(1)新型インフルエンザを思い出した。
コロナウィルスが出て、日本でも緊急事態宣言が出されたのももう今は昔の話。
あらゆるものがストップした。
スーパーも入場制限がかかり、スポーツ施設は閉鎖。皆マスクを強いられ、人との距離をとるソーシャルディスタンス。
それでも私はその数年前に流行した新型インフルエンザを思い出した。空港で走り回る職員が滑稽だと言っていた人がいたが、私も同感で「かかる時はかかる」と腹をくくっていたから、何とも思わなかった。
(2)本当に恐怖におびえていたか
我が介護業界もかなりの注意喚起が行われた。
新型インフルエンザの時、ヘルパーが媒介となってウィルスを持ち帰って家族に移してしまう恐れがある事からヘルパーの仕事を辞めるという人が多かったことがこのブログでも何回も書いた。同様に今回もそういうことは起こり得るだろうと思っていたが、自分の範囲では何とか業務を回すことが出来て事なきを得た。
しかし本当に恐怖におびえていたのかは疑問だ。
例えばマスクをしていない人に注意するのも、本当に危険だから注意したのか、怒鳴りつけることができる大義名分があるから怒鳴りつけたのかは分からない。
そもそも不織布マスクは、コロナウィルスをパチンコ玉くらいに拡大したら、マスクの繊維は10㎝四方になると言われていた。だからマスクをしてもウィルスをブロック出来るわけはない。
もし、マスクが有効というなら、それは会話をしないとかの他の要因だ。
だからそれを理解している人は、おそらく他人に文句を言われないためにしていたと思う。
とりあえず人を攻撃する事が正義になる場面でもあった。
(3)死生観
コロナウィルスが原因で亡くなった方は多くいるだろうと思う。
あの時に注意していればと悔やむこともあるだろう。
しかし私が当時思ったことは「かかる時はかかる」し、その時の医療で助からなければしょうがないと思ったことだ。
おそらく私は覚悟が出来ている。
失うものもない。あったとしてもそれは現世におけるものであり、自分自身がこの世に生まれ、生きた事について、これ以上望むものもない。
勿論、積極的に死にたくはない。
それに特攻隊の方々のように、人の為、国の為に死にに行くという覚悟は当然ない。そこまで人や国に対して感謝の念や残していく家族の面倒を、という気持ちもない。
しかし人を押しのけてまで、狡賢くも生きてやろうという気が全く無いのだ。
コロナという現象はこういう事を見つめ直す機会になったのかもしれない。