寿 利 屋 JULIYA

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  • 20Sep
    • ◆誤作動で巻き込まれていくビデオテープがスルスルと逆回転を…まるでFRINGEの世界…

       どんな衝動にかられてか、鏡を見つめる女を、その肩ごしに盗み見る…視線の気配を感じた女が、鏡の中でポッと頬を染めて羞じらうように微かに揺らぐ…そんな女の風情に私は魅せられ惚れてきた。 欲を言うと、ちょっと醜女(しこめ)っぽい方が、揺れる女心が浮き沈みしているような、素のままの女を感じてしまう。…断っておくが、私にはストーカー的性癖は全くない。もちろん、これは、我が美醜は棚に上げての話である。  つまり、自らを「美女」と思っているような女は、鏡に向かって、初めから答えの分かった「世界で一番美しいのは誰?」なんて高慢な愚問を投げかけているようなところがあって、興ざめで鼻持ちならない。…ときにハリウッドのあらん限りにきらびやかな映画より、インディーズの貧乏っぽいギクシャクした拙いつくりの方に、不思議な魅力を感じてしまうのは、人は本能的に、噓っぱちとホントの匂いを嗅ぎ分けているからではないのか。 そもそも、この前説は、私自身が恐る恐る鏡をのぞき込むのが、このところ、朝のはじまりになっているからで…寄る年波に歴然と刻み込まれた自らのエイジングなんてのは、正直何ほどのことはないのだが、恐いのは、そこに異形の“私”が、ニヤリと笑って饒舌にしゃべり出す瞬間があることだ。まッ、異形と言えば、人は、なぜこんな形をしているのかこそが、不思議でならないのだが…。 「一体どこのどいつだ!」って、私のいる、こちら側を見回してみるのだが、もとより誰もいない。これはきっと、鏡を見ている私を、私の背後から盗み見ているヤツがいるに違いない。もしかして、ヤツこそ“私”なのかもしれない…しかも、ヤツは、恐らく私の「正体」を知っている。 時というのは、やり過ごした側から来たるべき方向へと空間をたぐりこみながら流れているわけで、何かちょっとしたきっかけ(次元のゆらぎのような)さえあれば、例えば誤作動で巻き込まれていくビデオテープが、スルスルと逆回転を始めるように…、時を遡ったりも、今の私には、さほど難しくはないように思える。 タブレット純が「巻き戻せるなら巻き戻したい」と、願望を唄ったけれど、私は、それは可能だと頑なに信じている。 現に、あたかもそのような具合に、体内のどこかに取り込んできた“過去の時”を、私は過ごしたりもしているのだから…。決して白昼夢などではなく、いわゆる夢とも違う感覚である。「デジャヴ」といえば、うん、それがもっとも近い感覚かもしれない。 恐らく、ヤツである“私”は、ちょっと格好良く言うと「時の旅人」に違いない。 ところで、LAの“パブクラブHOKI”で過ごした「時」も、“私”にしてみれば、なんだか「メビウスの帯」のような具合に、明らかに「今」なのである。 LAにはちょっと不向きなBALLYのブーツを履くと、ブルージーンズに白いTシャツ、薄いアンコンジャケットを羽織って、ホテルの一室をいそいそと出る。ウェラコートの中庭を、靴音高くスター気取りで横切り、待ち受けていたように開くエレベーターに乗り込む。 窓のイラストレーション(ホキにと和田誠さんが描いた)を、乾いた日差しが微かに浮き上がらせる頃、耳元で囁くバッカスの誘惑に私は抗うことができないのだ。 ホキとオスミ、そしてボブさんたちもいたっけか…私の部屋で飲み明かしたはずなのに、昼下がりには、すっかりアルコールは抜けて、さわやかである。 入ってすぐの、カウンターに座ると、バーテンダーのケイスケが、要領よくグラスにビールを注いでくれる。 いつとはなく、女の子たちが集まってきて軽やかに会話が弾む…。 そんな私に、「あなたは、これからどんな風になるのかしら…」ホキは、ちょっと不満のニュアンスを含ませて言う。 私は、口元でキュッと結んだ笑いに矜持を含ませてホキに返す。 すると、あたかも「これから」が裏返って繋がるように、私は、ズドンと「今」に落ちる。 鏡の中の私に重なるような具合に、ニヒルな笑いを浮かべている異形の“私”が、そこにいる。Copyright(C) JULIYA MASAHIRO All Right Reserved.

  • 02Aug
    • ◆私の想念の中で、くるりと皮膜を反転しさえすれば、あらゆる時にタイムスリップが可能とさえ思える…

       “À la recherche du temps perdu” …プルーストのフレーズをなめるように読み、プルーストのペンをなぞるように書き、プルーストの生涯を映しとるように生きるのだと、馬場から明治通りを歩いてゴールデン街への深夜の道すがら、ボソボソと語るでもなく胸の内を明かしてくれたTOMOは、仏文を専攻する学生で、私が唯一人、あうんの感覚を共有できる男であった。 TOMOの眼差しは、いつも優しさに満ちあふれた心地良い揺れをもって私に注がれ、時折、均衡のとれた美しい顔の中の柔らかな輪郭の瞳が、ひときわ輝きを増し求めるように燦めくと、私は、まるで抵抗力を失った細胞かなにかのように自らの意志を喪失し、不可思議な光の渦に巻き込まれ、オルガスムスにも似た感覚に放り込まれたりした。おそらく私は、それと気づくことなく彼に惚れちまったのかもしれない。 TOMOとは、いくつかの専攻科目の教室が一緒で、何度か顔を合わせるうちに、四国の中学1年だった時、岡山から遊びに来ていた美しい従姉さんからプルーストを教えられ、彼女によって女を知ったと切れぎれに話してくれた。未だ童貞に近かった私は、その繋ぎ合わせたストーリーを、危うい誘惑をはらんだ動悸の高鳴りとともに聞いた。 私には、ほとんど読みこなすことなどできないはずの膨大なプルーストの全巻を、彼は、中学の頃から辞書を片手に読み続け、いつ何時でも、まるで小脇に抱えてでもいるかのように、流暢なフランス語で口ずさむように取り出してみせ、時を行きつ戻りつするように心地良さそうに微笑んでは、独自の翻訳にちょっとしたコメントをそえながら、私の反応をいちいち確かめるような悪戯っぽい目をして、やさしくわかるようにしてくれた。 フィリップ ソレルスの 「公園」や「ドラマ」を知り、ジャン チボードーの「夜を想像せよ」、アラン ロブグリエの「快楽の館」に耽溺したのも、あるいは、「澁澤龍彦集成」の全巻を、なけなしの金をはたきながらなんとか揃え、その分厚い黒表紙の本を終始持ち歩いたのも、TOMOが、それらを教えてくれたからだ。 私は、TOMOが見たり聞いたり、考えたり感じたりしていることを、少しでも多く深く知りたかった。 いずれにしろ、そこには、私とTOMOだけの密かな時の流れが確かにあったのだ。 60年代のどん詰まりで、安保闘争に揺れる文学部は活動家たちによってバリケードが築かれたロックアウト状態で、志ある者たちによる自主講座なども開かれてはいたが、ノンポリを自認する私の仲間たちは、早稲田より新宿に向かうことが多く、フーテンよろしく、日々街を彷徨していた。東口や西口広場、コマ劇前広場に日がな一日座っていても文句を言われたりはしなかったし、何と言っても紀伊國屋の立ち読みは魅力だったし、居座ることのできた小さな名画座が幾つもあった。ションベン横町の一杯飯屋、ゴールデン街や二丁目の安酒場、たむろできる凮月堂やクラシックをふんだんに聴けたランブル、トランペットを抱えてカウンターでコーヒーをすすったDIG や DUG があった。 その頃、TOMOは書店や百貨店で、ちょっとしたものを、こっそりと失敬して、気に入った見知らぬ女の子にプレゼントするという危険な行為を修行者のように自らに課していた。 もっとも、私も「共犯者」であることに心ときめかし、寄り添って aventure を楽しむようなところがあったが、CHIKOは、そんなTOMOのお眼鏡にかない、網の目にかかった一人というわけだった。 CHIKOは、ちょっとハスキーでセクシャルな声で歯切れの良い東京ことばを使い、アニメの小さなベティちゃんのように愛くるしく笑う可愛い女ではあったが、私には英文専攻にひとり恋い焦がれていた女がいた。 最初、CHIKOの椎名町の部屋へ行こうと言ったのは、TOMOだった。 とっくに夜の帳の下りた時間なのに、うまい口実を作ったTOMOは、かなり強引に大家さんに頼み込んでCHIKOを呼び出し、狭い廊下をたどるようにして2階にあった6畳ほどの部屋に上がりこんだ。 幾つか年上で、しかも仕事を持っていたCHIKOは、まるでやんちゃな困った弟たちを迎え入れるように優しかった。 一緒にいるだけで濃密な時が流れ、微睡むような一夜を明かしたTOMOと私は、CHIKOが用意してくれた味噌汁を啜って、仕事に向かうCHIKOと一緒に、西武線から山手線を乗り継いで、いつものように暮れの押し詰まった新宿の街に出た。 その日、歌舞伎町から角筈への見慣れた風景が、冷え込んだ朝の光の目映い揺らぎの中で、未だ経験したこともないように遠く透き通って見え、そんなことが、ちょっとアンニュイな気持ちを擽ったように、私は、TOMOにむかって、思わず意味のない微笑みをしてみたりした。  CHIKOは、いつも無理矢理幸せそうにしている、寄る辺ない女のようだった。 私は、そんな風情の女にほだされてしまう。 私は、一人だけでCHIKOの部屋を訪れるようになり、やがて、それが日常になっていった…。 時は過ぎ去り行き、時の中にあった事象もろともに「無」に帰するだけで、本当には点ですらないのだし、失われることによって、私たちは時を求めることができる。 私の、今の、ここに、すでに失われ、無いというのなら、私は私自身の中で想い描くしかない。もしそんなことができるならば、その時、私は、過去・現在・未来にわたるあらゆる時を、この肉体に内包し、その限りにおいて、私は失われた時だけでなく、それを含む時と空間に存在することができるのではないか。…あたかも、私は、私の想念の中で、くるりと皮膜を反転しさえすれば、あらゆる時にタイムスリップが可能とさえ思えるのだ。  「KIMI、ねェ、そこにいるのね…私の中に、しっかりと感じているわ…これって、あなたの温かい塊そのものなのよね。あなたは、きっと訳もわからず、そこにいるのかもしれないわ。ちょっと戸惑ったりしているのも、私の一部のように、ほら、伝わってくるのよ。はにかむように唇に力を込めて上目遣いにするときのKIMIは、ストレートに私に言えない何か不満があるときだから…少しでも恨んでいるとしたら、ちょっと悲しいわ…だって、こうやって私の中に閉じ込めている以外に、あなたの命を安全に私の下に引き留めておく手立てがあったかしら…あなたが、今そこにいることは、あなたのいつものやんちゃすぎた行状が招いたことって、きっとわかっているはずよ。ほらゾクッていうあなたのリアクションが伝わってきたわ。そうよ、薄々気づいていると思うけど、因果応報だって、もう受け入れているかもしれないわね…」 今、ここから最後の一歩が踏み出せないのは、思い巡らせてみると、恐らくCHIKOが投げ打つ「呪縛」の網にひっかかっているからに違いない。 それに、どうやら私は、そんな境遇にあっても「覚醒した不眠」の訪れを、夜となく昼となく心密かに待ち望んでいるようだ。 どんなに足掻いても、CHIKOの「天網」から到底逃れられない私が、「日々贖罪」の過程で気づいた、唯一の、これからも何とか「生きようとする意志」かもしれない…。 そう、この心地良い温もりに柔らかく包まれた安寧を、至福感に満たされた時の流れるままに素直にスンナリと受け入れ、それ以上の何かをあえて望まぬのが、とどのつまりの成り行きであり、きっと今、私があり得べき自然の姿なのだろう。 何かを意図し行動せぬままに、ただひたすら待ち続けることだけが、私に残された「今の在り方」だとしたら、「今ここにいる」こと自体が明らかに受けるべき償いであり、さらに「覚醒した不眠」を受け入れていくことこそが、CHIKOへの最も真摯な贖罪であろう。 なぜなら、やがて本当の「あら側」に行き、「こちら側」に生きた痕跡を時と空間を内包したまま、立つ鳥さながらに残さぬことをずっと願い続けてきた私にとって、「生きようとする意志」を持つことは、そのままそれは大いなる責め苦であり、重い「罰」となるはずだから…。 だが、しかし「覚醒した不眠」は、確かに責め苦ではあるけれど、今の私には、 grass を肺いっぱいに吸いこんで迷いこむ浮遊感にも似た甘い「蜜の味」である。私はまるで次元のない場を手にし、珠玉の imagine を羽ばたかせるのだ。  それは、少年の初々しく青い妄想の中にぼんやりと浮かび上がってくる、身を焦がし憧れた乙女の「秘所」にも似て、性懲りもなく私を駆りたててやまない。 触れる感触のその先にある美しく彩られた未だ知らない物語の奇想天外な展開を予感させながら、鬱々と私を魅惑し続ける。 私のリビドーの在処をたずね遡り行けば、ニューロンの先端で待ち構え、微笑んでくれているそれは、生きていこうとする意志そのままに、私にとってこの上もなく危険を孕んでいたりもするけれど…。 私が自らを問いただすこともなく、なんの疑いもなく私の行動を信じてきたのは、それを問いただして解を得られる類いのものではないという諦観が、すでに閃きのようにあったからだろう。それは恐らく私の創造主をしてしからしめるところで…言ってみれば「神の命ずるままに」というわけなのかしら。 微睡みの中で、これと意識できる際立った兆しもなく、手術台の上で痲酔をかけられ自然に移りゆく感覚にも似て、「覚醒した不眠」がすでに訪れている。 私は、体を失った軽さでフワフワと漂い、視界の果てに、おぼろげな border が遠く陽炎のように揺らいで見える。 ほら、私はTOMOと並んで、味噌汁の湯気を透かすようCHIKOの爽やかな笑顔を、今、見つめている…。【PHOTO:JULIYA MASAHIRO】Copyright(C) JULIYA MASAHIRO All Right Reserved.

