今回の夫のよそ見で

夫を責めることもできたけれど、

本当に夫だけが悪かったのか。

 

これまでの私は

どうだったのかな?

 

自分では夫婦間の愛を

育むための努力はせず、


「女は男に幸せにしてもらうもの」

「夫は妻を幸せにするべきだ」

と思い込んで、

 

守られ、愛され、幸せにしてもらうのを

ただ期待しているだけだった。

 

★夫が他の女性と、、浮気? 夫だけが悪者なのか?

 

この私の

「受け身の在り方」では、

私の人生や幸せの決定権も夫(私以外)に明け渡している

 

と、気が付いた。

 

 

なので、これまで

心のことを学ぶために

たくさんの本を読んだ中から、

 

今、アドラー心理学の

「嫌われる勇気」

を取り出してきて再読しているのだけど、

 

ああ、まさに、、、

私が今回の夫婦関係のことで

乗り越えるべき課題が

この本の中にぎっしりと書かれているあせる

 

数々の本やブログから、

私が影響を受けたたくさんの方々が

提唱されていたことのうち、

(Happyちゃん、心屋仁之助さん、八木さやちゃん、藤本さきこさん、等々)

 

自分の人生への向き合い方として

自分に取り入れたいと思っていた

エッセンスが凝縮されている。

 

「嫌われる勇気 p.161 より引用」

 

坂道を転がる石のように生きることが「自由」なのかというと、それは違います。

そんな生き方は欲望や衝動の奴隷でしかない。

本当の自由とは、転がる自分を下から押し上げていくような態度なのです。

 

石ころは無力です。

いったん坂道を転がり始めたら、重力や惰性といった自然法則が許すところまで転がりつづけます。

 

転がる石のように自らを摩耗させ、かたちなきところまで丸みを帯びていくのか?

そこで出来あがった球体は「ほんとうのわたし」だと言えるのか?

そんなはずはありません。

 

 

 

 

私は、

止まるまで惰性で

転がされるままになる

石ころではない。

 

 

私は、

誰かに転がしてもらうのを待つ

石ころではない。

 

 

私は、

誰かに持ち上げられ

運んでもらわないと

みたい景色を見られない

石ころではない。

 

 

自分の見たい景色を自分で選び

自分で足を進めるからこそ

みたい景色を見に行く自由がある。

 

 

私は、自分では努力せず

楽して誰かに幸せにしてもらうこと期待していた。

 

自分で努力することは放棄した石ころなのに

「持ち方が違う!

 行きたいのはもっと遠くだ!」

と、文句を言っていたのかもしれない。

 

幼稚な考えだったな。

 

子供のころは、父や母が

守ってくれる、養ってくれる。

 

我が子が幸せであれるようにと、

幸せな環境を整えてくれた。

 

今は、いい大人になったのに

その頃のまま、他人任せに

自分を幸せにしてくれることを夫に押し付けていた。

 

「嫌われる勇気 p.186 より引用」

 

他者はあなたの期待を満たすために生きているのではない。

 

 

本当にその通りだ。

 

夫は私の期待を満たすために

生きているのではなかった。

とんでもなく横柄な勘違いをしていた。

ごめんなさい。

 

私は、石ころではない。

 

私は、自分の足で

見たい景色が見える場所まで

歩いていける力がある。

 

私はわたしを連れて

どんな景色を見に行こうか

 

私の意志で行き先を決め、進んでいく。