「果因説」 西園寺昌美著


を2回目読みました。



思い出しました。

1年近く前、長く電車に乗る度に、この本を少しずつ読んでいて、早い段階で

「こんな高尚な考えにはなれんな、私は」という思いが、胸の中でムクムクしていたことを。


何とか読み切ったものの、拒絶の気持ちが強いせいか内容があまり入っていきませんでした。



今回は、「ホ・オポノポノ」を読んだ後のおかげか、割と素直な気持ちで読むことができました。


https://ameblo.jp/haochann/entry-12814304153.html




今回も感想を覚え書きのように、つらつらと書いていきます。




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「果因説」とは、

自分が、望む結果を心に描き、言葉に出し未来に刻むことによって、やがて自分が望む結果をもたらせる説。


先に、結果をイメージして創り出すことによって、おのずと原因がそれに従ってくる。


時間は、未来から現在へとやってくる。



神がもし、自分に代わって選ぶとしたらどうするか?



不幸は、過去の原因が今、結果として現れているので、それは、自分が受けなければならない当然のもの。これで過去の原因が消えてゆく。



20世紀まで続いた因果律は、21世紀において、果因説に移行している。




川の中にいる自分が、希望や夢を書いた葉っぱを川上に向かって投げる。

そして、何年か何ヶ月か何日か後に、その希望の葉が自分の前を通りすぎる時、キャッチすると希望していたことが現実になる。



果因説とは、自らが自らを信じることから始まる。



一瞬の深呼吸で選択が次元上昇する。

深呼吸して、自らの感情想念を鎮め、吐き捨てるように突いて出てくる言葉を収めることができたなら、全く違った人生が展開していくことになる。



これからは、すべては内なる力によって解決してゆく時代に入っていく。




人は、一般に自分の不幸な状況、貧乏な体験を誰かに語りたいもの。(笑)




誰かが率先して幸せを語り続けなければ、人類に幸せは、決して訪れません。

そのためには、一人でも多くの人々が、幸せや喜びや希望を語るべきです。



人間が病気になるということは、そこに必ず無理があるという証(耳が痛いです)




積み上げてきた過去を否定しているのではなく、学んだことは、全体の一部として必ず生かされている。何事も無駄はない。


何事もこの世に偶然はない。すべてが必然。




消えてゆく姿とは何か?  

過去をつかまないということ。過去が出たら「消えたのだ」と思うこと。過去を離れれば幸せになる。過去に力を与えない。



私を侮辱することによって、相手は清まっていく。私と対立することによって相手は満足して過去の因縁を消している。




「我即神也」は、すべて愛だから、相手のいかなる思いも吸収して光に返す。

だから傷つくことはない。




人を幸せにする前に、まず自分が幸せにならなければならない。自分が幸せであり続けるために人を幸せにしなければならない。





体験に善も悪もない。

体験に対して、善、悪、一切の批評、評価を下してはならない。

人々のいかなる体験に対しても決して評価してはならない。

心を磨き上げ、人を差別せず、古き悪き習慣である善悪の判断を超えてゆかねばならない。




これからの生き方は、まず身近から始まる。

夫婦や親子、兄弟姉妹、友人、知人、その親しき中から、究極の真理が息づいてゆかねばならない。





決して、人を裁かず、人を見下さず、人を責めず、人を批判せず、すべての人を人類即神也と見、




すべての人を許し、すべての人を抱擁し、すべての人を受け入れ、すべての人に感謝し、すべての人を愛してゆく。





ここまで、長文を読んでいただきありがとうございます。


8月末までに2冊目の感想文をブログに書くことができました。



読者の皆様のおかげです。



最後まで読んでいただきありがとうございました。