  • 17May
    • ◆己の中で整合性さえ持ち得れば、そっと密かに小さな箱の中にしまっておける…

       深い山吹色の月の光に照らされて、影絵のように浮かび上がる高層マンションは、広大な cemetery の墓標さながら幾棟も林立し、私は、その一室に辿り着く度に、確かに「我が家」と呼んではいるものの、流れに淀んだ筏舟に一歩足をかけた不安に揺らぐ感覚を、いつまでも拭い去ることができない。 私は、どこで、どんな風に住もうと、一夜を明かす旅の体験や印象のように、ある種の糧としてそれらをニューロンに刻み込むことはあっても、住まいや物、周りの環境や暮らす人々に、不思議とさえ思えるほどこだわりも執着もほとんどない。 「光が丘」と名付けられたこの団地に、最後に建てられた真新しい建物への入居が始まってすぐ、吹き抜けになっている地下駐車場に32Fのベランダから男が落ちた。 正面玄関に向かうブリッジに、すぐさま集まった新住人の背越しに、私は、ジグソーパズルの剥がれた一片のように不自然に折れ曲がった男の体躯が、乾いた灰色のコンクリートの上で、どす黒い紅色にゆっくりと縁取られていく様を見下ろした。 一緒にいたCHIKOも、怖々と後ずさりする気持ちに抗しながら私の腕にしっかりとすがりついて、同じ光景を覗き見た。 「KIMI、やめようよ。見なかったことにしようよ…」 サイレンの音が喧しく響く中で、陽炎のように空間が攪拌し渦巻き、時が揺れた。 すると、その微かな歪みに現れたスクリーンに、ベランダから放物線を描いて飛翔する男の姿が、ゆっくりとフリーズをかけて fix され、海に向かって崖からダイビングしたあの日の私のイマージュが、記憶のチップから引きずり出され、ネガとポジのように重なって映り、ゆっくりとエンドロールのように流れて見えた。 おまけに、CHIKOの怯えた声が、まるでアテレコするように聞こえ、私は慌てて、甘い蜜の誘惑を振り払う時さながらの身震いをブルッとした。 「 accident だよ。そうだよ、違いない。…ベランダで新しいエアコンか何かを取り付けていて、不安定になった足場が倒れたのかもしれない…きっと…」 私は、何の根拠もない分析をしながら、彼の死が自ら意志したものではなく、できることなら偶然であって欲しいと強く願っていた。 「そうね、きっと…引っ越してきたばかりで死ぬなんて、そんなことあり得ないわ…KIMIでなくて…よかっ…」 CHIKOは言いかけて、自らを諌めるように言葉をフェイドアウトさせ黙ってしまった。 私のダイビングは、 accident に遭遇した男とは明確に違い、極めて complicated で、どだい言葉で説明することなど不可能な領域だ…とすることで、ダイビングした私や、岬の女の下へ、手負いの男を助けて届けようとしたことや、おまけに、一人二役を演じて同一人物だったなどという、錯綜した situation も、やがて置かれるであろう circumstances も、スンナリと納得でき、何とか平静でいられるような気がしたのだ。 こんなことは、己の中で整合性さえ持ち得れば、門外不出の私だけが知る世界として、そっと密かに小さな箱の中にしまっておけるわけだから…。 私のそんな願いが届いたのかどうか、新しい住まいで新しい生活を始める人たちばかりということもあってか、なぜか箝口令が敷かれたように、事故だったのか自らそうしたのか、どんな人だったのか、ベタ記事ほどのことしか伝わってこなかった。 私は、血痕が残る現場のすぐ前にあった「ドンガメ」の駐車位置の変更を管理事務所に願い出て、よりエレベーターに近い場所に移った。 けれど、消えない傷跡にも似て、大通りからマンションへの誘導路を入ってくる度に、チラリと空を仰ぎ見て、それ以上の連想を強引に停止させようとする習慣は残ってしまった。 それに、日常生活の中でも、何かちょっとしたこと…例えば、奇妙な無言電話がかかってきたり、台本が思うように書けなかったり、HIROがベランダで遠い目をしていたり、CHIKOのパリからの帰国便が遅れたり…なんて時に、あれはきっとこうしたことの「予兆」だったと、川面に突然浮かび上がってくる病葉のように思い出したりもした。 「ドンガメ」は、深夜に向かう六本木から246に出て、明治通り、新目白、練馬を経て豊島園を左手に見ながら光が丘への、首都高に乗らないコースをたどった。 学生時代から車を乗り回していた私だけれど、マシンへの興味も知識もいい加減なもので、ただ「ドンガメ」のように一目惚れしてしまった車があるくらいで、動きさえすればどんな車でもよいという、実に情けないドライバーである。 だが、その限られた運転席に一人座ることは、とても好きだった。海外取材の時もレンタカーを借りて走った。LAからハイウェイで向かうサンディエゴの自由な加速にちょっとした快感を味わったし、自らの小気味良いハンドルさばきに一人ご満悦だったりもした…。 かつて日本陸軍の軍用滑走路だった、光が丘の真ん中を貫いている大通りから、任務を果たせず戻ってきた神風特攻隊機のように、エンジン音をひときわ大きく響かせた「ドンガメ」は、駐車場の檻の中に、瑠璃色のボディを微かに震わせながら吐息をつくようにしてとまった。 エレベーターをエントランスで待つCHIKOの肩に眠るHIROを、私は、そっと目を覚まさないように胸に抱いた。 繊細なフローラルの香りがそよぐように漂ってきた。パリから運ばれてきたミスディオールのブルーミングブーケ…CHIKOの好んで纏う香り…忘れていた何かを思い出したときのようにドギマギして、言葉を探した。 「ぐっすりだね…随分、連れ回したからね」 「気をつかわせてるようだったわ…長く離れていたから…」 「とても繊細だからな…コイツ…」 そう言って、私は、HIROが私を見つめるときの愛くるしい表情を思った。 深夜のエレベーターは、幸せな家族をねぐらへと運ぶ熱気球のようでさえあったけれど、私の「女の平和」は、HIROを巻き込んで、とても敏感な小さな胸にチクチクと針を刺し続けていたのかもしれない。 私は、「定かな顔を持たない女」のために、CHIKOに背を向け、二人にとって最も大切な絆を自らの意思で断ち切り、冷え冷えとした関係に持ち込み、私の存在に辟易とさせることを目論んだ。だが、「女」の存在が、明らかになったとき、私の示威行動は、当然のことながら、何ら意味を持たなくなってしまった。 卑怯この上ない私の行動は、なぜそんなことをと不思議に思えるほど常軌を逸したとても稚拙なやり方だった。 案の定、私が長い海外取材を終えて、成田から我が家にたどりついたとき、事態は急転直下の様相で一変していた。 CHIKOは、大胆な反撃に出た。 何としても私を許すわけにはいかない、もはや聖女である必要などないと、私の部屋をノックし、強引に私との交わりを求めてきた。 CHIKOの sexuality は、とてもストレートでピュアである。【PHOTO:JULIYA MASAHIRO】Copyright(C) JULIYA MASAHIRO All Right Reserved.

  • 08Apr
    • ◆私の言葉は、小さな欠片になって飛散し、そんな記憶の狭間に食い込んで、思ってもみなかった…

       灰白色のくすんだあっけらかんとした洗面台と便器、触れると怖気だつようなザラついた音のする二帖もない畳の、やけに天井だけは高く閉ざされた空間、窓と呼べるものはなく、限られた時にしか開くことのない分厚い扉…それらの一つ一つが、ここが意味のある「場」であることを思い知るにふさわしい佇まい、耳に響き続ける電子の飛び交うような音は、いっかな絶えることはないけれど、それでも、底なし沼の藻に埋もれた奇妙な静けさを醸し出している…。 私は今、牢獄の中に、まんじりともしないで正座している。 なぜ囚われ、私はここにいるのか…ごく当たり前のなりゆきのように、疑うこともなく腑に落ちて問いただすことすらしやしない。 私が、この場で持っているもの…つまり「私」であることの「証」といえば、生きて鼓動する身体…いやもっと正しくは、知覚し認識できる「ありさま」だけで、見聞き触れ、食し嗅ぐ感覚を頼りにする以外、手立てなどありはしないのだ。 それでも、唯一残された希望があるとしたら、それは、どこからともなく閃いてくる Inspiration を待っていられること…だから、私は、ひたすら Imagine し、祈り続けている。  人々の生活する社会こそが現実と言うなら、当然のことながら現実はここにはない。 なるほど、そんな風に考えると、私は、すでに「あちら側」の住人になってしまっているのかしら…。 「ざまァみろ!それは、おぼろげにも、おまえが意図していたことではなかったか」…そんな言葉が、微細なニューロンをすばやい速度で飛び交い意味を成し、私の心を弄んだりはする。 その上、そんな悪態に返す言葉が喉に苦しく詰まったように、いつもの弁舌爽やかにはうまく出てこない。これはとても歯がゆくも苦しいことだ。 半睡半醒ならまだしも、天の見過ごした恩恵のように心安まる瞬間もないままに、私の「覚醒した不眠」は、相変わらず、こうしてしつこいほどにも続いている。 いや、もしかして、知覚できることを、しかと見定めることができさえすれば、もともと時の経過などなく、「不眠」すらも、ほとんど瞬く間のことなのかもしれない。 しかし私は、「生から死」への長い旅路に匹敵しやすまいかと思えるほどの時の流れを、その瞬間に感じてもいる。 このような獄中の囚われ人となっても、何が起ころうと、どこに放り込まれようと、いかなる恐怖に襲われようと、それとも、揺蕩いながらも、離れがたき愉楽の中にどっぷりと浸かっていようとも、もしかして、臨機応変に対処することを、長い時間の果てに習得してしまったのかしら…。時には、それを楽しんでいたり…。 そうだ、「覚醒した不眠」をうまく手なずけてしまった。 例えば、重くネバネバとした感触の「臭い」に覆われるような空間に、逃げることもままならぬまま、腕と脚をがんじがらめの分厚い拘束帯に縛られたように…自由に動けはしないとしても、五覚はしっかりとしている。いやむしろ、一層研ぎ澄まされたような五感、そして Inspiration がある。 この「臭い」は、私に温かい懐かしさを思い浮かばせる…そこで、恐らく他の感覚よりも優れていると自認している嗅ぎとる力を全開し、繊毛をフルに揺るがせ蠕動させてみる。 そうしながら、空間の白紙に筆記する。 一言一句、感じ取ったことを、ピッタリと適切な言葉に置き換え、私自身に反芻するように投げかけ、返ってきた反響のような言葉を、さらに繋げながら、それでも、しっくりと感じ取ることができなければ、もう一度、同じことを繰り返してみる。 このような場にあってみれば、もはや、私には Imagine から生み出される「言葉」しかないのだ。…するといつも決まって、CHIKOの声が、温かい兆しを告げながら、輸血されるような具合に流れ込んできて、私の言葉の抜け落ちたところを埋め尽くし始める。 さらに、それを紡ぎ繋いでいくと、やがて甦った体液が生気を取り戻し、私の「存在」を、完璧に悟らせてくれる。しかも、それらの連携が、私の「覚醒した不眠」を、思わずこぼれる微笑みのように満たしてくれたりもする。 「ほらKIMI…あなたの身体の働きの中で、私が唯一信用していいと思うのは、きっと、あなたの、このお鼻…私の小さなお鼻に比べたら、匂いに敏感な部分の表面積は、きっと3倍かもっと、あるはずよ」 CHIKOが、私の鼻梁にゆっくりと唇を這わせながら、湿った声で呟いている。 「あなたは、言ったのよ。ボクにはね、おじいちゃんの父親ってのが、Cherbourg 生まれの宣教師で、フランス人の血が入っているんだ。まッ、この鼻は、その遺伝子のせいってわけなんだってね。あなたの言うことなら何でも信じていたの私…ボクは、女を匂いで記憶しているんだ…なんて憎らしいことを言って、ゴールデンリトリバーさながらに鼻を鳴らし、ちょっと得意げな口調で自慢したのじゃなかったかしら。じゃ、私は、どんな匂いで、KIMIの記憶にファイルされてるのかしら。その立派なお鼻で嗅ぎ分けた匂いを知りたいものだわ…なんて、ちょっぴり猟奇的かしら私…」 確かに私は、女たちの匂いを、花の香りや、パフュームに結びつけて即座に思い起こすことがなぜか本能的にできてしまう。 けれど、CHIKOが言ったことを無条件に笑い飛ばせる、そんな日々があったとは…。 きっと、それが可能だったのは、私のCHIKOへの一途な愛が確かであり、CHIKOの私への愛が揺るぎないものだったからこそのこと…。 ストレートに愛や憎しみや、あるいは恨みや嫌悪に彩られたものであるならば、すんなりと受け入れるか、黙ってしまえばよいだけなのだけれど…。 正直、私は、母によって暴かれた「事実」を知って後のCHIKOの「神聖降臨」に、かつて経験したことのない震え上がるほどの恐怖を覚えていたのだ。 それは、私が「今ここにある」根源的な意味のような「拠り所」を揺るがす生理的に擡げてくる震えのようなものだろうか…。 その頃からか、私に向けられたCHIKOの言葉は、常に辛辣な意味を含むようになった。 私が何気なく呟いたことにすら、柔らかく日常的なトーンではあるけれど、鋭く研ぎ澄まされた「棘」を内包した言葉を、きっと返してくる。 CHIKOは、私にまつわることは、およそどんな些細なことでも微に入り細に入り記憶している。 しかも私の言葉は、なぜか時として、小さな欠片になって飛散し、そんな記憶の狭間に食い込んで、思ってもみなかった展開を見せたりするのだ。 だから、私は、CHIKOが本当に言いたいことの真意を捉えようと、何とかその心の在処を懸命に探らねばならない宿命を背負ったように、いつだってその「言葉」から逃れられない。 いっそ、「定かな顔を持たない女」とCHIKOをともに生活させれば、そんなあからさまな、日常の routine が、あまりにも赤裸々であればあるほど、CHIKOの「神聖降臨」は起こりようがないのではないかなどと、窮余の策をひねり出すように思ったりもした。 そうすれば、一回りほど年の離れた二人は、私を媒介にして、姉と妹のように互いの役割を見出しうまく波風立てることもなく乗りこえていくようにさえ思われたのだ。 愛のベクトルが複雑であればあるほど、とても一人で処理できなくなり、やがて自然に互いの納まる場に、しっくりと納まってしまうような気がした。が、それは恐らく、私の身勝手、卑怯の極みに違いない言い分というものであろう。 六本木の晩餐は、HIROが掌で眠そうに目頭を薄桃色に染め始めた頃、急いで、東日ビルの駐車場に戻り、郊外の我が家へと「ドンガメ」を駆りたてた。 CHIKOは、私の隣に、深く背を埋もれさせたように座り、パリからの時差と疲れを宥めるように、流れゆく久しぶりの東京を瞳に映しながら会話を途切れさせた。 HIROは、家族的な時間に満足したのか、後ろのシートベルトにすっかり身をまかせ、深い安寧の眠りに入ってしまった。 「ドンガメ」は、狭い空間のしかるべき定位置に座った三人の絆を、何とか揺るぎないものにしようとしているのか、私の意を得た駿馬のようにアクセルを踏み込みどこまでも走り抜けていきそうに思われた…。【PHOTO:JULIYA KODAMA】Copyright(C) JULIYA MASAHIRO All Right Reserved.

