人生の岐路というのは、 

突然やってくるものだと思っていました。

 

 

でも実際は違った。

じわじわと、少しずつ、 

積み重なっていくものだった。

 

 

子どものため。 

経済的な不安。

 世間体。

 

 

「今は動けない理由」は、

いくらでも出てきた。

 

 

どれも本当のことだった。 

嘘をついていたわけじゃない。

 

 

でも今思えば、それは

動かない自分を守るための理由

でもあった。

 

 

本当は薄々わかっていた。 

このままじゃいけないと。

 

 

でも、わかっていながら

動けない自分を正当化するために、 

「子どものため」「まだ早い」

「もう少し待てば変わるかもしれない」 

という言葉を、自分にかけ続けていた。

 

 

それは優しさじゃなかった。

 

 

恐れからくる、先送りだった。

 

我慢には、賞味期限がある

 

我慢は、美徳だと思っていた。

耐えることが、誠実さだと思っていた。 

黙って続けることが、責任だと思っていた。

 

 

でも、我慢には賞味期限がある。

 

 

どれだけ丁寧に積み上げても、 

いつか必ず限界がくる。

 

 

私の場合、

それはある日突然やってきた。

劇的な出来事じゃなかった。 

日常の中の、ささいな出来事だった。

 

 

でも、その瞬間に思った。

 

 

「私はいったい、

誰のために生きているんだろう」

 

 

その問いが浮かんだ瞬間、 

それまでの迷いがスッと消えた。

 

 

限界を迎えるまでの間、

私はずっと揺れていた。

 

 

進もうとしては、怖くなって戻る。 

決めようとしては、また迷う。

その繰り返しだった。

 

 

当時の私は、その揺れを

「弱さ」だと思っていた。

 

 

覚悟が足りないから揺れる。 

本当に決意した人は揺れないはずだと。

 

 

でも、違った。

 

 

揺れていたのは、

それだけ真剣に向き合っていたから。

 

 

子どものことを真剣に考えていたから。 

自分の人生を真剣に考えていたから。

 

 

揺れることは弱さじゃない。 

揺れながらも、そこに留まり続けることが、 

前に進むための準備だったと今は思っています。

 

「揺れながら進む」

とはどういうことか

 

限界を迎えた後、私は動き始めました。

迷いが完全に消えたわけじゃなかった。 

不安がなくなったわけでもなかった。

 

 

それでも動けたのは、

一つの問いに正直に答えられたからです。

 

 

「このまま死んでも、後悔しない?」

 

 

答えは明確だった。

後悔する。

 

 

その答えだけを持って、

揺れながら進み始めた。

完璧な準備なんてなかった。 

完全な覚悟もなかった。

 

 

でも、

命基準の答えだけはブレなかった。

 

 

それで十分だった。

 

子どものためと、

自分のため

 

一つ、正直に話させてください。

 

 

「子どものために我慢する」

という選択は、一見美しく見える。

 

 

でも、我慢し続けた親の背中を見て

育つ子どもは何を学ぶだろう。

 

 

我慢することが愛情だと学ぶかもしれない。 

自分を犠牲にすることが、

当たり前だと学ぶかもしれない。

 

 

本当に子どものためを思うなら、 

自分が自分らしく生きている姿を

見せることの方がずっと大切かもしれない。

 

 

これは、我慢をやめる言い訳じゃない。

子どものためと、自分のため。 

その二つは、本当は

矛盾しないと私は思っています。

 

 

今、人生の岐路で止まっているあなたへ。

揺れていい。 迷っていい。

ただ一つだけ聞いてみてください。

 

 

「その我慢は、誰のため?」

 

 

子どものため、誰かのため、

と答えが出たなら、 もう一つだけ。

 

 

「その我慢を続けた先に、

あなたの命は輝いていますか?」

 

 

答えが出た時、 

それがあなたの命基準の答えです。

 

 

揺れながらでも進んでいい。 

完璧な覚悟なんて最初からなくていい。

 

 

自分の命に正直な一歩が、

あなたの人生を動かし始める。

何をやっても、

空回りしていた時期がありました。

 

 

チラシを作って配った。

メニューを変えた。

毎日必死に動いた。 

 

 

でも何も変わらない。

むしろ、じわじわと追い詰められていく。

 

 

そんな私が、自分軸を取り戻したきっかけは、 

意外にも「限界」が来た瞬間でした。

 

