(1)親の死に向き合った10年前
私の親が亡くなって10年になる。親が元気なころは、もし親が死んだらどうなってしまうんだろうという恐れがあったが、とりあえず何とかなっているというのが現状だ。それが何よりと思っている。
父親が6月、母親が11月と同じ年に亡くなったのだが、父親は急に吐血して入院。一週間程で亡くなった。母親の病気はそれ以前から分かっており、通院加療していたが、その後半年ほどで亡くなった。
父親については病気と向かい合う云々語る前に亡くなったが、母親は難病で約10カ月闘病したのちに亡くなった。今思えば、様々な思いが交錯していたと思う。
(2)死ぬ前の苦しみに苛まれた母親
親は自分が死んだ後、ちゃんと生活できるかという事が心配だろう。そして子供の方は、やはり親はいつまでも元気で生きていて欲しいと思う。
順序として親の方が早く死ぬ。それはそうだろうが、そのXデーが先になるように思う。しかし介護の仕事というのは、病気や認知症など、今までとは違う親と向き合う事になる人を支援する場面である。
そして記事のような癌に関わらず、「死ぬ」という事とどう向き合うのか、というのは実際にシュミレーションする場面はあった方が良いと思う。
一つは不治の病で、死が迫っている人にどう向き合うか。
そして「家族」を失うという事、失った後の事に目を向けるという事。
一つ目は介護とどう向き合うのか、という事にもつながる。今振り返ってみれば、親と過ごす最後の時間だったと思うが、その時はやはり大変だった。
その時親は何を考えていたのかは分からない。
病気は苦しかったはずだ。子供とはいえ、人の事を考える余裕は無かったと思う。
更に認知症で子供の頃の嫌な思い出を思い出していたようだ。
相当苦しかったに違いない。
死ぬ前にもこんな苦しさに苛まれるのか、と思えばそこに対する救いの一手は必要なものだと思ったものだ。
(3)日常的に「死」を考える
死ぬというのは生き物全てに課せられた宿命だ。
事故のような不慮な事はさておき、病気で亡くなるという事はその病気と闘う期間があるという事だ。その苦しさは他人には分からないであろう。
ただ病気と向かい合うのではない。死ぬという事が迫ってくるのだ。だから「死」というものにどう向き合うのかにもよる。それはこういう場面になってからというより、日常的に触れておく方が良いのかもしれない。そういう意味では宗教というのは人間に必要なものなのかもしれない。