  • 18Feb
    • ◆「パパ、パリはママの街だって…」 私は、パリの香りを含んだ風の流れに先導されるように…

       CHIKOの「神聖降臨」は…私のせいである。 私が「女の平和」などと屁理屈をつけて背を向け、捨て置いた時でさえ、聖女のように貞操帯すら必要のない女だった。 だが、「私の修復不可能な過去」を認めざるを得なくなったCHIKOは、冷静を装うようにして何とか自らを宥めはした。けれど、「細胞の隅々に刻まれている、あなたの心は、消そうたって消せやしない」という瑕疵は、脳髄の決して拭い去れない奥深いところで、蜷局を巻くように澱み、刻印されたTattooとなって、今も残り続けている。 「CHIKOさんに言いたい」と、何度も電話をしてきた「定かな顔を持たない女」は…搦め手を使って、時を見はからったように、私の母に「get pregnant 」だと告げた。 当然、ハニートラップの目論見はなかったから、どうして欲しいという気持ちはなかっただろう…ただ、せめて「罪と罰」のような形で私との関係性だけは明らかにしておきたいと、女はきっとそう思ったに違いないと、なぜか私にはわかる。 母は、動転したまま、CHIKOの側に立つことを宣言しておかなければと、女からの電話を、密かな事実を明かすように電話してきた。 「わかりました、お母さん、でも、そんな女性の言うことをそのまま信じてはいけません。第一、KIMIは、ほらここに、私のそばにいるんですもの、心配なさらないで…」 CHIKOは、降って湧いてきたその事実を、毅然と否定した。 確かに、「不安定に作為的な均衡」ですらない状況になっている。だが、その女との距離感を正確に認識さえすれば、絶対的にCHIKOは優位である。この私を、このままここに、繋ぎ止めておきさえすれば、なんとか切り抜けられる…。そこまでは極めて冷静に分析できた。だが、ほんのわずかな時の経過とともに、CHIKOの生理はそんな風にはいきはしなかった。 それまでの私の言動の不分明な謎を全て解き明かすような具合に、一気に変調をきたしてしまった…それが「神聖降臨」の豹変だ。 そう、その挙げ句の果て、私自身をまるごと、子宮の最も近い傍に、果てしない時とともに監禁し、私がいかに意志しようとしたところで、身動きすらままならないように拘束した。「そこは、あなたが唯一、今、生きていられる場所なのよ」…と言わんばかりに…。 それからというもの、私の不用意な発言が、子宮壁に微かな揺れを伝えようものなら、CHIKOはたちまち sensitive な化学反応を起こす。 なだめ、話題を変え、背をさすり、いかなる懇願をしたところで、万事休す、絶体絶命、 どうしようもなく、打つ手などありはしない。だから、私は、CHIKOの「神聖降臨」のアタックを幾度か受けたところで、時の経過に一縷の望みをかけて待つ以外はないと悟ったのだ…。 私は、それをある種の諦観…もしかして、この温かくもある安寧はとてつもない幸せを手に入れた瞬間の継続に他ならないのかもしれない…今は、ただ宿命として受け入れざるを得ないのだと…。 恐らく私は、やがて、CHIKOの胎内に懸命にはりついたままドットとなり、ブラックホールに飲み込まれ、消滅するのかしら…。 いや、そんなことになる前に、CHIKO自身が、私を内包したまま、もろともに消え去ることだってできる。 私のいないCHIKOは、もはやCHIKOではない。 CHIKOのいない私は、もはや私ではない…。 成田からそのまま六本木のオフィスに立ち寄ったCHIKOは、待ち受けていたエレベーターの前で、チラリと私を見たけれど、すぐさま駆け寄るHIROを受け止めるようにハグし頬に小さなキスをした。 しばらく会わなかったCHIKOは、ちょっと挑戦的ですらある身のこなしをして私に背を向けると、Avenue Montaigne をしっかりとした目的を持って歩く足早のパリジェンヌのように、HIROの手をとりスタスタと六本木交差点に向かって歩き始めた。 細かい刺繍の施されたオフホワイトのワンピースの裾が、足首をキュッとくるんだ小さな幾何学模様が描かれた黒いストッキングを見え隠れさせるように軽やかに揺れる。 小柄だが均整の取れた体躯を支える子鹿の足先のようなピンヒールが、リズムをとるように歩道に打ちつけられ、微かな心地良い音を、コッコッコッと響かせる。 ついぞ見たことのないようなCHIKOの後ろ姿が、すっかり冬の陽の落ちた雑踏の中で、ネオンに彩られるように際立ち、私は、パリの香りを含んだ風の流れに先導されるようにCHIKOを追った。 パリからの電話で指示してくれたとおりの、オーバーオールにデニムジャケット、ブーツ姿のHIROと並んで歩く母子は、ファッション誌を飾るグラビアのようにスタイリッシュで、周りから微笑ましい視線を浴びている。 もちろん、急いで私もその脇に回り込み、HIROの手を取って、ファミリーを演出することはできただろう。いや、それはちょっと嘘っぱちの理想像ではないかと、私は、CHIKOとの関係を思いかえし、躊躇した。 これから幸せな晩餐をとらなければならない時間をどんな会話で繋ごうとしているのか、きっとぎこちないことになってしまいそうだと、柄にもなく心配し始めていた。 ロアビルの裏手に当たる方向へなだらかな坂道を下りていくと、今日、予約を入れておいた中華レストランがある。 店主の次女は、テレ朝のワイドショーで組んでいたチーフディレクターと2年ほど前、赤坂のホテルで華燭の典をあげた。その披露宴の司会を頼まれた縁もあって、私は番組の打ち上げに使ったりして融通のきく店になっていたのだ。 私の六本木は、一世代上の「六本木族」や「キャンティ」に集まったホキたちにとっての六本木には遙か遠く及ばないけれど、それでも、TVの世界に入って彷徨った一時代を象徴する多くのドラマを描いてきた「場」ではあった。 「パパ、パリはママの街だって…ほら、ママもおかしいよね…パパ…」 HIROがふり返って、私の気持ちを見透かしたように、ちょっと首をかしげると、不思議そうな表情を作って言った。その愛くるしさに、いつも私は情けないほど打ちひしがれる…なんて自分勝手な父親なんだ…。 「KIMI、私たちは、やがてパリに住むことになるのよ。…覚えているかしら。足が棒のようになるまで日がな一日過ごしたルーヴルを出た時、あなたは、ちょっとはしゃいでしまった私に、やさしく微笑んでくれたわね…そしてね、そのシャイな笑顔を打ち消すように言ったのよ。ボクはあまり美術館は得意じゃないってね…でも私には、ルーヴルって、パリを研ぎ澄ましたようなものなの…そこで費やされる時は決して失われることはないわ…私の心に永遠に存在し続けるって言ってもいいくらいにね。…だから、いつまでもあなたと一緒にルーヴルにいたい…一生かかったって尽きないくらい、いっぱいの絵や彫刻やいろんなアートに出会えるのよ。そんな名残惜しさをひきずりながら、チュイルリーから、セーヌの橋を歩いて渡ったのよ…サンジェルマンのカフェに行くのにわざわざ遠回りしたわ、自慢じゃないけど、パリは私の方が先輩よ。どうしても、あなたとセーヌの岸辺にそって歩いてみたかったの。私って変かしら…変と言えば、あなたの方よ、あなたは、パリでも決まって カプチーノ…そう、ローマからフィレンツェ、ミラノ、ヴェネツィアと二人で旅したときに、バールでやみつきになったのよねカップッチョに…シナモンの香りだけでなく、その響きがとても好きよ。でも、あなたは、ヴェネツィアの運河から少し路地を入った小さなレストランで、とても不機嫌になったのね…未だにそのワケがわからないわ…あなたは、ときどき訳もなく、心ここに在らずって…陥ってしまう…」 CHIKOのリズミカルな声が、私の体を包み込むように、とめどなく響いてくる…。【PHOTO:JULIYA KODAMA】Copyright(C) JULIYA MASAHIRO All Right Reserved.

  • 13Feb
    • ◆良くも悪しくも、有り難くも、すごい時代に生きてきたものだ…堺屋太一さんのこと

       堺屋太一さんの訃報が流れた。…翌朝の「読売」紙面は、評伝とともに大きく伝えている。 私が、日テレ(麹町)近くにあった「堺屋太一事務所」を頻繁に訪れていたのは、1990年に入ったばかりの頃のこと(引っ張り出した台本から確認)。…思い出は鮮烈で、番組の打ち合わせの時間に合わせて訪れると、大抵は先約があり、堺屋さんはその間にも電話に応えたり、スタッフとのやりとりがあったりで、その仕事ぶりが、とてもうらやましくもあった。 リビングを中心にしたごく普通のマンションのつくりで、ガラス越しに見通せる続きの部屋に入ると、テーブルをはさんで堺屋さんの真向かいに座る。 堺屋さんが背にしている書棚には、ズラリと著書が並んでいて、どの背表紙もヒットを飛ばした周知の書名で、私も、構成台本を書くに当たって読み込んでいた本だったりした。 因みに、堺屋さんの旺盛な著作の中で、『日本人への警告』が1982年で、『知価革命―工業社会が終わる 知価社会が始まる』(1985年)が注目され、『新規の世界・転機の日本 「新戦後」90年代を読む』(1990年)を出さればかりの頃だった…。 打ち合わせが始まると、番組の主旨や全体像をすでに把握しておられ、要所を押さえながらもテーマに関連した話題がおもしろいように広がり、終始にこやかに微笑みながら、しかし舌鋒鋭く的をついていた。…私は、「本」に必要なポイントを押さえるのに懸命にメモをとった。 『堺屋太一の大警告!世紀末!危機からのサバイバル』(1991年1月11日OA)は、日テレもかなり力を入れた特番で、そのタイトル通り、「時代の今を読み解き、世紀末・新世紀に向けて、私たちは、どう生き抜いていったらよいか」を、堺屋さんが提唱されていた「知価社会」「新戦後」を拠りどころに解き明かしていこうという、かなり大上段に構えた、手強いテーマのもの…。 「堺屋太一」を冠にし、文字通り、堺屋さんをメインキャスターとし、司会に生島ヒロシを据え、ゲスト、視聴者代表を入れたスタジオをベースに、多岐にわたる取材Vを投げ込みながら構成した長時間もので、製作著作 日本テレビ、制作協力 インターボイス、代理店が電通、インターボイスの尾上邦美さんがチーフプロデューサーとして仕切り、総合演出を相原英雄が担い、私は、構成のアンカーをつとめた。今にして思えば、その後この種の番組の先駆けになったと、いささかの自負はある。 スタジオ(OPコーナー) 正面中央、堺屋立ちピンスポ 地球儀へと歩きながら 地球儀を回しながら 堺屋「堺屋太一です。1991年、新しい年を迎え、数日がたちました。ここ数年の、激しい世界の動きの中で、今年は、90年代は、そして、21世紀は、どのようになるのでしょうか?今、日本は平和で繁栄していますが、それに慣れきっていることが恐ろしい。とくに平和の時代に生まれ、豊かさの中で育った日本の若者たちの未来は、決して安泰ではない」 私の構成台本は、いつも内容が濃く、ビッシリと活字の詰まったものだったので、嫌がるキャストもいたのだが、私は構成という役割を「ハコ書き」屋とは思っていなかったのだ。しっかりと台本を読み込んで自分のものにした上で、それぞれキャラクターを出すなり、主張をしてくれれば、よりこなれた見がい聞きがいのある良いいものができると信じていただけの話だ。 限りなく媒体が増え、個人が映像を簡単手ごろに出せるようになった今とは、「出し手」も「受け手」も、社会全体も、随分と違っていた…。 ところで、その頃の私は、通産省をはじめとして外務省、総務省、文部省など官公庁関連の番組に、インターボイスのプロデューサー小林明さんや尾上邦美さんとともに多く関わっていた。 中でも、中小企業庁の週一レギュラー「ビジネス ズームアップ」(TBS)は、小林さんに依頼され書いた私の企画で、7年間のすべてをピンで構成したのだが、尾上邦美さんは、ずっとこの番組のプロデューサーとしてにらみをきかす大きな存在だった。 また、相原英雄は、確かプラネットを設立する前後で、彼の手がけた番組の多くを一緒にやった。…その頃、ドキュメンタリー分野で注目されていた「ノンフィクション情報番組」の先鞭をつけるべく、いかに視聴率のとれる、しかも社会的にインパクトを持つ番組を生み出すかに悪戦苦闘していたのが懐かしい。(写真は、TBSの番組を制作時のスイスロケ…相原英雄と) このころのことを書くと、話はとめどなく広がってしまうのだが、そんな「歴史」の中で出会った堺屋さんは、「団塊」の私たちとは、一回りほど上の世代…私たちの同時代を先導していた。 ちょっとおこがましくも一方的ではあるが、「同時代を共有」してきたという、そんな熱い思いが私にはある。 この歳になると、私にとって憧れでもあった人、可愛がってもらったりもした同時代の先輩が、相次いで「あちら側」に行ってしまう。…彼らの遺していった書物や資料が必然のなりゆきで私のデスクの周りに溢れかえる状態になっている。…良くも悪しくも、有り難くも、すごい時代に生きてきたものだ…。Copyright(C) JULIYA MASAHIRO All Right Reserved.

