(1)再度のコメントありがとうございます。
再度コメントを頂いたので、一つ記事にまとめたいと思う。
その方は「根底に介護分野への社会や政治の位置付けのいい加減さがあると感じます。さらにその背景には、この課題を家族問題の延長としていまだにとらえる古い観念もあるかもしれませんね。」との事。まったく同意である。
その上で私見を申し述べることとする。
(2)家で面倒を見ることが出来ないという共通点
私は大学の頃から福祉に関わっている。希望は児童関係だったので、大学の頃は児童養護施設、児童館、教護院、知的障害者の作業所などでボランティアやアルバイトを行ってきた。
家族の変容という観点から見れば、その当時から大学の講義でも核家族やDINKSの話は出ていた。そして児童養護施設などは「家で面倒を見ることが出来ない」子供たちであり、「家庭崩壊で行先のない」子供たちである。
そんな私だが就職は高齢者関係ばかり。最初は病院で次が養護老人ホームだった。つまり措置制度の頃から福祉に関わってきて、介護保険の成り立つ経緯をリアルに体験したことになる。
しかしここで行きつくのも「家で面倒を見ることが出来ない」高齢者であった。
つまり家庭の変容が面倒を見ることが出来ない対象者を生み、その人たちをどのようにケアしなければならないかと言いう事は子供も高齢者も問わず、社会的な課題であったといえる。
(3)民間参入により責任逃れした行政
昔、介護は「長男の嫁」が中心に担ってきた。それが良かったというわけではない。密室の中で暴力や暴言が行われたとしてもそれが明るみに出ることはなかったからだ。それに相続争いはあったから、少しでも関わって、相続を有利に進めようという魂胆は昔からあった。やはり介護という面倒なことはしたくないし、誰か断れない身内に押し付けて、遺産はもらいたいというのはいつの時代でもあったことだ。
そういう悪い意味での「権利意識」は現代において先鋭化されてきたように思う。
そして現代においては介護施設や事業所もターゲットになっている。何かあれば賠償金をせしめてやるぞ、という時代なのだ。裁判で介護施設が利用者の家族に対して賠償金を払わなければならない判決を見ることも多くなった。
そして介護側の敗訴は「事業者・施設側の不適切事例」として処理され、その事業者が責任を負うことになる。
介護裁判の判決を見ると多くの場合、明らかに法曹界では介護に対する理解が乏しい。現場からすれば「こういう判決が出るのであれば、高齢者を受け入れられない」という事例も目に付く。
多くの介護事業者はほとんどが零細企業である。
もう既に死に体になっている事業者も多いのではないだろうか。
(4)真面目に考えてほしいのだが
こうした現状だから介護現場はいわば丸腰で戦場に赴くようなものである。
法的な支援を含め、介護の現場は「支援」が必要な状態だが、行政が行っている支援策はどうもピントがずれている。
例えば先日も取り上げた「ホームページ作成料補助」
本当の戦争ならば、人的な支援、武器の補充は必須だが、介護の支援はそういう実質的な支援ではなく「情報提供」のレベルに過ぎない。
訪問介護で人が足りないから広告費の一部を補助するとか、ホームページ作成料を補助するなんて、実際に戦場で頑張っている部隊にいる人に「兵士募集の広告を補助します」なんて言うくらいバカにした話だ。
つまりは国も本気で介護の事に当たっているとは思えないのだ。
(5)「走りながら考える」のであれば
縷々述べてきたが、介護業界は瀕死の状態になっていると言っても良い。これに対する手当はどれだけ公共的に支援を行うかという事だと思う。
すでに介護サービスがない限界集落も現れてきたという。介護というのは等しく受けられる権利があり、すでに民間は責任を負いきれないのだ。
「民間のやる事だから」と行政が責任を逃れるのであれば、だれも責任を取ることはできないで国民が犠牲になるしかない。極論かもしれないがそういう可能性は否定できないのだ。
どうせ訴えるなら「介護サービスを受けられない」地域の人たちは自治体を訴えても良い。
そうでもしないと時代は変わらない。
