無縁遺体なら引き取らないでしょ | ケアマネ時々卓球、時々その他

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仕事は介護、プライベートでは卓球を中心に、その他もろもろ思いつくままに書いてみます。テキトーな独り言です。

 

 

(1)お寺が経営する老人ホーム

私が勤めていた老人ホームはお寺の経営だったので、利用者の多くがそのお寺で葬式を行って、お墓を買っている人はそこに、何もない、お金もないという人はそのお寺の無縁仏になっていた。

 

この話はもう30年近く前の話だが、おそらく経営も変わっていないからそれは今でもそうだろうと思う。

 

実際に、自分が勤めているところがそういう姿勢だったので、正直葬式などの事で大変だったという思いは無い。しかしそういう宗教関係が経営している所ではない所ではその処理は大変だと役所の人から聞いたことがある。

 

(2)お墓の準備は

偏った常識になるのだが、代々先祖から続くお墓があって、死んだらそこに入るというのは多いと思う。しかしそれは嫡子できょうだい全てが入れるという事ではない。だから自分でお墓を生前に買っておく人は多いし、家にいると以前はよくお墓の営業電話もかかってきた。

 

つまり死んだ後のことはそれなりに考えてあり、死んだあとは残された人が混乱しないように準備しておくという事は当たり前だと思っていた。

 

しかし中にはそうでもない人もいる。

 

自分が死んだときに誰に見送ってほしいとかエンディングノートにでも書いておいてくれればよいが、死ぬ間際になってそんな作業はおそらくできない。そうすると遺族の意向に任せるしかない。親の人付き合いなど分からないし、知らない人に連絡を取るのも嫌だから、結局は家族葬とかになるのだろうと思う。

 

(3)遺骨の扱いについて

お墓については最近はビルの中の霊廟というのも増えてきた。私の利用者の家族でもお寺の住職がいたが、天候に左右されないでお墓詣りが出来るという事で人気があるそうだ。

 

しかしそもそも家族がいない人はお墓すらいらないという事もあるだろう。

 

かくいう私がその例で、私は海洋散骨を希望したい。

静かな海の底でゆっくりと眠りたいと思うのだ。(実際にはそんなことはないだろうけれど)それは私の生き様を振り返れば、そういう選択がベストのような気がする。

 

だから死後のあり方というのはその人の生き様を表しているのだろうと思う。しかしその意向を尊重できるかは残された家族の意向であり、思い通りにいかないという事もあるだろうな。

 

事件にもなったが、遺骨をトイレに流そうとした人、葬儀の帰りにわざと遺骨を電車に置き忘れる人など聞いたことがある。

 

それはお墓というものが年間費用が掛かるし、という経済的な理由もあるだろうし、そもそも葬式というものを大々的に、もしくは葬式自体をやらない人が多くなったようだ。それは人付き合いの減少だったり、家族が気を使いたくないとか、社会の変化に伴う常識の変化なのだろう。

 

社会の変化と言えばそうだろうが、人を尊重しなくなったとかいう変化というのはいかがなものだろうかと思う。