  • 04Feb
    • ◆うんと過去から今に続いてきた生命の連鎖の端っこに…魂だけで「点」のように漂っている…

       母を「あちら側」に見送って一年…その眼差しや息づかい、なによりも言葉を交わすのは、母が「こちら側」にいたからできたことだ。 当たり前と言えばそのとおりだけれど…永遠の「不在」とは、かくも空しく虚しいと思い知る私だが…母のことだ、きっと「お母ちゃんがいないってことが、どういうことか、やっと分かったかい!」ってな具合に「あちら側」で、ひとりごちているに違いない。 で、「こちら側」に生きている私は今、まる裸にして投げ出され、ようやっと私が、まるごと私であり、私でしかない感覚…母の「呪縛」から脱け出した薄い皮膜一枚に包まれた存在とでも言ったらよいのか…なんだか私の生命の礎を失ったかのよう…孤立し、不安な、しかし、たまらなく自由である浮遊を、この歳にしてやっとこさ手に入れ…母から繫がる生命、さらに、うんと過去から今に続いてきた生命の連鎖の端っこに…魂だけで「点」のように漂っている…。 あの気丈で、ある種の気品を自然に醸し出していた母が、私と暮らした、最後の数年間、確実に壊れていった。…総合病院の医師たちの皆が、完全に認知症だと診断したけれど、「母はきっと、私を欺いて、親不孝な私を困らせている」に違いないと、どうしても認知症であると認めることができなかった。 私は、母の愛を一身に受けて、大甘に甘やかされて育てられた…と身近な人々は言う。だとしたら、認知症である母は、私への大甘の愛を注ぐことができず、もはや本来の母ではなくなったわけで、だから私は、そんな母を自然と拒んでしまっていたのだろうか…。 世に「肉親」という呼び方があって、親、子、兄弟姉妹、祖父母、孫など極めて身近な血族を指していうのだが、「兄弟姉妹はなんとやら」であって、究極のところを言えば、私にとっては、どうしても肉親と呼べるのは、ひたすら「母親」に限られてしまう。 にもかかわらず、あの「東京だよおっかさん」のような母への思いを、私は抱けなくなっていたし、「岩壁の母」のごとき母の姿は、私に限ってのことかもしれないが、まるで絵空事のようになっていた。まァそれぞれが「創作の世界の母」だから、かなりティピカルで、あらまほしきようにカリカチュアライズされた母ではあるけれど、世間一般は、恐らくそれが、いつまでも母という存在の姿なのであろう。 母と私の間に入った妻(本当の母のない環境で育った彼女は、初めて得た母と呼べる私の母を、とても喜んでいた)は、「お母さんに、もっとやさしい言葉をかけてあげなさい」と、母に厳しく、冷たくもある私を、陰でさかんに諭していた。 辻褄の合わない言動も、あたかも強い意志のあるような徘徊も、どれが本当で、どれが芝居で、どれが認知症のせいかの判別が全くつかなくなっていった。…「まるで、オオカミおばあちゃん。もしもの時がきたら、“本当”を判断できるのかしら?」と不信と不安の日常の中に私たちはいた。 CT検査によって、頭にも心臓の周りにも動脈瘤があることを告げられていたけれど、主治医からは、血液検査の結果も年の割に良いし、消化器系統は不思議なくらい丈夫だと言われていたから、看護師も介護士もいる施設にいる限り、車椅子を脚で操って思うように動けた母を見る度に、大丈夫まだまだしっかりと生きていてくれると信じていた。 「享年99歳の大往生」…だと皆は言う。 病院に駆けつけた私に向かって、「よう来てくれた、ずっと来んかったからな…」と、思い切り大声で私に向かって吐露した挙げ句、処置室に入っていってすぐだった。…自分の思うこと考えることを、頑として貫いてきた母のことだから、己の死さえも自ら上手くコントロールして、縁ある者たちがその死をあれこれと詮索する間なんかやるもんかとばかりに、急転直下、「こちら側」から「あちら側」へとスルリと境界を飛び越えてしまった…。Copyright(C) JULIYA MASAHIRO All Right Reserved.

  • 26Jan
    • ◆時代のなにもかもがアメーバのような有機体で、ゲバ棒もナンパも、文学も愛すらも…

       「早稲田」に関連して、このblogを遡っていたら、自ら書いた文に違いないのだが、ヘェーこんなことを!なんてのがいくつもでてきた。 例えば、2010年12月20日に… 『ノルウェイの森』(村上春樹原作/トラン・アン・ユン監督)が封切られた。…ストーリーと同時代を生きた私は、懐かしいというより、シュプレヒコールにジグザグデモ、タテカンが乱立したあのキャンパスに、己が姿を見つけ出し、あたかもソイツが今の私を見ているような感覚(デジャヴと呼ぶのか?)に遊ばれながら、おそらく銀幕との時空間に漂い続けたようだった。 大隈講堂と斜交いにあった、2号館の屋根裏に陣取っていた狭いサークル室からぬけ出しては、コンクリートの庇に座りこんで、そんな喧噪を、飽きることなく見下ろしていた…機動隊につかまったのも、確か“演博”の裏に逃げ込んだからだった。そこは袋小路で、ジュラルミンの楯で、こっぴどくこづかれながら引き回された。 DUGにも通ったが、大学のすぐ傍にあったFOURBEATにも入り浸った。 先輩から麻雀の手ほどきを受けたのは、確か“みどり荘”だった。 通称“箱根山”や江戸川公園は、授業をさぼった時のデートコース。神田川の傍には、想いをよせた彼女のアパートがあった…なんてことが現れては消える。 今にして思えば、時代のなにもかもがアメーバのような有機体で、ゲバ棒もナンパも、文学も愛すらも、“ファッション”とひとくくりにして呼べるようなものだった。 みんながみんな、そんなラビリンスの迷い子で、何かを探して(どう生きたらよいのか?なんて)、もがいていたのだろう…。 まッ、一つ確かなことと言えば、何もかも知らないことだらけで、それらを知ることは価値あることで、生きることのすべてが、狂おしい悩みすらも、鮮やかで初々しかったこと。 つまり、時の流れにまみれた今の私なぞ、経験して知った分だけ初々しさを失っている(トキめかないし、たとえトキめいたとして余程なさけないってほど…)というわけだ。 ただし、このところ、すっかり働きが衰えてきている記憶中枢には、随分と期待の高まり(トキめき)を覚えている。なにしろ“過去”というものが、きれいさっぱり雲散霧消していくようだからだ。もしかして、これは老いゆく者への造物主からの恩寵かもしれない…。 それにしても本編、原作のある映画の難しさをつくづく感じさせるものだった。  いささか強引だけれど、観る者をして初々しさの感情を惹起せしめたかどうかが(特に同時代を生きた者たちに)、案外、興収の分かれ目となる…とは、私の勝手な映画評である。Copyright(C) JULIYA MASAHIRO All Right Reserved.

  • 24Jan
    • ◆ウン「虫唾が走る」…それはもう私の本能や生理に近いところで情動されている「嫌」である。

       世に「骨肉の争い」「骨肉相食む」などという、ちょっと物騒な表現があるが、弔いの後、「さァ、親が残した財産をどうする?」なんて具合に、血で血を洗うゴタゴタが、あっちにもこっちにもあって、皆、表沙汰にはしたくはないが、おそらく日常茶飯の事…。 笹沢左保(TVドラマシリーズ『木枯し紋次郎』(1972年・CX)の原作者として知られ、中村敦夫さんが紋次郎を演じて大ヒット)に『骨肉の森』というタイトルの小説がある。 某プロダクションから、それを原作としてTVドラマ化したいという依頼を受けたことがある。…なぜか「骨肉」とは縁があるのだ。 当時は、どんな展開になるかを大まかに説明した「シノプシス」とともに、なぜドラマ化したいのか? 単発にするかシリーズにするか? イメージキャスティングは? など概要を冒頭に、局やスポンサーの食指をそそる「企画書」が必要だったのだ。 そんなことも放送作家としての仕事であったのだけれど、電波の数が多くなった昨今はどうだろう? 巷を見渡してみると、これはTVドラマにした方がよかったんじゃないかと思えるような本(原作は劇画や漫画、はたまたゲームのキャラクターだったりする…)の「劇場用映画」が多く製作されているが、独立系の予算はままならないがテーマのしっかりした映画化ならともかく、確実に、その流れは邦画全体の質を落としているのではないか? もっとも昨年は、『カメラを止めるな!』(ENBUゼミナール・上田慎一郎 監督)という、ちょっとおもしろいヒット作もあったが…(これは、「コロンボ手法」といってよい展開だった)。 映画製作の現場も機材も、そして金集めの方法も、劇場も配給も大きく変遷してきているから、一刀両断にはものは言えない。 多くは、局自体が製作に名を連ねたりしているのだし、電波に乗せたりDVDで売ったり、SNSも大いに活用するという、商い自体が多様化していることを思えばむべなるかなである。つまり、劇場での上映も、それらの一環というわけである。 まァ、私も分かっていないわけじゃないけれど、日本アカデミー賞協会の古参会員の一人として、毎年、大いに投票に悩む…。 東京の封切館はともかく、福山市、広島市や岡山市などのシネコンや単一館に車を走らせても観たい(因みに、この備後府中には、とうの昔に「日の丸館」も「オリオン座」もなくなって映画館はない…幼い頃、くいいるように観た映画も、煙草の煙とにおいに満ちた桟敷席のある映画館もなつかしい…)というリビドーが、このところかなり落ちてきている(それは私自身が歳くって感性が鈍っているのとも関係ありそうだけれど)。 ところで、今年、第42回日本アカデミー賞だが、パルムドールをとった『万引き家族』は、妥当だろうけれど、『孤狼の血』『北の桜守』などが、優秀作品賞に選ばれた。 さて、最優秀作品賞は?と、私も悩ましいところ…優秀外国作品賞には、やはり『ボヘミアン・ラプソディ』『シェイプ・オブ・ウォーター』『グレイテスト・ショーマン』がはいったのは、うれしい。私は、ちょっとひねって、『ファントム・スレッド』『バルバラ』を入れたのだが…。 3月1日、最優秀賞の授賞式が、グランドプリンスホテル新高輪・国際館タミールで開かれる。 オッと待てよ、話があちこち飛んでいるが…、『骨肉の森』だった。 そのTV企画書も、探せば見つかるのだろうけれど、どんなシノプシスを書いたのか思い出せもしないとは、いやはやである…。 というわけで、実はそんな嘆きなど、このところの私にはどうでもよいのだ…話は、「骨肉の」なんとやら…。  およそ家柄・家系や血統、上流階級にセレブ生活なんてことや、はたまた隣近所への見栄や外聞、体裁、「風(ふう)が良い悪い」といったことには、からっきし縁のない私は、それらをほとんど意味のない馬鹿馬鹿しいことだとしか思っていない。 地域での日常生活を穏便に暮らしていくための「術」だからなんていう輩もいるけれど、まァこの手の話には我田引水、牽強付会のこじつけなんてのが多いし、それらには多かれ少なかれ「虚飾」や「嘘」が紛れ込んだりして「本当」や「真実」、そして「イノチ」が見えなくなっているものだからだ。 よしんば歴史的証拠、物件・文献等しかるべき証左があるとしても、それが、今生きているご本人にとって「生きるよすが」の一つにはなり得るかもしれないが、そのまま「人」としての価値にスライド出来るわけではもちろんない。 ウン「虫唾が走る」…それはもう私の本能や生理に近いところで情動されている「嫌」である。 もっとも、個々人に内包するセルとしては、あだおろそかにすべきではないことであるとは思うけれど…。 とは言っても、特に地域で生活していると、それらを「誇り」として生活している人が、おそらく多く、私のように地域にUターンした「でもどり」が地域で孤立するのは致し方ない。つまり、私は、「よそもの」「ストレンジャー」である。などと、すでにあきらめの境地に至っている…。 そこにきて、これまで縁もゆかりもなかったような方(まァ、だいたいは、あちら側に逝ってしまった者のいとこかはとこかわからないような御仁だけれど)が、しゃしゃりでて、根も葉もないことを、針小棒大、マイナーに脚色したりして、あっちこっちで囃し立て、吹聴し、クックッと密かに笑いを押し殺しながら楽しんでいるのだろうけれど、こちとら、なんだか腹を立てる気にもなれやしないのだ。 まッ、ともかく、この私は、ここに生活することを「許されていない者」「許されざる者」なのだ。…近親の一人が言う「あなたは、私にひと言の許可も得ないで戻ってきた」。 一体、私が、私の生まれた場所に暮らす年老いた「母」のそばで暮らそうとすることに、如何なる許可が必要なのか。 恐らく、私がこちらで暮らすことにより、きっと「骨肉」たちの生活が乱されたり、心地よからぬことが起こるのであろう…。なんとなれば、私は、「女に聡く、金には疎い」と思われ、しかも自らもそれを任じているからである。 まァ、ドロドロした血の渦巻くところには、敦夫さんの紋次郎ばりに「あッしにャァ関わりのねェこッて…」と、これは居直りでも、しらけでもなく、私は啖呵を切っているのである。Copyright(C) JULIYA MASAHIRO All Right Reserved.

