ここ数日、何となく忙しくてブログを見ていなかった。久々見ると何だかヘンなコメントがついていた。
以前、「強い?弱い?」というテーマで、片麻痺の女性が道路に立って道行く自転車を誰彼かまわずに怒鳴りまくっているのを見て、「弱いからって何をしても良いってものじゃない。」と書いた。そうしたらまず「駄目だ」と始まり、「なってみれば分かる」「変わってくれ」などと続く。
私はバーチャルシニアを経験した事があるが、所詮健常者なので「なってみれば分かる」と言われてもなってないから分からない。ついでに故意的に障害者になろうと思わない。
いちいち反論するにはバカバカしいコメントだから削除したし、本来であれば無視確定なのだが、今日は時間があるので軽く反論する事としよう。
私の好きな言葉に「幸せは一様に幸せだが、不幸は個々に不幸である。」というものがある。
身体の不自由な人を見れば気の毒に思う。
別に自分が優越感を得ているわけではない。自分には自分の、他人には理解できないであろう、個々の悩みはあるからだ。
しかし、不自由になったと言う事は好きでなったわけでも無く、生きていく中で色々と不都合な事があろう事は十分に理解できる。
だから一定の配慮は社会として必要だ。
しかし何でも許される特権が与えられるわけではない。
特に一部の例外を除き、いかなる場合でも暴力・暴言など人を傷つける行為を肯定してはならない。
健常者でも障害者でも、良いことは良い、悪いことは悪いのだ。
社会で生きていく事は一定のルール・モラル、特に協調が必要だ。
そして障害のあるなしに関わらず、幸せ不幸せをどのように人生の中でとらえ、前向きに生きるか、後ろ向きに生きるかの違いだ。
後ろ向きに生きる事が悪いとは言わない。
しかし、繰り返すが何でも許される特権が与えられるわけではない。ストレスのはけ口に他人を使っていいなんてことはない。
福祉職はとかく誤解される事が多い。
特に「良い人」というイメージがあるらしく、「何でもしてくれる」「何でも受け入れてくれる」「何でも許してくれる」人が良いと思っている人は意外といる。
私は福祉職とは人生の伴走者だと理解している。
生きていく主役はあくまでもその人自身である。
励ましもするが悪い事を指摘する事もある。
反社会的な行動を許さない毅然とした態度も必要だ。
ましてや高齢者や障害者のストレスのはけ口ではない。
我々はその人を支えているのであって、何でもかんでも背負っているわけではない。
辛い気持ち、寂しい気持ちがあるのだから他人を怒鳴っても傷つけても良い、何でも許してやれ、お前もなってみれば分かると言うのは、まったくもって愚の骨頂、慇懃無礼、笑止千万である。
文章にしてみればまったく当たり前の話だが、理解できない人には理解できないかも。ニーズとディマンドの違いという実はちょっと難しい話なのだ。