どれだけハプスブルク家になじんでいたかというと、まず宮廷の厨房にはオリオ・スープの厨房が独立して設けられていたほど。
これは相当なものです

いつごろからハプスブルク家で食されていたのかは正確にはわかっていないようですが、17世紀くらいには宮廷料理人の著書の中に記されているようなので、そのあたりにはすでに食されていたのではないかといわれています。
このような高貴な家に早くから根付いていたこのスープですが、その出所は庶民の料理でした。
それも、もともとはスペインの料理なのです。
スペインでは現在でも普通に食されている、olla podrida(オラ ポドリーダ)という、ごった煮の鍋料理のようなものがありますが、これがオリオ・スープのもともとの姿と言われています。
この料理がまずスペインの宮廷にのぼり、次に他のヨーロッパ宮廷へと広まっていったのです。
例えば、フランス宮廷にもこのスープは伝わったようですが、それは、1615年にスペイン・ハプスブルク家の王女アンナ(アンヌ・ドートリシュ)がルイ13世と、続いて1660年には同家のマリー・テレーズがルイ14世と結婚したことによってフランス宮廷にも定着していった、というような具合。
以前このブログにも書きましたが、王女の興しいれとは、他国の文化の融合が起こることが多々あるのですが、このスープの伝播もそれによるところが大きいようです。
オリオ・スープは最初の頃、もっと材料も調理時間も少ない料理でしたが、16世紀から18世紀の間に各国の宮廷に伝わっていく課程で、その国民の嗜好にあった食材が使われたりして、次第に変化していきました。
そしてオーストリアに来た頃には、とても手のかかる料理へと変化していたようです。
最初の頃はその見た目も大きく違っていました。
もともとはおかゆのようなどろどろしたスープだったのですが、マリア・テレジア時代になると調理法が変わり、前述したような澄んだスープになったようです。
このスープはハプスブルクでは大変な人気で、マリア・テレジアのお父さんのカール6世が大好きで、一説によるとスペインから持ち帰ったのは彼なのだとか、マリア・テレジアがおやつとして一日に7~8回食べていたとか、その後フェルディナント1世の食卓には1日おきにこのスープが出されていたとか、舞踏会ではもっとも疲れるダンスの後で必ず出されていたとか、まあそんな感じで結局、帝国が崩壊するまでずっとその不動の地位を保ち続けたのだといいます。
レシピを見ると、現在ではなかなか手に入らないものもあるので再現は難しそうですが、いつかこのスープ、食べてみたいなあなんて思います。