  • 21Jan
    • ◆鄧小平の「南巡講話」後、数ヶ月…王府井は個人不動産屋がにわか露天を並べていた…

       TV企画「鄧小平の全てを撮った写真家」と新井信介氏に関して、2008年11月(つまり10年一昔前)このblogに、次のように書いていた。中国の片鱗が覗えておもしろい…。 初めて中国の地を踏んだのは、1992年5月…鄧小平の「南巡講話(改革・開放へ邁進すべき)」(92年1~2月)後、「社会主義市場経済」路線に舵をきって数ヶ月しか経っていなかった。  JALで北京国際空港から入った私は、VISAはとれていたものの、更新の迫っていたパスポートにあふれそうになっていた「中華民国(台湾)」の入境スタンプになにか一悶着ありそうで、審査に時間のかかることを予想していた。 が、案に相違して、意外とスンナリと通され、拍子抜けした格好で、しばらくベンチにすわりこんで、預けたサムソナイトが出てくるのを待った。 当時、「鄧小平の素顔」といったテーマの番組企画を某TV局で進めていた私は、中国通として様々なルートを持つことで知られていた新井信介氏(当時、中国駐在の商社マンから転身して92年夏の参議院選挙出馬をめざし様々な活動を展開していた。現在、ユニークな文明評論家として知られる)から、「公私にわたって鄧小平を追い続けている写真家がいる」という願ってもない情報を得て、なんとか“わたり”をつけようと、先乗りしてくれていた彼を、心強いコーディネーターとして取材を始めたのだった。 初めて訪れる北京は、これから変わっていこうとする未来に向けて、人々が本腰を入れた眼差しを向け始めているある種の兆しがあちこちに感じられたが、目で見るかぎりでは、まだまだ自転車の群れが行き来し、王府井(ワンフーチン)の歩道には、個人不動産屋がにわか露店を並べ、一人っ子政策(79年に始められた人口抑制政策で、訪れた92年には、ついに1.84にまで低下していた)の宣伝ビラがベタベタ貼られ、“百貨店”で売られている商品の種類も量も絶対的に少なく、最も大きな書店では、ほとんどの本がGケースに並べられ、求めた件の企画関連の本は、日本円でもかなり値の張るものだった。 なにしろ、上海の浦東(プートン)に林立する超高層ビルも、まだまだ槌音高くまばらに工事が始まったばかりという具合…。 当時、主だった経済評論家をはじめとして多くが、「これからは、中国」と囃したて始めてはいたが、今日の姿を描ききった者は、そんなに多くはなかった…。 この取材で、身をもって学んだのは、「どこまでも人治国家」のお国柄であること…北京オリンピック開催に準備万端整いつつある中国の変貌は、ご存知のとおり、…しかも、まだまだ計り知れない。 ところで、冒頭のTV番組だけれど、当時書いた企画書はこんな風に始まっている。  国家主席の息子が見た中国裏面史『写真家・楊紹明 焼き付けられた証言』 中国ロイヤルファミリーの一員であることを一つの武器として、中国要人の公私にわたる生活を追い続けて来た写真家がいる。 楊紹明(52才・中国当代撮影学会主席、中国撮影家協会副主席、世界華人写真家協会会長)…1941年、楊尚昆前国家主席の次男として陳西省延安に生まれた彼は、今日、現代中国で最も有名な写真家の一人に数え上げられている。 中でも、その立場と父・尚昆の強力なバックアップを最大限に活用して成し得た、中国最高実力者鄧小平の内外の幅広い交友関係とその人間像をテーマに追った一連のドキュメントは、知られざる指導者の素顔をとらえて注目に値するものである。 例えば、彼は、リゾート地・秦皇島北戴河の別荘でファミリーと過ごす鄧小平に同行、数多くのスナップをものにすると同時に、普段は聞けない本音の話も引き出したと言う。 彼がロイヤルファミリーとして生き、そして、とらえて来た一枚一枚の写真は、中国の激動する歴史を、言わば、内側から焼き付けた証言そのものである。それは、まさに彼のポジションでしか可能とならなかったであろうものに違いない。 今日、世界にその活動の場を広げつつある彼は、マンハッタンの雑踏にたたずむホームレスの姿にカメラを向ける真摯な目を持つ国際派の写真家であり、日中の写真家交流にも意欲を燃やし、将来、日本で個展を開くことが夢と言う親日派でもある。 この番組企画では、楊紹明の数々の写真(今日まで公にしなかったものも含む)と証言、及び、貴重な映像資料により、1960年代から今日までの鄧小平の歩んで来た道を縦軸に、中国の激動の裏面史を描き上げるとともに、楊紹明の現在の写真家としての活動を通して、中国の今をドキュメントする。 閑話休題…1997年2月、鄧小平は逝き、この企画も再びクローズアップされた。 その後の楊紹明だが、検索をかけてみると、2003年9月宋慶齢基金会の副主席として、「中国中学生訪日交流団」につきそい来日していることが知れる。彼も、もうすぐ70に近い年齢を迎える…。Copyright(C) JULIYA MASAHIRO All Right Reserved. 【無断転載使用不可】

  • 15Jan
    • ◆「イノチ」と「真実」を今一度見つめてみる imagine あることを願いながら…

       文明アナリスト新井信介は、現代に希有な論客である。…90年代、TVの世界で知り合って以来、今日まで(いやこれからもだろうが)、彼に教えられ悟らされたことは数限りない。 写真は、中国に通じる彼とともに、TV企画「鄧小平の全てを撮った写真家」のために、北京から上海へと取材した折のものである。 俗人然とふるまいながら、しかも超然として、どこまでもピュア、生来の「天からの眼差し」をもって、「世の気」を鋭く読み解く彼は、今年に入って、今がその時だと言わんばかりに人々に呼びかけている…「イノチよりカネ」でなく、「真実よりも、タテマエ」ではなく、「イノチ」と「真実」だけで、列島を再構築しましょう…と。 はからずも、その言葉は、今この私が置かれた状況に引き寄せてみると、まさに「救世主の声」の響きをもって聞こえる(いずれにしろ個々人の生き方が、地域社会・国家・列島…を構築していく)。  ところで、母を「あちら側」に見送って、やがて一周忌…その間、私は、母をとりまいている血縁の、思ってもみなかった言動を身をもって体験し、彼らの「在り方」を垣間見ることになった。 「こちら側」から立ち去っていった人を心から弔い、この世への思いを引き継ぎ、これから生きていく人の「生」を見定めるという、人々の叡智をもって歴史の中で培われた様々な「儀式」や、法的な手続き(相続を含む)は、とてもとても大切なことである。 本来なら、残された者たちが互いを慮って、すんなりといくのがあらまほしきことであろう。とは言いながら、なかなかスムーズにいかないってのが、この世の常であるということも、いかな私とて認識していたのだけれど…。 しかし、現実は悲しいほどにも世知辛く、「イノチよりカネ」「真実よりも、タテマエ」が、まるで正義ででもあるかのようにまかり通っているようなのだ…。 亡き人との網の目のような関係性をよりどころとして(実は、「イノチ」と「真実」にもとずけば何のことはないのだが)、流言飛語を面白く振りまく輩は必ずいるもので、まるで勝者の如き「したり顔」と、やさしき者に「蔑んだ視線」を浴びせかける彼らに、私は、ただただ唖然とし悲しくはあるけれど、やせ我慢の精一杯で、「憐れみの一瞥」をかまそうかしら…。  もちろん、この私を全て「是」としているわけではないし、なによりも己を省みて恥じ入ることばかりではある。けれど、少なくとも私は imagine する。懸命に「イノチ」と「真実」を「則」として生きようと心がけてきた…。 今はともかく「待つ」ことしか、私に方法は残されていない…彼らに、「イノチ」と「真実」を今一度見つめてみる imagine あることを願いながら…。Copyright(C) JULIYA MASAHIRO All Right Reserved.

  • 12Jan
    • ◆50年目の帰還…小雨そぼつ早稲田の杜にジーンズ姿の私は立った…

       昨12月の初め、ほぼ50年ぶりに我が母校の教室に還った。 デニムを生産して世界的に知られるカイハラ株式会社の貝原良治会長のお話を、本部14号館201教室で聞くことができたのだ。 因みに、私は今、会長と同じ備後に住んでいて、有り難いご縁をいただいた。  中小企業庁のTV番組(企画・構成を担当)を書いていた頃なら、大いに興味をそそられる取材であったろうが、「備後絣からジャパン・デニムへ~カイハラの変遷と物作りの考え方~」と題された講演が、どのように今の私をinspireするものなのか、手前味噌の勝手な話だけれど、正直、とても興味があった。 ところで、「教室での勉強は50年ぶり」…なのだが、それでも、新目白を通って、都心へ向かうときにリーガルロイヤルホテル東京を右手に見ながら、「早稲田の杜」の広がりをチラリと見やることはあった。 いや、たった一度、サークルの同窓会に出席した折、なんだかキャンパスを横切ったおぼろげな記憶はあるが、まァ確かに、本格的に足を踏み入れることは、ついぞなかった。 70年安保に向けてキャンパスが騒々しかった頃の私は、初めて早稲田に入ってきた機動隊に捕まったり、サークル室のある1号館の最上階のベランダから甍を伝わり屋根に座り込んで世間を眺めていたり、ジャズ喫茶( FOUR BEATSだったか)に入り浸ったり、雀荘(「みどり荘」)に通ったり、ビリヤードに現をぬかしたり、ともかく文学部の学生然とはしていた。 で、学生の本文として学問に勤しんでいたかどうかは、ちょいと疑問だけれど、卒論を半年遅れで提出し、就職向けのご立派な成績で?卒業したようではあった。 しかし、つらつらふり返ってみるに、ここを出たということが、我が人生にマイナスはともかくプラスに作用したなんてことがあったかどうか…まッ、それも本人の能力と努力次第ではあったのだが…。 そんな私の記憶の中に浮かんでくる70年代の早稲田を、小雨そぼつ大隈講堂や演劇博物館、図書館…高田牧舎、早稲田小劇場、穴八幡などに…歩きながら重ねてみるのだけれど…。 とにもかくにも、懐かしくもほろ苦い早稲田への帰還であったが、2000年代の初めに日本繊維新聞に「ファッショントーク」というエッセイ風のものを書いていて、当時のことや「ジーンズ」にふれた、ちょいとおもしろいのがあった。 そこで、私自身も二重の思い出に浸りながら、そのまま手を加えることなく書き写してみようなどと、今、目論んでいる。『自己暗示とパフォーマンスの男服』 ☆ 自らを鼓舞する服 いかにも「○○らしく見える装い」というのがある。ユニフォームを見れば、着用している人についての周辺情報は、いともたやすく読みとれる。 ところが、営業マンとなると話は別だ。 商談を成功させるためには、TPOにふさわしいことは前提として、オーソドックスな個性や自己主張を控えた服装が好ましいことが多い。 私事であるが、長年どっぷりと浸かり、中性脂肪とコレステロールを体内に貯め込んできた時間が不規則な映像の世界では、一般企業や職種よりも自己アピールがモノを言う。 そこでは、顔色を元気に見せ、勢いをアピールするのに、服装は重要な役割を果たす。 また時には、プロデューサーやディレクターに間違えられないよう放送作家モードの漂う「装い」を心がけながら、脚本や企画のアピールと己の主張までしなければならない。 新番組を立ち上げるための企画会議には、徹夜で七転八倒しながら一滴も残さず絞り出した知恵と企画書を抱えて、いかにも旬の作家の風体で、さっそうと大股で出向くこともある。 はたから見たら、まるで家中のワードロープをひっくり返して着飾ってきたリサイクルショップか、ブランドの見本市か?(相手方も手強く、こんなコケオドシで一目おいてくれるはずのものでもないが…) にもかかわらず、「オレは筆一本でこんなドえらい企画を打ち出したのだ。どうだ、この男ぶりに文句はあるまい!」などと自己暗示をかけて自らを鼓舞するのである。 つまり、随所にスポンサーを喜ばせる口説き文句を効かせながら、自分なりのイメージトレーニングをしていたようなわけで、その日のおしゃれが上手くいくと、プロデューサーやディレクターへの説得力もパワーがみなぎる。 気分の良いおしゃれができた日は、「ごり押し」のような強気の提案にすら、幸運の女神が微笑んでくれ、結果、視聴率まで不思議と取れてしまうなどということがあった。 それはまるで己をその気にさせ、相手もまた陶酔させてしまう催眠空間を演出するようなものだ。(有名ブランドのデザイナーに、魂を吸い取られた夢見心地の純な乙女のごとく) 職業をメッセージしたり、自分自身を奮い立たせる服は、今世紀も健在だ。 ☆ ジーンズの思い出 話は、70年安保闘争の頃にさかのぼるが、当時、キャンパスでの一番人気は、色あせたTシャツにヨレヨレのジーンズ、そして裸足で下駄履きというのが定番だった。(中村雅俊のジーンズとゲッタに憧れたのか?) 方や、ヘルメットに運動靴、タオルで覆面をした、熱き血潮の学生運動家も学内に沢山たむろしていた。 まだ店の形態として、ジーンズショップなどと呼ばれた類は、ほとんどなかったから、お気に入りのジーンズをゲットしたいがために、さんざ探し回った。 帰省するたびに、「そんな薄汚いTシャツとズボンで出歩かないでちょうだい。隣近所の話のタネになるから…」とお袋に泣きつかれた。当時の親の大半は、息子が大学を無事に卒業して、安定した企業に就職して欲しいと願っていたから無理もない。 「とめてくれるなおっかさん」という流行語を生み出すほど、大学紛争が激化する一方で、68年のGNP(国民総生産)は自由世界第二位となり、世はまさに昭和元禄花盛りといったところであった。 ハレンチ、サイケデリック、ゲバルトにノンポリなどの用語が登場し、新宿西口地下広場の反戦フォーク集会では、機動隊が出動してガス弾が使われた。 テレビからは「あっと驚くタメゴロー!」「ニャロメ」、「やったぜ、べービー」、「オー、モーレツ!」とやたら威勢の良い言葉が耳をつんざいていた。 大阪での万博開幕がきっかけとなって、レジャーブームが巻き起こったものの、赤軍派学生がよど号をハイジャックし、三島由紀夫が、市ヶ谷の自衛隊で自決するなど不穏な事件も起こった。 夢と自由と不安が交錯した大波のまっただ中に人々はいた。 時を経て、社会人となった若者は、Tシャツやジーンズを既成路線の「背広」に着替えて、フォークロアやボヘミアンの世界から、優等生よろしく企業に順応していった。 流行は、時代のエッセンスを加味しながら必ず繰り返される。 若い頃からジーンズをこよなく愛してきた、フリーカラー族(重衣料とカジュアルの双方を着る職業)を自認する私にとって、このところの体形の衰えはまさに脅威である!その上、年甲斐もなくブリーフ愛好家で、Tシャツとジーンズを、常日頃、素肌にじかに着るには、腹のたるみと密度の低くなった頭頂部は、余ほど表情筋と気持ちを引き締めないと、カジュアル着との相性が悪くなってしまっている。 折り山線を気にせずにすむ綾織りのジーンズは、社会のルールに身をゆだねた男たちの、しがらみや窮屈さを解き放ってくれる。 アダルト層がジーンズを装うとなると、生き様や、心理状態までも露見してしまう危険性もはらんでくる。 若者は、その瑞々しさゆえか、誰もがそれなりにジーンズが似合う。 今まで出会ったジーンズの似合う大人の男は、自分の生き様に自信がありそうな人が多かった。 五十路の半ばにさしかかってきた団塊世代の大半は、人生のイメージデザインが確立される頃である。 「着ることはできても、着こなすことは難しい」ということが、五十路をすぎて身にしみてきた。 ☆ 粋な背広姿 そんなわけで、やはり背広は、何かにつけ重宝だ。 夏本番になると、仕事先でのミーティングには、ブルゾンとパンツ(チノパンツやワッシャーなど)を愛用し、鬼のスポンサーに会うときには、汗まみれの身体にむち打って、テーラードのセットアップで出かけることにしている。 かつて、お金持ちの伊達男たちは、白い麻のスーツ(同素材・同デザイン)を何着も用意したという。一日に何回も着替えをして、少しでもシワや汗じみが目立たないよう涙ぐましい努力をしながら、涼しい顔で人前に現れた。 クーラーの普及していない時代のエピソードだ。 ひと頃、「カジュアルフライデー」などのキャンペーンが市場を席巻した。 考えてみれば、そのヒントソースとなったアメリカは、元々カジュアル大国である。三億人近い人口を抱えているこの国では、異民族が各々のシチュエーションの中で、身の丈にあったおしゃれを楽しんできた。 フォーマル以外では、着こなしのルールや垣根を飛び越えて、もっと自由気ままなパフォーマンス服(価値表現・伝達の服)を、市場に放出してはどうだろうか? ワイドショーを手がけていた頃、映画監督の篠田正浩さんや、俳優の岡田眞澄さんのスキのないおしゃれにカルチャーショックを受けた。できる男は、顔も着こなしももハンサムだ!【PHOTO:JULIYA KODAMA】Copyright(C) JULIYA MASAHIRO All Right Reserved.

