福山城の次に、同じ城内にある草戸千軒ミュージアムに行きました。
草戸千軒と言うのは、現在の芦田川R2神島橋の少し下流辺りの中州にあった、草戸と言う集落の事です。当時は陸続きで中洲ではなく、漁港として栄えました。漆塗りや鍛冶師などの職人もいたようです。草戸千軒と言う位、多くの家屋が建ち並んで栄えていたと言う事のようです。
成立は鎌倉時代中期13世紀だと言われています。福山城ができて、福山市が発展し始めたのは、江戸時代初期からですから、それより以前の遺跡と言う事になります。大正15年(1926年)芦田川の川の付け替えの工事の際に遺跡がある事の確認はできたそうですが、それだけで深い調査が為されなかったそうです。その後付け替えによって中州になってしまった場所を昭和48年(1973年)から本格調査が始まり、平成6年(1994年)まで発掘調査が続けられ、その際の出土品を中心に展示されているのがこの博物館です。
発掘調査の際に撮影された、中州にある草戸千軒遺跡から北西の方角を望んでいます。中央付近に見えるのは、今も芦田川沿いに建っている国宝明王院です。
草戸千軒の位置関係です。赤い部分がそうです。現代では、芦田川の付け替えによって、中州付近になっていますが、鎌倉期は海岸近くにあり、漁港となっていたようです。
鎌倉から室町期に栄えて、室町末期から戦国時代にはもう廃れていたようですね。以前は江戸時代に起こった水害が原因とされていましたが、発掘調査により、江戸期以前に政治的、社会的要因により町が衰退していったとされています。
北部地域から発見された遺跡をもとに模型で再現されたようです。
実物大模型が館内に再現されています。造りとしては当時としては、庶民生活の平均だったようです。
屋内には食膳も再現されています。上下とも飯と汁物以外にも3品提供されています。家屋の造りと比較して豪勢です。上の椀物はハマグリ、下では1人1尾ずつの鯛の塩焼きです。
案内の人に伺うと、決して豪勢と言う訳ではなく、ちょっとした祝膳程度だと考えているとの事でした。魚介類が豊富に採れる漁港だったと言う事で、発掘品の中でも鯛の骨は、魚の中で最も多く発掘されているそうです。また犬食も行われていたようで、包丁傷のある犬の骨も多く発掘されているそうです。
古銭も多く発見されています。江戸期前に衰退したため、寛永通宝などはありません。多くの穴銭の束を見ましたが、殆どが北宋時代の中国から持ってきたものでした。当時日本国内では貨幣を鋳造しておらず、中国から輸入されていたものが流通していました。1枚どれも1文として通用していたようです。大体今の価値で1文=20円位と思えばいいと思います。
手に取っているのは元豊通宝の篆書体です。この当時宋では、楷書と篆書と同じ銭名でも2種ずつ存在していました。元豊通宝は現代日本国内でも最も多く現存しており、希少価値という面では、殆ど無価値に近いものです。
草戸千軒は名前は知っていましたが、今回かなり詳しく掘り下げて知ることができました。以前はなぜ中州に集落を構えていたのかと疑問でしたが、川の付け替えで、今では中州になってしまった漁港だったと言う事が理解できました。