介護とは?を考える。 | ケアマネ時々卓球、時々その他

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仕事は介護、プライベートでは卓球を中心に、その他もろもろ思いつくままに書いてみます。テキトーな独り言です。

 

 

(1)台湾で見た風景

ここ数日、台湾旅行記を続けて投稿している。そこで町中で見る風景だが、車いすを乗ってお寺や記念堂に行く高齢者をそれなりに見た。特にお寺は日常的に言っているのだろう。信仰心の暑い日とは車いすの乗ってでもお参りだけは欠かせたくないだろうし、一緒にいたのがヘルパーなのか家族なのかは分からないけど、そうした想いを実現している風景は日本ではあまり見られない。勿論、日本人が信仰心が篤く、毎日お参りしている人が減ったというのもあるだろう。しかし日常的に外出したい高齢者を支援するのも、日本では色々と制約がある。ケアプランでの位置づけやヘルパー不足問題。一つ間違えば「不適切事例」として運営基準減算・返戻となる。

日本の介護保険は高齢者の為というより、指導に引っかからないためのものとしてしか機能していない。

 

(2)介護って何をするの?という疑問

高齢者の日常を、誰がどれだけ支援するのか、そしてその費用はどうなっており、介護者はそれで生活できる又は祖俺なりの給料になるのか、という出すお金ともらうお金の整合性というか、仕事としてどう成り立たせるのかという事を考えれば、日本の在宅介護というのは実に中途半端である。

例えが生活リズムを考え、おおよそのスケジュールをアセスメントしても、ヘルパーの都合で時間変更になる。例えば、お昼が12時に食べたいと思っていても、ヘルパーの都合で14時になるという事だってある。

今は介護する側にとっても一日の仕事をこなすだけで精一杯であろう。研修で「アドバンス・ケアプラン」とか言って「その人らしく」なんてことを言われるが、現実的にはどのように生きたいか特に希望を言うわけでもないし、特に思ってもいない。ただ穏やかに日常を過ごしたいという人に「生き甲斐は」などと聞く事もナンセンスである。

つまり介護というのは日常を穏やかに過ごす事が第一で、それから趣味などがあり、という難しく考える必要はない。それを重箱の隅をつつくように問題を掘り起こしたりするもんだから、余計ややこしくなる。

 

(3)ADLだけを考えれば

確かに介護というのは家族だけで行うのは難しい。家族の中でもなんだかんだ理由をつけて押し付け合うのは当然のこととなっている。

だから本来であれば古来の複合家族であれば介護する人もいるのだろうが、逆に密室で何が行われているかは分からない。それを考えれば介護保険サービスを使って、現状を可視化できているのは悪い事では無い。

それにADLだけを考え云々であれば、施設に入所してもらって、日中は家族が面倒をみるという、逆デイサービスみたいなことがあっても良い。もっとも施設に入ったら家族は丸投げするだろうけど。

 

やはり介護される側が同居していると大変だ、というのが共通意見だろう。

誰かが犠牲になる事で今の介護は成り立っているという風潮が強くなって行っているのかもしれない。

 

本来であれば「アドバンス・ケアプラン」というのは必要な事だろうと思う。その人がその人らしく生きるという事だから。しかしそれは本人が主体とならないと、周りが想像してもおそらくイコールにはならない。それに特に何もしたくないという人の意見や、家族がどうしたいかという本音は言えない。

 

これから介護を考える時、本人の希望を優先するか、家族の意見を優先するか、そのマウントの取り合いになるのかもしれない。