言いたいことはわかる | 今日も庭に居ます

今日も庭に居ます

ばらと多肉に囲まれたほったらかしガーデンの
お花の話と時々、暮らしの中での出来事の
ガス抜きをちりばめたブログです。




アメンバーは新規募集しておりません。ゴメンナサイ。m(__)m

 

今日のヤフーの記事に

某テレビのコメンテーターをされてた方が

 

「母親の居ない子は不幸」というMCの言葉に反論して

その番組を降板、、とか、何とかという記事が載っていた。

 

 

言いたいことはわかる。

 

どっちの方のも、、ね。

 

私は片親で育った身だ。

でも自分を不幸だと思ったことはない。

 

もちろん

両親は揃っていられるのなら、

揃っていてくれたほうが良いと思う。

 

私がまだ子供の頃にも

いわゆる「毒親」で悩んでた人は私の周りにもいっぱい居た。

それを間近で見ていて、

たとえ憎しみの対象でも生きて居てくれたなら

と思ったこともあった。

 

だって、死んでしまったら

そこから先には、なんの思い出も生まれないんだから。

たとえ言い争っていても、判り合えずに疎ましく思っても、、

それは生きていているから出来ることなのだから。

 

子供の頃は不安になった時、

振り返られる場所が必要だと思う。

困って、悩んで、振り返って、、、

でも自分を見守ってくれてる人がそこにいることに気が付いて

再び前を向くことが出来る。

 

たしかに、、

振り返ってみたら誰もいなくて、、

自分の周りが全く当てにできない、と判ったら、、

辛いけど、その場合でも、

それはそれで、また強くもなれる。

(これは、なにも子供の頃から、

味わなくてもいい「孤独」だと思うけどね。)

 

幸いなことに私には振り返えられる場所が

母の他にも居てくれた。

 

実の母親のように

どんなに無防備な格好でも平気な

一番温かくて一番優しい場所では

なかったかもしれないけど

 

そもそも、、

そんな記憶はほとんど自分の中には持ち合わせていないのだから

「住めば都」で

十分優しさも温もりも与えてもらえた有難い場所だった。

 

「親が居なくて可哀相」は

私もよく、子供の頃から言われていた言葉。

だから、言われた気持ちがよくわかる。

 

この言葉は、上から目線の言葉なのだ。

そう言いながらその人は

その子供のコトを憐れんでいる。

 

憐れむという感情は自分が上の立場に居る。

言葉は悪いが相手を下に見ているのだよ。

 

親本人だって死にたくて死んだわけではない。

小さな子供を残して逝くことが

どんなに無念で辛いことなのか、

今は自分も親になった身だから、

その気持ちは痛いほどよくわかる。

 

もし母が居てくれたら、、

たしかに、私の人生はもっと違っていたと思う。

 

同じ女性としてもっと、たくさんのことを教えてもらい

きっと、たくさんの助けを乞うことも出来ただろう。

 

娘にとって、母親はそん乞唯一無二の存在なのだから。

 

でも、

 

幼い時に母親を失くして残された子供は

「不運」ではあっても決して「不幸」ではない。

 

運が悪いのは、リカバリーできる。

運というものはいい時もあれば悪い時もあるのだから。

 

でも、「不幸だ」といわれてしまうと、

もうその子は早々と「幸いでない」と決めつけられて、

その先も、やり直すことは出来なくて、

(だって実の母親はもう二度と、

その先も絶対に見つけ得ることは出来ないのだから)

「不幸」を変える事は不可能で、ずっと続くことになってしまうんだよ。

 

きっと、、コメンテーターの伯母さんは

自分の可愛い甥っ子姪っ子たちの未来を不幸だと

決めつけられて言われることに我慢が出来なかったんだよね。

 

 

因みに、、

私はこの朝の番組はほとんど見たことがありません。

MCの方も、このこめんてーたーの方も

好きラブって思う人ではないので、、。

 

 

、、ていうか、、

 

朝のワイドショー番組自体が、

ただ無責任にワーワーと騒いでるだけで好きじゃない。

 

ネットは、即座に情報を知る事が出来ていいけど

誤報やフェイクも多いし、

TVは、最近は得体のしれない人がたくさん出てきて

思ったことを口にしてるだけで

ウルサくてずっと聞いているのが辛くなるし、、。

 

新聞は、、

時差があるし、、

 

何よりも目が、、ね(笑

 

あーー、、私も厄介なお年頃になったもんだわチュー