 

少し、私の話を聞いてください。

 

 

昨日まで専業主婦だった私が、

今日から個人事業主。 

右も左もわからないまま、

従業員を抱えて、店を回す毎日が始まりました。

 

必死なのに、何も変わらない

 

経営は、最初から赤字でした。

とにかく売上を上げなければ。 

そう思って、できることを全部やった。

 

 

クーポン付きのチラシを作って、

店の外に立ってビラを配った。 

お得なセットメニューを考えた。 

新メニューを試した。 

 

 

毎日、頭の中は売上のことだけ。

でも、どれだけ動いても

状況は変わらなかった。

 

 

従業員の顔を見るたびに思う。 

この人たちの生活を守らなければ。

その責任感が、

私をさらに追い詰めていた。

 

 

気づけば視野はどんどん狭くなって、 

目の前のことだけに必死で、 

自分が今どこに向かっているのかさえ、

わからなくなっていた。

 

限界が来た時、

初めて立ち止まれた

 

「もう、どうにもできない」

そう感じた瞬間がありました。

 

 

不思議なことに、

その時初めて冷静になれたのです。

 

 

必死に動き続けていた手が止まって、 

少しだけ遠くから、

自分の状況を眺めることができた。

そして気づいた。

 

 

私は、頑張る方向がズレていた。

 

 

売上を上げようと、

チラシを配ってメニューを考えて。 

 

 

全部、間違いじゃない。 

でも、それだけに囚われていたのです。

 

 

視野が狭くなっていたのは、

疲れていたからじゃない。 

 

 

自分軸を失って、

「店を存続させること」だけが

目的になっていたからだったのです。

 

過去の自分が、

答えを持っていた

 

その時、ふと思い出したことがあります。

 

20歳の頃から、

私はインターネットで情報発信をしてきた。 

ネットショップも運営してきた。

なぜそれを、今使っていなかったんだろう。

 

 

「飲食店の経営」という

枠の中だけで考えていたから、 

自分がもともと持っていた力を、

完全に忘れていた。

 

 

視野が狭くなるとは、

こういうことだと思いました。

 

 

外から答えを探し続けて、 

自分の内側にあるものが見えなくなる。

 

 

自分軸を失った時、

人は自分の外側ばかりを

見るようになってしまうのです。

 

目の前がパッと開けた瞬間

 

インターネットを活用しようと決めた瞬間、

目の前がパッと開けた感覚がありました。

 

 

自信が湧いてきた。

 

 

売上がすぐに劇的に変わったわけじゃない。 

店の赤字がなくなったわけでもない。

 

 

でも、別の収入源を作ることで、

赤字を補填できるようになった。 

 

 

そして少しずつ、

気持ちに余裕が生まれた。 

余裕が生まれたら、

従業員との関係も変わってきた。

 

 

状況が変わったんじゃない。

私の見ている方向が変わったから、選択肢が増えた。

それだけのことだった。

 

自分軸とは、

「自分の力を信じること」

だと知った

 

あの経験を通して、

私は自分軸というものの意味を、

体で理解することができました。

 

 

自分軸とは、

わがままに生きることじゃない。 

自分の好きなことだけをすることでもない。

 

 

追い詰められた時でも、

自分の中にある力を信じて、

そこから答えを探すこと。

 

 

外の正解ばかりを追いかけている時、人は迷う。 

誰かの成功事例、流行りの方法、常識的な選択。

 

それが悪いわけじゃない。 

 

 

でも、自分の中にある答えを

無視したまま外を探し続けても、

どこかで必ず行き詰まる。

 

 

限界を感じた時こそ、立ち止まるサイン。 

視野が狭くなった時こそ、自分軸がズレているサイン。

 

 

今、必死に動いているのに

何も変わらないと感じているなら。

少しだけ聞いてみてください。

 

 

「今、頑張っている方向は、

本当に自分が選んだ方向ですか?」

 

 

答えを外に探す前に、 

一度だけ自分の内側を見てみてください。

 

 

あなたが今まで生きてきた中で

積み上げてきたもの、 

培ってきた力、 

忘れていた得意なこと。

 

 

それが、迷いを抜け出す鍵になる。

私がそうだったように。

長い間迷走し続けて来たわたし。

 

 

こんなに揺れている私が、

前に進んでいいんだろうか・・・

 