  • 08Jan
    • ◆「定かな顔を持たない女」のくぐもった呟きを、私はサティを聴くように風音と遊ばせている…

       あの夢をみたのが、そもそもの始まりだった。 海辺の廃屋に、女と隠れ住んでいる鮮烈なイマージュ…。 にび色の海から、きりたった崖をつたい上り、這うように吹いてくる湿った風が、窓の木枠の隙間をすり抜け、薄汚れたガラスを微かに震わせ音を立てている。 間断なく聞こえている、くぐもった女の呟きを、私はサティを聴くように風音と遊ばせている。 右腕に抱いた「定かな顔を持たない女」が、揺れる灯りの中で下半身をくねらせ、秘やかなものを開く…露出した白い臀、艶やかに輝いている襞…女の温もりを包む琥珀色の匂いが、「私の時」を覚らせるのだ。 夜の帳がうっすらとした光を含み始めるのを待って、満ち足りた寝息をたてる女をベッドに残し、後ろを振り返ることもなく走り抜き、私は崖の上からダイビングした。 そう、あの頃のことだ。…海を越えてかかってくる電話に、私は日々、戦々恐々としていた。 「私とあなたのことを、ちゃんと、CHIKOさんに言いたいの…私が、get pregnant であることを…今すぐ、お家に電話しても、あなたはいいのかしら…」 そうだ、あれは夢などではなかった。 何よりも、私に関わる女たちの影にとてもセンシティブなCHIKOのことだ、私の挙動に恐らく女の存在を感じ取っていたはずだ。 けれど、最後の詰めの明らかな証拠が手に入るまでは、認めたくない。この日常をあえて崩す必要などない。それは不安定に作為的な均衡ではあったけれど、私が試みていた「女の平和」をいっそ逆手に考えてしまえば、どうってことではないのだから…と、CHIKOは、そんな風に考えたに違いない。 私は私で、強引に前に進もうとするその女に、粘液でからみ取られた虫さながらに牽引されてはいたが、ここで「エイッままよ」とばかりに日本を離れる気持ちにはなれない。 仕事はさておいても、最後のどんずまりのところで、CHIKOを一人捨て置くことなどできはしない。そう、CHIKOは、私をぬきにして生きられない女なのだ。「寄る辺ない女」なのだ。 電話は、時を選ばず襲ってくる。その度に私は、マンションの非常階段を大急ぎで駆け下り、駐車場の隅に駆け込んで、懸命に女をなだめるのだ。 なにもかもが、このまま永遠に続いていくような時の流れ…それが私の宿命…恐らく「母の呪縛」に違いない…。 CHIKOがパリから戻ってきた。 私の海外取材の時もそうだったが、仕事と旅の疲れを癒やすためと、もっともな理由をつけ、六本木か赤坂で、旨いものを食べるというのが二人の決まりだった。 HIROが、その「儀式」に加わって、とことんグラスを交わすことはなくなったが、それでも、a good-mannered family の効果的な演出に、私は満足していた。 このところ、HIROは私の心を読む、ちょっと不思議な力を身につけてきた。 その時の表情が、考え込んでいるときの私にまるでそっくりだと喜んだのはCHIKOだったが、私も内心、「小型の私」を見るようで悪い気はしなかった。 しかし大いに困ったのは、両親の微妙な乖離を埋めるべく、私に関する情報なら、まず一番に私が傷つくことがないように自らの感受性の中で心憎いほどやさしいアレンジを加え、知らぬ間に母親に伝えてしまうことだ。 そんな小憎らしいほど愛くるしくも、ちょっと油断のならないHIROの、離そうとしない小さな手の感触から逃げるように、私は急ぎ足で阿弥陀籤さながらの路地をたどって、瑠璃色の「ドンガメ」を駐めておいたパーキングへ向かった。 私を母親の元へ届けるのが使命だといわんばかりに、クリクリとした瞳にいっそう力を込め、懸命に引きずられるように私の背に追いすがっている。 恐らくHIROは、私がこの街に残している女たちとの痕跡を、天性の嗅覚ですでに読み取り、寄せ集め、組み立てつつある。…鋭く穿った視点を持つそのストーリーの完結が、私は恐かったのかもしれない。 冬の夕刻とはいえ、沈もうとしない陽射しは、赤坂では珍しい父子連れの背を押すように、長い影となって揺れていた。 さすがに子連れで局に駐めるわけにはいかなかった「ドンガメ」を見つけ出したHIROは、私がわざわざ赤坂に立ち寄ったわけを追求し忘れたように、手をほどいて駆けだした。 「ドンガメ」は、私が書いていた番組に出演していた化粧品会社のUから、嘘のような値段で譲り受けたものだった。…ティーローズの香りが深く染み込んだシートは、元オーナーのヒップの形跡がそのまま残っていて、何だか愛おしく愉快だった。 だが、瑠璃色のワーゲンは、ちょっとした事件でも起こそうものなら、私の風貌さながらに逃げおうせるは車ではないのが、プライベートビーチで裸になった快感のように、なんだかゾクゾクさせるものがあった。 「あなたの顔は、モンタージュしなくてもすぐに見つけられるから、決して悪いことはよした方がいい」…昔、住んでいた大家の息子は、私を見据えると自信満々に言った。東大卒の彼は、元警視庁に勤め、猫屋敷と評判だった母屋の天井裏を昼夜なく這い回る癖があった。 私のアイデンティティと不即不離、「車は体を表す」ってわけか…。 80年代、赤坂や六本木周辺に事務所を構えていたTV番組制作プロダクションは、フリーランスの「作家先生」にとっては、飯のよりどころのようなもので、ぶらりと顔を出すのが、ちょいと粋な仕事のやり方で獲物にありつける手立てでもあった。 TBS正面玄関への桜並木の坂道や、いつも猫たちがたむろしていたゴルフ場を回り込んだ坂道は、スタジオに向かう私の心を躍らせたし、くねくねとした狭い廊下は、テレビの世界に生きていることを心地良く満足させ華やいだものにしてくれた。 初めてワイドショーの曜日を担当したテレ朝は、正面玄関のローターリーを囲んで翼を広げたように団地風の局舎が並び、近くには、六本木スタジオや画廊、私が関わった1000ドルパーティのオフィス、そして何より、CHIKOのディオールも、地下鉄に繫がる東日ビルにフロアーを持っていた。 ラピスラズリは、プロ受けする文具の店、六本木に「北回帰線」というお店を出したHOKIとよく待ち合わせに使った珈琲店もあったし、アポイントをとってはりついた「アマンド」は、便利な時間つぶしの場であった。 CXや日テレ、テレ東なども併せて、いくつかの番組を掛け持ちし、新宿に旗揚げした商業演劇一座で舞台の脚色や、企画から立ち上げた映画の本を書かせてもらったり、マギー司郎やユートピアに逢ったのも、私が構成していた子供番組がきっかけだった。 どこのプロダクション、誰の弟子というわけではないのに、なぜこんなことを始めたのか、まッ見よう見まねで何でもやっていた駆け出し「作家」さんではあった。 当然、収入は極めて不安定で、それでも自由奔放な生活が出来ていたのは、CHIKOの支えがあったからだ。 東日ビルの地下に「ドンガメ」を駐めるとエレベーターを避けて階段に向かった。 日産ギャラリーのある1Fのエレベーターの前に、すでにCHIKOは、パリの香りを漂わせて待っていた。 久しぶりのママに、HIROは子供らしくはしゃいで駆け寄った。 「ママ、パパはね、ママのこと首を長ーくして待ってたんだ。パパはすごいよ、ボクに、ニュージャパンの火事も見せてくれたんだ。赤坂はね、パパの庭だって…おかしいよね…」【PHOTO:JULIYA KODAMA】Copyright(C) JULIYA MASAHIRO All Right Reserved.

  • 20Dec
    • ◆人生のアバンタイトルを、まんまとうまく編集しきった恍惚と傲慢さを思わず露わにした風ではあった…

       時のない場のドットは、やがて消滅するブラックホールに逆らい、不分明に果てしない闇に満たされた「空」に、おらそらく宙ぶらりんだろうけれど、はっきりと選ばれた「黒点」となって現れた。…私は、すでに「こちら側」の存在だ。 ごく自然の衝動のように、私は、広がる胎盤に根を下ろし、貼りつき、心音に合わせ温かい体液が送り込まれてくる透き通った皮膜をドックドックと揺るがせ、プニョプニョとした細胞を幾度も幾度も分裂させ、ひたすら「生」に向かって変化するプロセスを刻み込み、生来の羅針盤を頼りに航路を定め、自ら万華鏡さながらキラキラと輝いて、船出のドラを高らかに鳴らし続ける。 私が、「生命」となる胎内で目覚めた時、まるでスクリーンに映し出されるような鮮烈な物語は、その瞬間から、嵐のようにフラッシュバックする記憶さながらに、命の風景をしっかりと体感させるのだ。…あたかも、あらかじめ用意されたシノプシスに従った鮮やかな展開ぶり…。 この私に、選ばれし者の喜びも自負もありはしない。たとえ、「選んで選んで、この子じゃこの子じゃ」と呟く母がそうであっても…。 だがしかし、まるで人生のアバンタイトルを、まんまとうまく編集しきった恍惚と傲慢さを、思わず露わにした風ではあった。…いやそんなこと、あろうはずはない。 どこからか「閃きの声」を聞き「覚醒」し、ドットから穏やかな膨らみになり、透き通っていた皮膜の厚みを次第に増していく、とてつもなく長い時の流れの果てに、「頭脳」と「情動」を持った、形ある「私」になっていく。 その声が、「造物主」からのものなのか、私の母となる者が呼びかけたものか、私自身のモノローグなのか、あるいは他の「何か」であるのか、未だ定かではない…。 けれど今、「ここにある」という真実を認めざるを得ない私は、確信をもって言えるのだ…「こうして、母は、私の初めて知る女になった」…「宿命の呪縛」と言わずして何と呼ぼう。 私は、それでも、呪縛のがんじがらめの枷に懸命に抗いながら生きようとした。望まなかった「こちら側」での生を、課せられたことへの、かなわぬ「レジスタンス」…。 「KIMI、ねェそこにいるのね…わかっているのよ。KIMIを、そこに閉じ込めている以外、手負いのあなたを、私の下に引き留めておく手立てがあったかしら。元はといえば、それが、女たちによって傷つけられたものであればあるほど、そうよ、あなたは、私によって、そこで温かく抱かれたまま守られていなければならなかったのよ…でもね、いくらなんでも奔放すぎたわね。あなたが、海辺の古い館に逃げ込んでしまうようでは…まるで処女の芝居じみた自傷行為のようなものよ…自らの行動はしっかりと戒めるべきってことよ。KIMIのやりそうなことなんて、どんなにうまくおおい隠したって、私には分かるのだから。…ほら、あなたは私に嘘はつけない。あなたはやましいと、その広い額にポッと桜色の天使を浮かび上がらせるわ。それがわかるのは私だけ。そうよ、どんな女にもできやしない…たとえ敏腕の刑事にだって…」 今、こんなところから、最後の一歩が踏み出せないのは、思い巡らせてみると、恐らくCHIKOが投げ打つ「呪縛」の網にひっかかっているからに違いない。 私は、「ろくでもない男」になろうとした。けれど、なんのことはない、全くの大根役者の顛末で…まんまとCHIKOに取り込まれちまったというわけだ。 すっかりCHIKOの体の中に組み込まれ、身動きすらままならないままに、その場を放棄し逃れるなどとてもできやしない。 そう、私は、CHIKOから逃れられない。 やがて、CHIKOの胎内でこのままドットとなり、ブラックホールに飲み込まれ、消滅するのだろうか…。 ほら、そうすれば、CHIKOを抜きにした私の人生はなかったと言わしめるようなものではないか。 傲慢と言われようと、何よりも、私のいないCHIKOを思い描くことができるだろうか…。 CHIKOの眼差しに甘えるようですらある温かさの中で、私は目を閉じる。 浮かび上がるスクリーン…あたかも大島渚ばりの「青春残酷物語」のストーリーに、すんなりと飲み込まれていく。時折、刻印するように色鮮やかな展開を見せる。 それは、脳幹にためこんだ記憶片を、自由自在にコラージュし描き上げる「セクサス」「プレクサス」「ネクサス」…。 赤坂見附…地下鉄の階段を登り切ったところにある小さな公園…くるくると回る遊具に浅く腰を下ろした私は、遠く聞こえるデモ隊のシュピレヒコールを聞いている。 一ツ木通りから路地を抜けた正面のマンションの一室の小さなベッドで過ごした女を、成田からのフライトに見送って、気怠い眠りの中から、やっと起き上がり、たどりついた場所。…女の香りが、まだ指先に残っている。 ニューオータニの麦わら帽子が夕暮れの中に揺れて見える。 あァ、あの女たちと、どっぷりと過ごした一室が見える。彼女たちが出かけた後、夜の明けるのを待つようにして弁慶橋を渡った。 幼かったHIROが、私の掌に包まれて、焼け落ちたばかりのニュージャパンを見上げている。 「パパ、迷子になっちゃうからね…僕の手をしっかりと捕まえていてね…これから、ママに会いに行くんだから…」Copyright(C) JULIYA MASAHIRO All Right Reserved.

