こんにちは~
ひなゆずです
この前ちょっと大きめのパッカンが来たので備忘録的に記事にしてみるね。
その日は娘の公立高校の入試(面接)の日。
私は送迎でついて行って、近くのスーパーの駐車場に車をとめて試験が終わるのを待っていました。
筆記試験ほど長くはかからないだろうけど、
いつ終わるのか分からなかったので
読んでなかったコチラの本を持って行ったの。
すごく読みやすくわかりやすく、スルスルと読みすすめていって、
後半にさしかかったころ…このページに手が止まりました
//不安になるという状態は、不安という周波数に自分の周波数を完全に一致させているということであり、
それは恐怖であれ何であれ、どのフィーリングも同じです
フィーリングは周波数でありフィルムです
僕たちは感情というフィーリングをフィルムとして映像化し、
その映像に強くフォーカスすることで、このことによってこんな思いをしていると、
使っているフィーリングをリアルに体験していただけなのです//
*目覚めへのパスポート P116
ここ読んだ時に
「ん……??」
って、何かが引っ掛かりました。
なんか、こころのトリガーがひかれた感じ。
「あ…なんか見つかりそうー」
って思って慌ててバッグの中にノートとペンを探したんだけど、
こんな時に限って入ってないんよね
でも運よくここはスーパーの駐車場
ノートとペンを買いに走りましたわよ
取り扱っててくれるスーパー様大感謝
ほんでコレ
運転席で立膝して、出てくる言葉を走り書き
ただでさえキレイな字ではないのに、もう自分しか読めないレベルのミミズ文字
(でも一応ボカしてみる)
こんなんで7ページ分ほど出てきました
//不安になるという状態は、不安という周波数に自分の周波数を完全に一致させているということであり、
それは恐怖であれ何であれ、どのフィーリングも同じです
フィーリングは周波数でありフィルムです
僕たちは感情というフィーリングをフィルムとして映像化し、
その映像に強くフォーカスすることで、このことによってこんな思いをしていると、
使っているフィーリングをリアルに体験していただけなのです//
*目覚めへのパスポート P116
「不安」があるから不安な現実を創る
フィルターが先 現実が後
(思考(観念)が先 現実が後)
この界隈では超テッパンで有名なコレを、
脳内が勝手に過去の出来事にあてはめ始める
(これさー、
「今から現実創造するぞ! 願いを叶えるぞ!」って時は意識するのに
日常省エネモードで過ごしてる時は結構忘れてる(^^;)
そしたらさ。
「“不安”は思考(意識)の中にあって、現実にはないのに
先に不安になってるから、現実になってる!」ってことが
いろいろあるのに気が付いた!
(思い出した出来事・事象、はしょってマス)
不安になる出来事が先に起こってるわけではないってこと
やばいわー
出来事を見て、不安を感じてると思ってたわー
では、不安とはなんぞやと。
ここを掘り下げると
不安とは、現実に対する信用のなさ
未来はどうなるかわからない、という思い。
(望まない現実になるかもしれない)
だから、そうなってもいいように備えなくては、という緊張感
そんでつまり、現実を創造してるのは自分だから
=自分に対する信用のなさ!
:だと気付いたのです
自分で決めてることは100%現実になってる ってこの前気付いたのに なのにまだ、未来では何か望まないことが起こるのではないかと思ってる 矛盾してる
この信用のなさだよね!
わからないから備えなくては、という思考と
現実は意図できる(自分次第)という 真逆の思考
(望まないことも意図できる)
意図できる、が真実なのに
何故か わからない 方を採用してる不思議さよ…
(つまり、「わからない」を意図してるってこと)
で。
もっともっといくよ。
“感じる”ということは、感じる“フィルター”を持っているということ
フィルターがなければ感じることはできない
だから、“感じた”のは
「フィルターがあるよ~」というただのお知らせなだけで
お知らせを見て、いらないと思ったら
フィルターを外せばいいよね
現実という鏡は、自分の持ってるフィルターを知らせてくれるただの道具
それを採用するかしないかは、自分で決められる
んで、現実にはフィルターを教えてくれるという役目と
更にもひとつ
感じたい感情を ただ感じる という役目もある
不安を感じたい、、、とは
宇宙的には、私たちが感じる感情喜怒哀楽はすべてが喜びで、
すべてが大切な宝物だというのは理解しているけど
できればネガティブな感情は感じたくない
なんでこんなに「不安」という感情だけが強く在るのだろう
不安にフォーカスしてるから拡大してる
外さなきゃいけないフィルター(観念)があるから、
フィルターが存在を主張してる
不安になるのがイヤだから、感じたくないから追っかけて来てる
感じろーーーって……
感じろーーって……
ん… え…
ちょっと…まって……
あっ!
思い出した
不安にフタした最初の記憶
親が離婚して熊本に引っ越しした。
母がいなくなったから、私はお姉ちゃんだから
だから私がお母さんの代わりをしなくちゃいけないと思い込んだ、
4歳の時
お姉ちゃんだからお母さんの代わりをしなくちゃいけないのに
何も上手にできなくて
上手にできたと思ったことでも、褒めてもらえなくて
やらなくちゃいけない(と勝手に思い込んでる)のに
上手くできない罪悪感と、役に立てないという無価値感
(自分でそう設定してるから、まわりからもそう扱われる)
不安を見ないフリして 心のバケツに沈めてフタして
(つまり不安を感じることを禁止して)
お姉ちゃん、お母さん代わり、という「役割」を優先したから
「不安」はずっと取り残されて
でも「在る」からずっと主張し続ける
思えば吃音が始まったのもこのころ…
目を逸らすなーーーー
出せーーーーー
感じろーーーーー
って
手を変え品を変え、
人間関係への不安
お金への不安
健康への不安
食品への不安
環境への不安
未来への不安………
いろんな形に姿を変えて
ずっとずっと主張し続ける
そう、前述した通り
ネガティブな感情「不安」も
宇宙的には「喜び」
大切な財産なのです
そして、肉体を持つ私たちの役割は
感情を感じて、自身の価値を認めること
そんでね
不思議なことに
「あぁ、私は不安を感じることから逃げてただけなんだー
4歳の私、がんばったなぁー」
って、
そこに不安を沈めたこと 感じることから逃げてたことに
気付いて、認めたら
あんなに重くおもーーくあった
みぞおちあたりがグーーーっとなる感じが
スーーーっとなくなったんですよ
多少はあるけど
もう前ほど飲み込まれる感じがない
ナニコレ
驚愕です
見る側に立ったことで、人間意識に同化してた部分が
離れたのかもしれない… よくわからんけど。
「感じたらなくなる」ってよく言うよね
不安を感じるのは怖いよね
4歳の子供ならなおさらやわ
余談ですが
どもっちゃう時
「緊張しなくていいから」ってよく言われてて
「緊張してるわけじゃないんだけどなぁ」って思ってたんだけど
今思えば
「どもらないように話したい」=どもることの禁止と どもる前提がある
禁止されると反作用が働くから、結果的にどもるよね
今はどもってもイイ☆と思ってるから、あんまりどもらない
たまにどもっても、どーでもイイ☆
4歳の私には耐えられなかった(と思い込んでた)
「不安を感じること」に
ようやく私は許可を出せたんだと思います
不安になっても、ええじゃないか
うまくまとめられたかわかんないけど…
私にとっては割とおっきめのパッカン話でした