(1)親の介護が迫る時期
50歳を半ばを過ぎると、そろそろ同級生の親も介護が必要になってくる時期になる。私の親は9年ほど前に両親ともに亡くなった。その時を思い返してみれば、父は介護サービスを全く使わず、母は父が死んだ後、半年ほどデイサービスとショートステイ、福祉用具を使った後に亡くなった。
両親の異変には随分後まで気付かなかったと思う。父は入院する前日まで自転車に乗っていたし、母も特に変な事を言ってはいなかった。それがやはりおかしいぞ、と思うようになったのは父が死んだ後、認定調査を受けていた時に季節が分からなかったときだ。
(2)受け入れられない辛い時期もある
地元で働いているから同級生の親も数人担当した。
私も同じだが、まず自分の親が年を取り、見た目からも老人になっていくのはしょうがない。
立ち居振る舞いが鈍くなり、場合によっては福祉用具を使うという事も、例えば歩行器くらいであればまあ、しょうがないだろうと思うが、車いすになるとやはりいろんな思いがチラつく。
その上で分かった気でいるというか、受け入れなくてはという「頭では分かっている」状態というのがメンタルを保つのに苦労する時期かもしれない。「これからどうなってしまうのか」「自分に介護なんて出来るだろうか」
それはその先にある「親が死ぬ」という現実を、受け止められるかという所から来ているだろう。
親というのは子供にとって怖い存在であり、優しい存在であり、そして一番頼りになる存在である。その人がこの世からいなくなる。あとは自分で何とかしなくてはならない。それは真の意味で自立するという事かもしれないけど、その瞬間が刻一刻と近づいてきているというのは恐ろしいものだ。
(3)振り返ってみれば
結論から言えば、親より子が長生きするのは一番の親孝行だと思う。そして親の葬式というのは子供の自立の宣言のような式かとも思う。
自分の例で言えば、死後の手続きでてんてこ舞いした。
まず、戸籍謄本を取る。銀行の手続きを行う。それから相続の相談で税理士とも打ち合わせをしたり、やる事は多い。
場合によっては相続で裁判をするという事もあるだろう。
そんなこんなをしているうちに時間が過ぎ、過去のものになる。いつしか「親を看取った」自分として生きていくようになる。それは人生でも必要な過程なのかもしれない。
その後が全て自己責任。
第何章かは分からないが、ここからが新しい人生の始まりでもある。
今、のんびりと外を眺めてみればいつもと変わらぬ日常風景が目の前に広がっている。そこに行き交う人それぞれが、それぞれの人生を抱えながら生きているという事だ。
人生ではそういう場面がいくつかある。親の介護はそういうものの一つだと思う。