  • 31Oct
    • ◆「不条理」は、時として、完結するストーリーの中で「条理」として通用したりもするものだ…。

       依然として「覚醒した不眠」の中にいる私は、あらゆるシチュエーションを考え巡らせてみても、余ほど鮮やかに、あらゆるものを認識している。 それはまるで独立した「脳」が、自動筆記でもするように、次々と「言葉」を編み出し、色鮮やかな「曼荼羅」を描き上げていくかのようだ。 私は、揺籃の温かい心地よさにほだされることもなく、明らかに「覚醒」し、「眠ることなく」、暗闇でスクリーンに映し出される物語と一体化するような具合に生きている。 「ろくでもない男」になれば、CHIKOは、きっと私に愛想つかし、新しい生き方を選んでくれるだろう。…などと嘯いていた私は、一体、そんな手前味噌なロジックが通用するとでも思っていたのだろうか。 あえて自らを悪者にしたてあげ、小賢しくもしっかりと「逃げ場」を確保し、どろどろとした修羅場なんて御免被りたいと、本当は、「ろくでなし」なんかじゃないと自認し、「私は正しく良き男である」と悟った上での、「自虐一人芝居」の役者になりおおせたというわけだ。 私は、そんなおよそ七面倒くさいことを、あえてやった。なぜって、私の前にそれらの「女」が現れる前まで、いやそれからとて、私のCHIKOへの愛と言えば愛は、ほとんど変わることはなかったからだ。 CHIKOは依然として可愛く愛おしい存在で、その頃の私たちの日常は、かつてなかったほどにも満ち足りて幸せだった。   それは、小さな頃、両親の選んだ環境につき従うことでしか生きられなかった境遇を、将来を夢見ることで受け入れ、稀にみる純粋さで一途に生きてきたCHIKOが、初めて手にした「家族の幸せ」だった。 いずれにしろ、そんなCHIKOは今もなお、己のいる場から逃げたり、いなしたり、傍観者になったりすることがどうしてもできない。幼児のような素直さと厳しさで、何事にもストレートに反応し立ち向かう。それ故に、己自身を傷つけ、癒える間もなく命を削り尽くすことになりかねない。…いや、そんな心配をしていたのは、他ならぬ私自身なのだ。 極道非道も甚だしい私の行為は、甘っちょろい言い訳で許されるはずのものではない。 いやそれでも、詭弁も詭弁と分かっているが、その時、「女」たちに向かった私の行動は、幸せのまま、年老いていく私の最後の「冒険」だったのかもしれない。およそ冒険は、頗る安定した生活のバックボーンがあってこそ成り立つものであるだろうから。 そんな卑怯にもほどがある思惑もあって、CHIKOの私への愛を、あからさまに裏切るような行動をしてはならなかった…そう、少なくとも、私の存在自体に非があるという「ろくでもない男」…これからの生活を共にする男としてふさわしくないと、判断せざるを得ぬと思わせるのが、とびっきりの策だと思われた。 「不条理」は、時として、完結するストーリーの中で「条理」として通用したりもするものだ。 それが証拠に、CHIKOは、私の「ろくでもない男」に、不思議がってはいたが、これっぽっちも刃向かうことなく、従順につきあい、「ろくでもない男」を正しい軌道に乗せるために、私の思惑とは裏腹に、仕事で国内だけでなく欧州を行き来しながら、これから歩むべき道を見出したかのように果敢に私に立ち向かってきた。 私は私で、「女」たちも、CHIKOと私の舞台に引き出し、せっせとオムニバス風の本を澱みなく書き続け、一世一代の芝居にからめて技巧を凝らした演出を試み紡ぎ出した。 だが私は、やがてエンドマークが打たれるシークェンス寸前のところで、ドラマトゥルギーを遙かに超えた大団円に遭遇する。 ある「女」は、「あなたは選ばれた男」「初めてオーガズムを教えてくれた男」だと、体液で温かく濡れた中心に力を込めてククッと喉の奥で笑ってみせた。 その「初めて」という言葉を、私は信じた。そんな希有の瞬間を得ることはまずないのだけれど、その時は、信ずるに足る「生理」を私は感じとっていた。それは「天命」とさえ感ずる一瞬だった。 私の母は、私を「選ばれた子」と言った。 「つるつる帽子の水の子の中から、まァ選んで選んで、あァ間違いない、この子じゃこの子じゃ、出てきたきたあんたにはなァ、命がいっぱい、いっぱい、こもっとる、こもっとる…」 柔らかい股の間に小さな身を委ね、小さなペニスを不思議なほどにも堅くした私の耳元で、母は、まるで穏やかな時を食むように、心地良い旋律を囁きながら、いつも背を柔らかく撫でながら寝かしつけてくれた。 母の中で、望みや意識されることのない意志がどうあったかは分かりはしないが、私を形作ろうとする細胞の塊とは、ほとんど関係のないところで、恐らくこの世の様々なしがらみを慮った上で、確かに薄氷を踏むような選択の末、私は「選ばれた子」になった。 母の胎内から出てきたという事実は、私がいかようにしても消し去ることの出来ない事実であり真実なのだ。 「選ばれなかった子の中の一人になっていたとしたら…」 母は、私の「生殺与奪」をコントロールした。【PHOTO:JULIYA KODAMA  無断転載使用不可】Copyright(C) JULIYA MASAHIRO All Right Reserved.

  • 02Sep
    • ◆私は見ないことによって、初めて真実を見る。私は、きっとそんな風に自然を裏切りながら生き続けて…

       私の眠ることのない「時」は、現幻の境界も朧で、まるで「胡蝶の夢かしら」と、あちらでもこちらでもなく、ただただ夢に包含された揺籃のようにゆらゆらと流れていく…。 夢の行き着く先などてんから分かりはしないし、知ろうとする気持ちすら今はない。 だから、これこそ条理なのか、苛まれてきた不安もなければ、好奇心に駆り立てられるようなときめきも、めくるめく快感への情動もない。 私は、この上なくハッキリと視線を定め、何かに狙いを定めて見つめ続けることも、自由に視線を操り周囲を見渡して見ることも、きっとできるだろうけれど、あえて意図するように視界を封印してしまっているかのようだ。 実際、半睡半醒というのではなく、言葉で表現するなら、やはり「覚醒した不眠」が当たっていようか…。 およそ人々がどのようにものや回りを見ているのか分からないけれど、幼い頃から、私がいつも見ているのは、私の網膜に原色で映し出された瞬間のドラマであり、次々と想起され飛び交い展開される、瞬間のドキュメントなのだ。願ったり、しようとしてするわけでなく、それこそが、私の真実であり、唯一私を私として認識できるものだということか。 そう、「銀幕」ってのは、今の今、光と影の織りなす「無」に違いない。それらは「幻灯」であって、そこに実体があるわけではない。 けれど、恐らく、いや確かに、私の中に、しかと刻印された記憶であり、かつてあったものやことの現の記録であるに違いない。だから、それを信じることこそが、私の生である。 かき消されかき消され続くとめどない私の真実…それらを繋ぎ繋ぎして、いくつもの物語を紡ぎあげていくことを、私は止めたりはしない。 こうして、私は見ないことによって、初めて真実を見る。 私は、きっとそんな風に自然を裏切りながら生き続けてきたのだ…そこで、「覚醒した不眠」だけが、私にとっての自然になった。 どこからともなく、いや、すぐそこから聞こえてくるCHIKOの囁きは、私には唯一の、こちら側での生を「ある」ものとして認識させてくれる。 「KIMI、あなたは、パリで私を抱こうとしなかった…同じベッドで背を向けたまま…きっと、あなたは疲れていたのね、今回のテーマはとても難しいなんてもらしていたあなたは、パリをロケで走り回った後、ホテルにやっとたどりついたようだったから、そうよ、そうに違いないわって、私は私にそんな風に言い聞かせていた。あなたの広い背中に額を寄せて、流れそうな涙をぐっとこらえ、息をかみ殺し私自身にそっと触れていたのよ。メゾンで、がんばってなんとか仕事に一区切りつけて、 Quatorze Juilletに合わせてロケを電話で伝えてきたあなたを、どんなにか待っていたかしら…日本を離れた、あの女のいないパリでなら、きっと私だけのKIMIになってくれると、余程お馬鹿さんのように信じていたの…」 今、ここにいる私を、分かっているに違いないCHIKOは、指先の感触で私の輪郭をなぞりながら、小さく呼びかけるように話している。  「やっと休日をあなたと合わせたあの日、バトームーシュでセーヌの風を心地よく肌に感じた気持ちよさに酔いしれた私は、ノートルダムの見えるセーヌ河畔を、あなたの手を、ちょっと強引に引いて一緒に歩いたのよ。私は、打ちのめされ傷ついた心を、なんとかあなたの掌に伝えようとしていたわ。知ってるでしょ、私の男は、あなただけよ。あなたぬきに暮らすなんて考えられないわ。うんと年老いたら、緑いっぱいのパリ郊外にあなたと暮らすのが、私の夢…でも、あなたは、別の女に、そうどんな顔した、どんな素性かも知らないけれど、心を奪われていたのよ。私以上にあなたを思っている女なんていない。きっと、きっとそれは本当のあなたじゃないわ。あなたは片時の間、あなた自身を見失っていたのよ。そのくせ、そのことを私に知られまいと、一生懸命、格好だけはルーティン作業のようにとりなしていたのよね…それって、私を悲しませないための、あなたの残された優しさだったのかしら…」 「ろくでもない男」になれば、CHIKOは、きっと私に愛想尽き、辟易として、憎しみすらも抱くことなく、それほど悲しまないで私から離れていくに違いない。愚かにも、アリストパネスの「女の平和」を実践しようとしたわけだ。 CHIKOの私への絶対的な愛の忠誠を、それまで、私はほとんど妄信していた。どんな魅力的な男が現れようと、CHIKOは、私を裏切りはしない。私が、疑心暗鬼に身をやつすことはなかった。事実、CHIKOは、そのとおりだった。私が背を向けている何年もの間、私との冷ややかな関係を外にもらすこともなく、表向きいきいきと仕事に没頭していた。仕事のあれこれをむしろ楽しそうにさえして、饒舌に話してくれていた。 だがそうであっても、私は、セクシャルな愛の繋がりを、あまりにも甘く見すぎていた。 「女の平和」…それは優しさなんてものではない、一人で思い込んだ奇妙な理屈、卑怯にも程がある。【PHOTO:JULIYA KODAMA  無断転載使用不可】Copyright(C) JULIYA MASAHIRO All Right Reserved.

  • 01Aug
    • ◆私の逡巡は、おまえのピュアな心に値しないことを痛いほど知った男の羞恥のあまりの尻込みのような…

       私は、すっきりと明晰な頭脳を持つ人のように、三半規管をコンパスさながらに使い、今、在る「場」と、先に向かって打つ心音によって、流れゆく「時」を確認すると、明らかに覚醒していると、ホッとする。 いや、それも束の間だ。 次の瞬間、脊髄を駆け上るようにして襲ってくる得体の知れない感覚が、目頭から身体全体をジワジワと覆っていく睡魔となり、私の覚醒は、重く気怠い肉厚の皮膜に拘束されていく。 私は、目蓋に力をこめ、凍り付いていく身体に温かい気力を吹き込むようにして、眠りの誘惑に必死の抵抗を試みる。 だが、まるで早乙女に魅せられ、うっとりと潤んだ瞳の少年のように、眠りの底にズルズル、ズブズフと引きずり込まれ、もはや拒むこともままならぬまま身を委ねてしまう。 やがて、ニューロンが極上のオーガズムを味わう心地よさで、夢に喰われ、夢だけに満たされた空間に、私はゆらゆらと漂い始める。 パノラマのように展開される原色の夢は、私の目の前に迫ってパッと消滅してしまうものもあれば、ディゾルブして現れたり、ビリヤードのテーブルに飛び交うカラーボールのように、私を目眩ませするものもある。 それらのほとんどが、なぜか私の知る女たちと私との愛憎劇…いくつものストーリーが瞬時に、しかも幾重もの展開をみせ、過去から、今の私へとまるで因果応報と言わんばかりの結末を描いて繋がっている。 こうして、夢と戯れることはしごく簡単で、結構、楽しかったりもする。それに、女たちはみな愛おしく、私にやさしい微笑みをくれるのだ…。 いや今、そんな蜜の誘惑など、どうでもよい。 私は、次々とまとわりつく夢を振り払い振り払いして再び覚醒しようと、心底、強く望んでいる。 私はCHIKOに呼びかけ、忠誠を誓おうとする男なのだ。 そこで、夢の狭間から言葉を探し出し、絞り出すモノローグのように語りかける。 それは、CHIKOへの、私からのサイン…。 「ほらCHIKO、ここだよ。おまえの中に、柔らかく優しく温かく包まれて、ここにいる。おまえは、きっと、私からのこの呼びかけ…そう、私の、恐らく意志のような微かな動きを感じとり、おまえもおまえで、穏やかに満ち足りた至福の時の流れに身を任しているのかしら…きっとそうだ。そうだとしたら…」 ゆったりとした背もたれの長椅子に身体を横たえたCHIKOが、私のサインをなぞっているのか、天蓋に包まれた空間に、子供のように小さな指先を筆先のようにゆっくりと這わせ、言葉を描いているように、私には見える。 明らかに私を感じているに違いない。 「決して私を裏切ることのなかったCHIKO…私は、そんなおまえの一途な心に、卑怯にも胡座をかいて慢心していたのだ。おまえが私を感じながらも、私が見えないのは、それはきっと、私のせいだ。私の逡巡は、おまえのピュアな心に値しないことを痛いほど知った男の羞恥のあまりの尻込みのようなもの…」 言わねばならぬ、言葉で伝えなければならぬという私に課せられた、そう使命のようなものは、あれほど読みたいと思い続けてきたハードカバーの一冊、例えば、かつて貪るように読んだヘンリー・ミラーを手にした途端、極めて冷静に読む気を失ってしまうのと、なぜか同じように殺がれてしまう。 あるいは、人々とともに在ることを拒否し続けてきた日常生活の、きっとそれは代償…無名であることを望んだしっぺ返し…。 今は、夢を夢とすることのないように時は流れている。 透き通った果てのない場…私のあらゆるリビドーが冷たく横たわっている、「罪と罰」のない私の夢…つまり、無名の人としてCHIKOとともにあった日常生活の夢のような楽しさと、ひきかえにした、あえて選び取った「覚醒した私の不眠」が、こうして始まる…。【PHOTO:JULIYA KODAMA  無断転載使用不可】Copyright(C) JULIYA MASAHIRO All Right Reserved.

