けじめの意味でも終活は必要 | ケアマネ時々卓球、時々その他

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仕事は介護、プライベートでは卓球を中心に、その他もろもろ思いつくままに書いてみます。テキトーな独り言です。

 

 

(1)本来は遺言は必要

個人的な見方だが、私は独り身である。姉はいるが不仲であるしどうでもよい。それでも私が先に死ぬのであれば相続は向こうに行く。土地もあるから向こうとしては万々歳だろう。

それで逆になった場合、向こうの財産をこちらが相続することになるし、そこまでは良い。それで私が死ぬときの事だが、正直要望は無い。

墓もいらないから散骨してくれたらよい。残されたものは法律の則って好きにしてくれたらよい。

本来は遺言は必要だとは思うが、残す人がいない場合はどうでもよい話とも思わなくもない。

 

(2)終活は必要なのだが

おそらく大体の人がこんな感じで思っているように思う。それは身寄りのある人も同じで、決めかねていたとか自分はまだ死なないと思っていたとかいうならまだしも、死というものに向かい合うのが怖いので出来るだけ見ないようにしているという人もいる。

それに藪から棒に終活の事を言い出したら「もう死ねってことか!」と怒る人だっているかもしれない。

 

宗教を信仰している人は、そうした事を日常的に学んでいるので準備をするきっかけにもなるだろう。

しかし宗教をはじめとする「死ぬ」という事が身近にない場合、考えること以上に不安にさいなまれることもあるだろう。

そうした事を打ち明けるには相当な信頼関係が無いと難しい。私のようなケアマネでもそこまで踏み込める人はほとんどいない。

 

(3)無謬性の行政だからこそ

従って、そこは行政の出番と言えなくもない。

しかし、社協が出しているエンディングノートには所々社協への寄付をお願いするという姑息な事もあるから全面的に信用は出来ないが。