(1)身寄りのない人が現実的に出ると
先日、大学の後輩であるとある老健の事務長より相談があった。90歳代後半の女性の息子(70歳代)が無くなり、今後の連絡先が分からない。住所地の包括に連絡すると「老健にお任せします」との回答。成年後見を利用する方向にはなっているが、後見人がいつ決まるかも分からない。そうなると施設にも置いておけないので、住所地の老健に移そうと考えているんだけど、どうしたものか?という事。
本来であれば、まず探すべきは相続人という事になるだろう。対した支援はしてくれないかもしれないが、この女性の遺産を狙っているという事も考えられる。施設が勝手に動いて後々トラブルになっても困る。しかし相続人を探すというのは施設相談員のレベルを明らかに超えている。
そこでアドバイスしたのが役所を巻き込むという事。私の区では事業者指導係というのがあるし、地域包括も圏域の包括と基幹型の包括がある。住所地は隣の区という事だが、施設が直接交渉するよりは、責任の所在を明らかにして業務を進めることが大事と話した。
結果は分からないが、こういうことはありうることである。そう考えると我が身も他人ごとではない。
(2)死んだ後の事を考えるか
以前勤めていた老人ホームの経営が寺であり、そこの住職がインタビューで話していたことでもあるが、そこの老人ホームで亡くなった場合、お骨もそのお寺で引き取ってくれる。勿論、無縁仏という形にはなるし、お墓を購入する人もいたが、死んだ後の事
も任せて大丈夫という事は高齢者にとっても安心材料であったらしい。
若いうちは死んだ後のことなど考えることは少ないと思うが、いざ、そういう場面が近づいてくるとやはり心配にはなるらしい。おそらく職員には「どうでも良い」と強がって見せるだろうが、高齢者同士での話でお墓のことなどの話になると我が身に置き換えるのかもしれない。
福祉の仕事をして長くなるが、独り身であろうがなかろうが、死後の事を考えられる人は多くない。それは死への恐怖であり、忘れ去られる恐怖であり、そういうものは実は宗教が担ってきたものを最近では宗教に関わる機会も少なく、場合によってはカルト扱いされるために直視する機会も減ったと思う。だからこそそうなった時は何をしてよいか分からないし、故人の希望といっても聞いたことも無いし、という事になりかねない。
やはり死と向かい合う場面はいつか来るし、直視しなければならない問題なのだろうと思う。
(3)自分に置き換えてみると
私は独り身で、兄弟は独り身である姉がいる。どちらかが先に死んだら相続などの手続きをすることになるのだが、最後に残された時にどうするか、という事である。
可能性として交流のない親戚が後見人をやらせろと出しゃばってくるという可能性が無いわけでは無い。しかしそもそも連絡先もろくに知らないから、親戚付き合いはしていない。これからも交流することは無いだろうと思う。だから面倒を見ると言っても拒否するだろうと思う。
そうすると完全に一人になったタイミングで何らかの形で後見人を選定することになるだろう。
それで私の希望だが、海洋散骨をしてくれればそれで良い。この世に忘れ物が無いようにするのがこの世に生きた人間としての最後の務めという事だ。