 

ずっとそう思っていました。

 

 

「覚悟が決まってから動く」 

「迷いがなくなったら、本物だ」

 

 

そんな言葉をどこかで信じていて、

迷いのある自分は、

まだ動いてはいけない

動く資格がないと思っていました。

 

 

でも今は知っています。

 

 

迷いは、弱さじゃない。 

迷いながらでも、進める。

 

 

そして、迷いながら進んだその先で

初めて、本当の自分に戻れる瞬間がある

ということを。

 

 

実は、自己一致という言葉を知ったのは

わりと最近のことなんです。

 

 

でも、自分がズレていることには、

ずっと前から気づいていた。

 

 

笑っているのにどこか空虚。 

「いい選択をした」はずなのになぜか苦しい。 

頑張っているのに満たされない。

 

 

周りから見れば、ちゃんとやっている人。 

でも内側では、何かが静かに叫んでいた。

 

 

「これ、本当に私がしたかったことじゃない」

 

 

その声を私は長い間、

無視し続けていました。

 

 

うるさい、今は無理、後で考える。

そうやって蓋をするたびに、

内側の声は少しずつ小さくなっていきました。

 

自己一致を失うのは、一瞬じゃない

 

よく「あの出来事で変わった」

という話を聞きます。

 

 

でも私の場合、劇的な瞬間はなかった。

 

 

少しずつ、少しずつ、

自分の本音より他人の期待を

優先する選択を積み重ねてきた。

 

 

「波風を立てたくないから合わせる」 

「怒られたくないから言わない」 

「迷惑をかけたくないから我慢する」

 

 

一つひとつは小さな選択。 

でもそれが積み重なって、

気づいた時には自分の輪郭がぼやけていた。

 

 

自己一致を失うのは、

侵食されるように静かに起きるのです。

 

 

だから気づきにくい。 

だから怖い。

 

迷いこそが、戻るサインだった

 

転機は、大きな決断の前でした。

 

仕事のこと、関係のこと、

これからの生き方のこと。

 

 

頭では「こうすべき」という答えが出ている。 

でも、どうしても体が動かない。

その時、自分に問いかけました。

 

 

「今、何を守ろうとしている?」

 

 

答えが出るまでは、

少し時間がかかりました。

 

 

…誰かの期待。 

…失敗しない自分のイメージ。
…「ちゃんとしている人」という見られ方。

 

 

全部、自分の外側にあるものだった。

その瞬間、気づいたの。

 

 

私は、自分を守ろうとしていなかった。って

 

 

迷いは弱さじゃなかった。 

 

迷いは

「今、あなたは自分の外側を生きていますよ」

という、内側からのサインだったのです。

 

自己一致を取り戻した瞬間は、劇的じゃなかった

 

覚醒の瞬間というのは、

もっとドラマチックなものだと思っていたけれど、

実際は静かなものだった。

 

 

ただ、

「これは私の望みじゃない」と静かに認めた。

 

 

誰かを責めるでもなく。 

自分を責めるでもなく。

ただ、事実として受け取った。

 

 

「私はずっと、誰かの人生を生きていた」

 

 

そう気づいた瞬間、何かが緩んだ。

泣いたわけじゃない。 

感動したわけでもない。

 

 

ただ、長い間ずれていたものが、

静かに戻ってきた感覚がありました。

 

 

それが私にとっての、

自己一致を取り戻した瞬間でした。

 

 

迷いながらでも進んでよかった♡

 

 

あの時、迷いが消えるまで待っていたら、

今もまだ止まっていたと思う。

 

 

迷いは消えなかった。 

でも、進んだ。

 

 

迷いを抱えたまま、

それでも「命基準の答え」を選んだ。

 

 

そうしたら、迷いは少しずつ

形を変えていった。

 

 

恐れからくる迷いが、

問いからくる迷いに変わった。

 

 

「失敗したらどうしよう」じゃなく、

「どう生きたいのか」を迷うようになった。

 

 

それが、自分を取り戻した証拠だった

と今は思っています。

 

 

もし、あなたが今

何かを迷っているのなら、

その迷いを消そうとしなくていい。

 

 

ただ、一つだけ聞いてみてください。

 

 

「今の迷いは、

誰の人生を生きているから生まれている?」

 

 

あなたの命が「こっちだ」と言っているなら、 

迷いながらでも、進んでいい。

 

 

自己一致は、

完璧な状態になってから戻るものじゃない。

 

 

自分に正直な一歩を踏み出した

その瞬間に始まるのだから。

ずっと、動けなかった。

 

 

頭ではわかっている。 

このままじゃいけないって。 

変わらなければいけないって。

 

 

でも足が、動かない。

 

 

「もう少し準備してから」 

「もっと条件が整ったら」 

「誰かにお墨付きをもらってから」

 

 

そうやって、また一日が過ぎていく。

 

あなたにも、そんな経験がありますか?

