この人の発言は耳半分で聞くべきだ | ケアマネ時々卓球、時々その他

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仕事は介護、プライベートでは卓球を中心に、その他もろもろ思いつくままに書いてみます。テキトーな独り言です。

 

 

(1)死へのカウントダウンの中で

<私たち団塊の世代は物わかりのよい老人にはなりません。暮らしを管理されたくない、老人ホームに入りたくない、子どもだましのレクリエーションやおためごかしの作業はやりたくない、他者に自分のことを決めてほしくない、これが私たちです。上の世代のように家族の言いなりにはなりません>(文中より)

 

最近、ちょいちょい聞くこの言葉。自立した高齢者で結構!と思うのだが、これは知識のある人はそれでよいが、知識のない方はそんなことを言っていられない。

 

良く高齢者は「いつ死んでもいいんだ」とか「早くあの世に行きたい」というけれど、その割には食事もするし病院にも言って薬も飲む。早く死にたいならそんなことしなければよいのに、と思ってしまう時はそれなりにある。

勿論、そんな言葉は口から出まかせなのは分かっている。本心では死ぬということは怖いし、あとに残す家族が入れば心配だろうし、そういう「死の準備」をするということ自体が怖いのが実際だと思う。

 

(2)永遠の命とは

「子供の時は親に従い、結婚したら夫に従い、年を取ったら子供に従う」というのは昔から美徳とされてきた。これは個人よりも集団を重んじてきた日本の「やり方」である。

 

確かに人間が生きていく中では不自由な事や不都合なことが多い。私も集団生活というのは苦手である。やはり一人でいた方が気が楽で良い。しかしその結果、人としてしなければならない結婚や子供を作り家系を繋ぐことが出来ないというのは、良くないと思っている。

 

銀河鉄道999の映画版でキャプテンハーロックが「親から子へ、子からまたその子へ、血は流れ永遠に続いていく。それが永遠の命だ」というセリフがあるが、国というのはそういう永遠の命を紡ぐことで続いていく。自分が気楽で良いからとそういうことを果たさなければ、そこで命は途絶えてしまう。

 

勿論、今は結婚しない自由もある。

それを言うとハラスメントになりかねない時代である。

しかし子供がいなくなるということはそういう「命のリレー」が出来なくなるし、年を取れば若い人に頼らざるを得ない。

 

そこにお金があればまだ良い。介護サービスもお金で買える時代になったからだ。だからそういうことを知っている人は、若い人の言いなりにならないと息巻くのは結構。しかしその選ぶサービスを行う人は若い人だということは忘れてはならない。

 

(3)若い人と高齢者の対立の中で

まあ、この人、フェミニストで女性の自立とか結婚否定みたいなことを言っている割には、自分は結婚しているという、この人を崇拝してきた人にとってはびっくり仰天なことをする人だから、こんなことを言っていても先々には言説をひっくり返すということもあるから、こういう発言も耳半分で聞くべきだと思っている。

 

最近は若い人と高齢者と対立構造が出来上がりつつある。

若い人は高齢者を支えるより自分の生活自体が成り立たなくなっていることに不満を抱き、高齢者は今まで頑張ってきたことに対する報いがこれかと愕然としている。

 

誰もが自分を助けてほしいと思っているのだ。

 

その為には、いかに不自由な生活をしてきて、そこからの脱却を目指していたかということも大事になるのだろうと思う。

 

子供のころからなんでも与えられ、不自由に対する耐性がないというのは問題だと思う。それは国が豊かになった証拠でもある。誰もが自分の子供には嫌な苦労はしてほしくないと思うだろう。その結果、ちょっとしたことでも耐えられない、自分の言うことが通らないとキレるということが起こってしまうと思うのだ。

 

まあそれを言っても、もはやどうにもならないところまで来てしまっていると思うが。