  • 22Jul
    • ◆時折、己の中に住んでいて、意識することもなかったDevilが突然現れてきて、思わず打ち震え…

       人は、誰しも二つの顔を持つのではないか…(ごく稀に、もっと多くの顔…多面的な人格を持つ人もいるけれど)。 よく知られているジキルとハイドは極めて象徴的だが、そこまで明確でなくとも、裏と表、内と外、内輪と社交etc.と、自由に自然に、そうした二面性を、日常・非日常的にうまく使い分けたり、ないまぜにしたりして過ごしている。 しかし時折、己の中に住んでいて、意識することもなかったDevilが突然現れてきて、思わず打ち震え、立ち竦んでしまうことがある。 「自分以上に己を知る人はいない」などと、以前にも書いたことがあるが、私も、ある意味二面性(いや、多面性か)があり、Devilを持っていることを否定することはできない。…正直に認めよう。そう、常に己を省みることは大切なことだ。 また人々の中には、相手の話を真摯によく聞こうとする耳をもたず、あるいは事前に調べたり、相手が社会に向けて発した作品(絵や著作などの芸術作品でも、そのあたりに書き散らしたものでもよいのだけれど)や、仕事・貢献などを深く知ろうともしないで、己の尺度だろうが、「見ていれば分かるよ」などと、高慢な言辞をはいて、とくとくと、これみよがしに、理路整然と平然と、一方的に責め立てたりと、思わぬ顔…つまり裏の顔を見せる人がいる。 ここまで言って、これ以上言わないのは、とても卑怯だ。それに私としても、何だか居心地が良くない。そこで、「エイッままよ」とばかりに話してしまおう。 それはつい最近のこと…社会的にしかるべき評価を得ている人が、思ってもみなかった「顔」を見せ、最後は殴りかからんばかりに私に迫ってきた。…私は、心底、愕然としてしまった。 彼は、私のパートナーに向かって、はっきりとこう言った。 「あんたを見てると笑ってしまうよ」…と、実際に鼻でせせら笑って見せたのだ。 いかなる理由があろうとも、それはいけない…私は唖然とし、瞬間、言葉さえ失ってしまった。 彼は、私や私のパートナーと親しい会話すらしたことがない。一昔前から私の家族内で起こったことの事実(真実)を知らない(知っているのは、その片鱗か、公平性を欠いた一面、誰かから聞いた伝聞であろう…つまり、問題となっていることへの裏取りをすることなく、その原因を作ったと思しき私にも真偽を確かめていない)。 ましてや、私のパートナーが社会的にやってきた仕事の実績を知りもしないし、知ろうともしない(まァ、それは彼のスタンスで仕方のないことではあるが…)。 確かに、近い親戚関係にありながら、諸々について知ろうとしても、8年ほど前まで、離れた場所に住み、疎遠で困難ではあっただろう。それにしても、私たちは、年長の彼の「仕事ぶり」に敬意を払ってきた。 ところが彼は、非難する相手の弁明も聞くことなく、嘘の話(パートナーが第三者にした話を、その第三者がアレンジして彼の妻ないしは彼に伝えている…それは、私のパートナーの心を深く傷つける内容なのだ)を聞いて、それにからんだ自分の行動を正当化する嘘(私は、パートナーから詳しく状況を聞いて、彼の説明するストーリーは決してありえない…と確信している)をついた。 う~ん、これはいけないね…いかなる理由があろうとも…。 それにしても彼は、「私は、嘘をつくのが嫌いだし、嘘をついたことがない」とか、「私は、他の人から物を譲り受けるより、自分で稼いで手に入れる人間だ」などと言って、「もしかして年のせいかしら…」と、私を驚かすことが、ここ何度もあった。 「嘘も方便などと、人間社会の潤滑油的な罪のない嘘もある。それにね、嘘をつかぬ人はいない」のだし、「譲り受け、それを再度役立てるのは、物を大切にし、経費節減にも繋がる、今日的なエコ社会実現への努力であり、本来、それは良いことではないか。つまり、稼ぐという営業活動とは別次元の話」だと、私は思うのだが、どうだろうか。 私は、生理的に(本能的にと言って良いかも)、イヤだと感じた人々との関わりを、はなっから拒んでしまうところがある。 かくして、人付き合いは悪く、世間的に親友とか友人とか先輩とかって親しく呼ぶ人を持たない。しかし、それにしても、どんな人であれ、話は、真剣にとことん聞く(ドキュメンタリー制作を生業としていたからか、いい加減に生きてきた人間だからか…)。 それは、言葉を使って話すと言うことが、何よりも大切だと知っているからだし、言葉でしか己の存在を「在らしめる」ことができないからだ。 まァ、「あうん」とか霊感とかインスピレーションとかって言うけれど、とどのつまりは、生きていく以上は、「言葉…言霊」なのだ。【PHOTO:JULIYA KODAMA  無断転載使用不可】Copyright(C) JULIYA MASAHIRO All Right Reserved.

  • 14Jul
    • ◆だから、私は、”imagine”する…”imagine”することを糧に生きていく…

       ちょいと下世話な話ではあるが、ほとんど日常的に切羽つまった窮地において、人は「こちらの身になって考えてみなさい」とか、「もし、あなたが私と同じ立場だったら、私と同じようにするでしょう」なんてことを、余程身につまされた深刻な表情で、半ば罵るように激しく強い口調で、最後通牒のように言うことはよくある。 こんなことを言う人は、己を真ん中に据え、「あちらの身」の状況を慮ることなく、「あちら側」に全面的な非があると初めから有無を言わさず決めつけ(もちろん、それなりの証拠は集めているんだろうけど)、それを大前提にしているから、よくよく考えれば利己的でおよそ手前味噌なことをストレートに言えるのだろう。 それに、そんな言葉を発するとき、その人の感情は最高潮に達し、立ち止まったり、後戻りして冷静に考えみるなんてことはどだい無理な話で、ほとんど蟻地獄のような興奮状態にあると言ってよい。 まァ本当は、まずもって、「あちら側」つまり、相手を気遣い、「相手の身になって考える」ことこそが大切なことなのだろうけれど…。 さて、そう言われた者は、本音を言えば、「あなたこそ…私の身になって…」と、全くそのままの言葉を発言者に向けて返したいのだけれど、相手が親しければ親しいほど、その立場とか性格とか行動などがよく分かっているわけで、大抵は、「はァ、申しわけありません。そうですね、私が悪うございました」なんて、礼儀正しく返事して、波風の立たない処し方をするのが、ほとんど…うん、とりあえず、それが賢明だ。 しかしまァ、私は、こうしたことを高飛車に言う人を、はなっから好きではないし、たとえ血族一統であったとしても、できることなら関わりたくない御仁である。 それでも、あえて申し立てをするなら、例えば(と言っても本当に体験したことだけれど)、私が、結構大変な手術をし、その結果を、自宅で待つ者たちに伝えなければならないなんて時には、私はもちろんのこと、私の生死を前にしたパートナーとしては、疲労困憊、ほとんど異次元の時が雨霰と流れているような状況では、一本の電話すらできないというのが正直なところ…「こちらの身になってほしい」のは、どう考えたって、こちら側の方なのだ。 そして、例えば、「私と同じ立場だったら同じようにするでしょう」と言われて、つらつら考えてみると、うーん第一、あなたと私は、別人格で、たとえ同じシチュエーション(人間関係において配役が違えば当然、同じなんてことはありえない)にあったとしても、同じように考え同じように行動するのは、ほとんど稀、いや皆無と言ってよい。 私は、返答することができず、頭を垂れて「ウムッ…」と黙り込む以外にない。 いつも、そんな人々に対して、私は思うのだけれど、「なぜ、あなたは、慮り、思いやり、気遣い、”imagine”しないのですか?」…自分の思考の中のエレメントを、いくら寄せ集めたって、そんな寒々しい閑散とした身の細る言葉をしか発することしか出来ないでしょうに…。 ”imagine”しないで、「数字」や「金銭」や「物」だけを根拠に、ものごとを判断すると、とりあえず表面的にはキッチリスッキリしはするだろうけれど、そこには世知辛い、ギクシャクとわだかまった人間関係しか残らないのが必定。 しかも、次の瞬間、心の中にとぐろを巻く正体不明の闇の存在に気づくだろう…己の存在に打ち震えることになるだろう。 だから、私は、”imagine”する…”imagine”することを糧に生きていく…。【PHOTO:JULIYA KODAMA  無断転載使用不可】Copyright(C) JULIYA MASAHIRO All Right Reserved.

  • 21Jun
    • ◆このご時世、SNSだ、なんだかんだと、いい加減で無責任、フェイクな情報が、オーバー情報の中で…

       それにつけても、このご時世、SNSだ、なんだかんだと、いい加減で無責任、フェイクな情報が、「オーバー情報」の中で、わんさかと飛び交っていることか。 とても恐いのは、そんな情報etc.(オリジナルなコンテンツならまだしも、大抵はコピペ切り貼りである)を、ごくごく一般人、つまり素人さんでも誰でも、アプリ一つで玄人ばりのもっともらしい出来栄えで、手軽に発信できることである。 はたまた、他人のブログやツィートやインスタに「いいね」することで、単純に「同意」「推奨」するならまだしも、それはそれでいいのだけれど、あたかも、評価、審判したかのように、意識してかどうだか、己自身がちょっと「偉そうなポジション」に立ってしまっていることである。 早い話、パソコン一つ、自由自在に操ることさえできれば、たちどころに全知全能の神の如くふるまい、さらに時として、血迷うことだって不可能ではないだろう。現に、そんな輩が、目を覆うばかりの所業に及び、事件になることだって日常的に起こっている。 パソコンやスマホなんてのが、この世に存在しなかった時代を生きてきた私ならずとも、「なんだかイヤだね」感を拭い去れぬ方は少なくはないだろう。 ところで、若者たちからスマホを奪ってしまったら、彼らは、あたかも己の「頭脳」を喪失してしまった状態で茫然自失といった風になってしまうこと必定だと、私は確信している。 まッ、「ざまァみろ」なんて、片時もスマホから目を離さず、スマホで会話する(真の会話ではないが)連中に対して、ちょいといい気持ちになるのである。 もちろん、時代と共にIT抜きにビジネスもあり得ない状況であることは、百も承知だ。しかも、個人の生き方だって頑なにいにしえに固執していると、時代に取り残された感もあり、いわゆる「便利さ」も享受できないという、一抹の寂しさはあるけれど、まァ、それでも充分に、楽しく生きていけるわけで、どちらがいいというワケのものでもないだろう。 時代を比較して良し悪しを言っているわけではない。ここは、個々人の価値観に依拠していただく以外はないが、時代の趨勢は、とにかく、しかと把握して対処する必要はあるだろう。 まッ、極論はともかく、極めて個人的に身近な情報一つに限って言えば、かつても今も、「スマホ」時代に似たことは、大なり小なり結構あるのである。 例えば、つらつら周囲を見渡してみると、身近な親類縁者や向こう三軒両隣から発せられる言葉にも、エッと思わず声を上げ、認識の違いとか、誤解も誤解と悲しくなってしまうようなことが潜んでいたりする。 さらに言えば、私自身はちょいと埒外にして、たとえ父や母から発せられる言葉を、「愛」と「思いやり」をベースに、非の打ち所のない平衡感覚のあるものだと信じていたら、悲しいかな、とんでもない大間違いである。 なんだろう、「親とて人」だからしようがないにしても、それらの言葉が、私や周囲の人々の心を深く傷つけるものであったとしたら、しかも、すでに親なく、直接、それらの言葉の真偽を確かめ得ない今となってみると、一体、何に救いを求めたらよいのだろうか? 私は、身につまされて思うのだけれど、やはり裏取り捜査ではないが、少なくともあらゆる多面的な情報収集と、様々な分析・検証、それよりなにより、普段からの旺盛な好奇心による知識と常識の蓄積、己の判断力と想像力の切磋琢磨、研鑚が必要である。 いやはや隔靴掻痒なことを言っているのが、私にも分かっているので、如何とも表現しがたいのだが、世の中、何が何でも「己が正しく」「すべて相手に非があり」「身の程知らず」で、「反省しない人」は、結構いるもので、文字通り、自らのポジショニングが定かでないままに、ものを言ったり、行動したりするので、本当に迷惑を通り越して悲しきことこの上ない。 それはもう、言語道断、人間性をすら疑ってみたくもなり、なんだか、その人の姿形まで「醜さ」の極みと、私には見えてしまう。 が、ちょいとややこしいのは、中には、「身の程を知り」ながら、「我が身をわきまえぬ」挙に出たり、ものを言ったりする「輩」も結構いることで、「エッ、この方どうしちまったんだい!?」なんてのを通り越して、これはもう「質が悪い」としか言いようがない。 明らかに、己の「身の程」を、まま知っているが、それ故に(よくよく考えれば、「原因」や「非」は、己にある「弱み」のために、その生身をもって面と向かえないのか)、都合よく「己を棚上げ」にして、なんだか拾い集めた「情報」や「根拠」によって、手前味噌な「言い分」を構築し(ちゃんと、事あれば「逃げ道」のあるようにと怠りないのだが)、「言いがかり」をつけ、「誹謗」「中傷」し、とどのつまり下品(げぼん)な「脅迫」をしているからどうしようもありゃしない。 本来、「身の程を知ってる」人は、我が身をわきまえ、自ずと「賢い」社会生活を地道に営んでいるわけで、フェイクな情報etc.を盾に社会の害になったり、ましてや「人の心」を傷つけたりは決してしないものなのだけれど…。【PHOTO:JULIYA KODAMA  無断転載使用不可】Copyright(C) JULIYA MASAHIRO All Right Reserved.