 

止まっていたのは、

臆病だったからじゃない

 

私はずっと自分のことを

「決断できない弱い人間だ」と思っていました。

 

 

踏み出せない自分を責めて、 

また責めた自分を慰めて、 

そしてまた責めて。

 

 

でも、ある時気がついたんです。

 

 

私が動けなかったのは、

臆病だったからじゃない。

 

 

「失敗したら終わり」という思い込みを、 

ずっと信じ込まされていたからだって。

 

 

親に言われた言葉。 過去の経験。 周りの目。

 

 

気づかないうちに、

それが私の中の「ルール」になっていた。

 

 

「慎重にしなければ、傷つく」 

「完璧じゃないと、認めてもらえない」 

「失敗したら、もう取り返せない」

全部、誰かから借りてきた恐れだった。

 

「決断できない」のではなく、

「決断を怖れていた」だけ

 

ここ、大事なので聞いてください。

 

決断できない人なんて、

本当はいないと私は思っています。

 

 

だって、私たちは毎日

何百もの決断をしているんですから。 

 

 

今日何を食べるか。 

誰に連絡するか。 

どの道を歩くか。

 

 

小さなことは、当たり前に決められる。

じゃあ、なぜ「人生の決断」だけ止まるのか。

 

 

それは、

「その選択が本当に自分のものかどうか」

が、わからなくなっているからだと私は思う。

 

 

誰かの期待に応えようとして選ぶのか。 

世間の正解に従って選ぶのか。 

それとも、自分の命が

「こっちだ」と言っているから選ぶのか。

 

 

その違いが、わからなくなっている。

だから怖い。 だから止まる。

 

私が自分を信じて動けたのは、

ある問いに出会ったから

 

正直に言います。

 

誰かに背中を押してもらったわけでも、

すごい言葉に感動したわけでもない。

 

 

ただ、ある時ふと自分に問いかけたんです。

「このまま死んでも、後悔しない?」と。

 

 

それは、静かな問いでした。 

でも、逃げられなかった。

 

 

「後悔する」

 

 

即答でした。

 

言い訳も、条件も、「でも」も、

何も出てこなかった。

 

 

ただ、「後悔する」という答えだけが、

静かに、確かに、そこにあった。

 

 

それが私の答えだった。 

誰かに承認してもらう必要のない、

私の命が出した答え。

 

一歩踏み出すのに、

準備は要らなかった

 

踏み出した後にわかったことがあります。

 

 

それは、

準備が整ってから踏み出したわけじゃなかった。

ということです。

 

 

踏み出したから、

初めて足場ができた。

 

 

準備を待っていたあの時間は、

本当の意味での準備じゃなかった。 

 

 

ただ、怖れを

先送りしていただけだったんです。

 

 

完璧な条件なんて、永遠に来ない。 

完全な保証なんて、誰も持っていない。

 

 

それでも動けたのは、

「命基準」で答えを出したから。

 

 

誰かに認められるためじゃなく。 

失敗しないためでもなく。

 

 

ただ、

このまま生きることのほうが、

もっと怖かったから。

 

 

今、あなたは何かの決断を前に

止まっているのかもしれないけれど、

責めなくていい。 急がなくていい。

 

 

ただ、一つだけ聞いてみてください。

 

 

「その迷いは、誰の恐れですか?」

 

 

あなた自身の恐れですか。 

それとも、誰かから借りてきた恐れですか。

 

 

もし少しでも

「借りてきたかもしれない」と思ったなら、 

それはもう、あなたが気づき始めている証拠。

 

 

覚醒はいつも、静かに始まります。

大きな感動の瞬間じゃなく。 

ただ、自分に正直な

一つの問いへの、正直な答えから。

 

 

あなたの人生の決断権は、

最初からあなたにある。

 

 

誰かに渡す必要はない。 

誰かの承認を待つ必要もない。

 

 

それは本当に、あなたの望みですか?

