは無い。
その点が介護の課題なのだろうと思う。
今のままでは、ブラック企業の勧誘と変わらない。介護というのは「やりがい搾取」の仕事として、ますます世間から避けられるだろう。
