ウチムラハナエです
前回の
もう少し死について書きたいと思います
私は幼い頃から
死というものに興味がありました
死んだらどうなる?
死とはなんぞや?
という純粋な興味です
祖父が医師だったことも大きいと思います
往診先で看取りなども行っていました
この前会ったときには
ニコニコ話していた患者さんが
明くる日にはもういない
日に日に痩せていくおばあちゃんが
家族とともに徐々に受け入れながら
終わりの日を迎える
死や病気は決して非日常ではなく
身近なものでした
誰も避けられないもの
それが死
ちなみに前回も書いたように
死にたいと思ったことは一度もありません
余談ですが、、、
カウンセラーのくせに
「死にたい」ほどの辛さを分からない
というのは勇気が要りますが、
ホントのことです
消えちゃいたいな〜、
生まれて来なけりゃよかったな〜
と考えたことはありますが、
なぜだか死にたいとは思わないのです
なぜ私は死にたいと思わないのか?
というのも解き明かしたい謎の一つでした
一つには
身内に自死を選ぶ人が複数いた
ということがあると思います
残された家族の衝撃というのは
筆舌に尽くしがたいものがあります
私は子供だったので
事情はよくわかりませんでしたが
あきらかに何か異常なことが起きたのだ
ということだけは分かりました
でも残された者のショックとは無関係に
死はただそこにありました
死そのものには
いいも悪いもありませんでした
究極的には
どんな死に方をしたかさえも
死そのものの前では無意味だと感じました
死は死
良いとか悪いとか
負けだとか
穢れだとか
すべての終わりだとか
死ねばただの物体だとか
私にはどうしても思えなかった
死は生の続きであり
在り方の変容
と、今なら表現できますが
当時の私にはうまく認識できませんでした
ただ死ということについて
考え続けました
そして大学生のとき
犠牲(サクリファイス)
という本に出会いました
なぜか心惹かれて
何度も何度も読み返したのを覚えています
作家である著者が
自殺未遂の結果、脳死になった息子の
最後の日々とその人生を描いたノンフィクション作品
私は、
生きたいと願いながら
不器用にもがき
生を諦めた息子さんに
自分を重ねて合わせるとともに
生を諦めたはずなのに
それでも体は生きようとする
という事実に
そして何より
死を描けば描くほど
その生が鮮明に浮き彫りになることに
驚きを感じていました
死にたいは生きたい
死とは生の終焉ではなく
生の凝縮なのではないだろうか?
死の中にこそ
その人の人生の本質があるのではないか?
とさえ思いました
私の死生観に
大きな影響を与えた一冊だったと思います
わかりそうでわからない
それが死
でも、
やはり大切な人がいなくなることには
とても恐怖を感じていました
私の親代わりだった祖父母は高齢でしたので
(その年にしては健康だったのですが)
もしかして今日死んじゃうんじゃないか?
学校から帰ったら死んでるんじゃないか?
と怖くなって
走って帰っていたのを思い出します
スポーツやテストなど
何か頑張らなければいけないときは
これで良い結果を残せば
おじいちゃん、おばあちゃんの寿命が
伸びるかもしれない
というよくわからない願掛けをして
がんばりました
帰り道
道路の白線の上を
平均台のように慎重に歩きながら
線から落ちずに家まで帰れたら
おじいちゃんおばあちゃんは元気で待ってる
と信じて真剣に歩いたりもしました
死とは
大切な人を奪うもの
そんな認識だったかも知れません
そんな祖父母の最期を
立て続けに看取ったときに
私の死生観はまた少し変化しました