 

 

その問いを、今夜静かに

自分に届けてみてください。

突然ですが、聞かせてください。

今この瞬間、命が終わるとしたら。

あなたは「悔いがない」と言えますか?



怖い問いだと思う。

不謹慎だと感じる人もいるかもしれない。



でも私は、この問いこそが

人を一番正直にさせると思っています。



私たちはどこかで、

「まだ時間がある」

と思いながら生きています。



「落ち着いたら、やりたいことをやろう」

「子育てが終わったら、自分の時間を作ろう」

「もう少し余裕ができたら、本当のことを言おう」



でも。

その「いつか」は、保証されていない。

これは脅しじゃない。

ただの、事実です。



私が「命基準」という言葉を軸に

生きるようになったのは、

この事実をやっと正面から

受け取れるようになったからでした。



「悔いなく生きる」は、

きれいごとじゃない



「悔いのない人生を」

という言葉はよく聞きます。



でも多くの場合それは、

どこか遠い話として語られている。



卒業式のスピーチ。

偉人の名言。

自己啓発本の一節。



あなた自身の、

今日の話として受け取っている人は、

どれくらいいるだろう。



私はずっと、

借り物の言葉として聞いていました。



「そうだよね、悔いなく生きなきゃね」



うなずいて、

次の日も同じように我慢して、

同じように本音を飲み込んで、

同じように誰かの期待を優先して生きていた。



それは、悔いのある生き方そのものだった。



あの夜、初めて本気でこの問いと向き合った



ある夜、ひとりで

静かに座っていた時のことです。



私は、なんとなく疲れていた。

でも何に疲れているのか、

うまく言葉にできなかった。



ただ漠然と、

「このままでいいのかな」

という感覚だけがあったのです。


その時、自分に問いかけました。



「今夜、命が終わるとしたら。

私は悔いがないか?」



答えは、すぐに出た。

悔いがある。



何に?

言えなかったことが、ある。

やらなかったことが、ある。

選ばなかった自分が、ある。



「いつかやろう」と先送りにしてきたものが、

その夜、一気に浮かんできた。

そして泣いた。



でもその涙は、悲しみじゃなかった。

やっと、本音と向き合えた涙だった。



「命基準」で選ぶとは、こういうことだ



命が終わる瞬間を想像した時、

人は不思議と正直になれる。



見栄が消える。

「すべき」が消える。

他人の目が消える。

残るのは、ただ自分の本音だけ。



「本当はこうしたかった」

「本当はこれが怖かった」

「本当はあの人に、ありがとうと言いたかった」



その声こそが、

命基準の答えだと私は思っています。



難しい話じゃない。

死を想像した時に残る声を、

生きている今、聞くだけでいい。



私がこれまで見てきた中で、

「悔いが残る」と感じている人には

共通点があります。



それは、

自分より誰かを優先し続けてきたこと。



愛情からそうしていた人もいる。

恐れからそうしていた人もいる。



でも結果として、

自分の望みを後回しにし続けた。



「我慢すれば丸く収まる」

「私さえ黙っていれば」

「どうせ言っても変わらない」



その積み重ねが、

命の終わりを想像した時に

「悔い」として現れてくるのです。



あなたの我慢は、誰のためですか?

その問いに、正直に答えられますか?



悔いを消すのは、

大きな決断じゃなくていい



ここで誤解してほしくないのですが。



「悔いなく生きる」とは、

すべてを手放して劇的に

生き方を変えることじゃありません。



今日、本音を一つ言う。

今日、先送りにしていた選択を一つする。

今日、「命基準」で一つ決める。

それだけでいいのです。



小さな一致の積み重ねが、

悔いのない人生を作っていく。



死ぬ直前に後悔しないために

生きるんじゃない。



今日、自分に正直に生きた人が、

結果として悔いの少ない命を全うできる

と言っているのです。



最後に、もう一度聞かせてください

あなたは、

今すぐ死んでも悔いがないですか?



「ある」と感じたなら、

それはチャンスです。



あなたの命が、

まだ正直に生きたい

と言っている証拠だから。



悔いがある場所にあなたの本音がある。

本音がある場所に

あなたの命が向かいたい方向がある。



その声を、今日だけは

静かに聞いてみてください。



答えは、あなたの中にある。