どんな死に方がいいかなんて分からない | わたしをあたためるもの*TENTHOUSANDTHINGS

こんにちは!なつこです

 

のっけからちとアヤシイ話ですが・・・先日、友だちが知人からとある儀式?祈祷?に誘われた話を聞きました。

 

それがどんな組織のものかは定かではないのですが(宗教ではないらしい・・)

その儀式を受けると得られる恩恵はいろいろあるらしいのですが、何といっても「亡くなるときコロッと死ねる」というのが大きなふれこみなのだとか。

 

コロっと死ねる。

 

寝たきりになったり、病気で苦しい思いをせず。

誰にも迷惑をかけず、痛くなく、苦しまず。

 

やっぱり死ぬのって未知数だし、すごく怖い。魂は無限とか言われてもやっぱりそのときになったら怖いんじゃないかな・・・

 

せめてコロリと死にたい。

それはいつの世も多くの人を惹き付けるキーワードなのかもしれません。

 

そんな背景もあるのか、その儀式は結構人気があるらしいです。

 

 

が、その友だちのいうその儀式がウソか本当か、はたして効果があるのか真偽は分からないのですが。

どんな風に死ぬか、どんな死に方がいいかなんてそのときのその人にしか分からない。わたしはそう思うのです。

 

 

昨年亡くなった父が入院中、兄に「お前たちとこうやっていろいろ話ができて、こうやって最期を迎えられる。おれはこれでよかった」と話していたそうです。

 

母は突然脳の血管が切れて倒れ、意識が戻らずそのまま亡くなりました。父は母のことを思い出し、そう言ったのでしょう。

 

「母さんもきっとみんなにいろいろ話したいことがあったと思う」とも言っていたそうです。

 

 

今思えば、もしかしたら、母ともっといろいろ話したかったのは父だったのかもしれません・・・

 

 

母がいわゆるコロッと死んだというのには当てはまらないかもしれません。でも。母の最期と父の最期。ふたりの最期に立ち会ってみて、どちらの死に方がいいかなんて一概には分からないし、選べない気がします。
 


 

 

 

10月3日は母の16回目の命日でした。

母の好きだったかぼちゃパイをお供えしました。

 

 

コロッと死ぬのであれ、闘病の末亡くなるのであれ。

人はいずれこの世から去る。それだけはどうやっても変えられません。

 

どのような亡くなり方をしたとしても、そのありようは遺された人に大きな何かを遺していく過程なんだ。それだけは確かなようです。

 

 

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10月15日から22日までタイチェンマイで開催されている

瞑想トレーニングに参加してきます。

帰国後はフルフィルメント瞑想改め、ELM瞑想の伝授を開始すべく準備を進めます。

チェンマイで新しくなった瞑想を肌で感じてこようと思います。

 

トレーニング中は連絡が滞るかもしれません。

遅くとも24日までにはお返事します。

 

どうぞよろしくお願いします。