育ててくれた祖母を
幸せにしたかった
笑顔にしたかった
でもできなかった
私なんている意味がない
そんな幼い自分と
再び対面することになりました。
健気だなぁ、と泣けてくると同時に、
かなり無茶な課題を自分に課していたなぁ
と冷静に振り返れるようになっていました
確かに祖母はいつも辛そうで
不幸そうでしたが
考えてみれば
それも彼女の望み通り
彼女の、不幸に浸る権利を奪ってまで
笑顔にしようとするなんて
無茶だし、無理だし、越権行為でした
祖母はあれで幸せだったんだなー
と今は心底思います
そして私は
無力な、価値のない存在ではなかった
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今読むと、まだなんか気取ってますね 笑
随分と分かった風だし
これが当時の精一杯だから、否定はしてないけど、今振り返るとちょっと物足りない気がする
無理やり自分を納得させてる感じ?
そして、翌日のブログ太陽(これまたはてなブログ)では、「花束を君に」の中の
「世界中の誰よりも、君の笑顔が僕の太陽だったよ」
という歌詞からの連想で、お母さんの存在のすごさを、こんな風に書きました
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母はすごい
太陽
命の源
それだけで、生きていけるもの
太陽がなければ
地球が滅びてしまうように
お母さんの存在のすごさって
確かで、否定のしようのないものなんだと思います
それは、何ができるから、とか
子供に何をしてやったから、とか
そんな小さなことは一切関係なく
ただ存在するだけで
命を与えている
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こちらも、当時の素直な感覚を書いてはいるものの、どうにも不確かで、フワッとした感覚でした。
でも今、やっとこの二つの感覚が繋がった感じがします。
今、私が確かに掴んだ感覚は、
私はおばあちゃんが
大嫌いで大好きだった
おばあちゃんを
幸せにしたいのに、
笑顔にしたいのに、
そうできない自分が大嫌いだった
祖母に憧れて
でも、
こんなに私を苦しめる祖母が許せなくて
絶対あんな風になるもんか!と思いながら
気づけば、祖母の「できそこないコピー」になっていた
私は祖母じゃないのに
で、当然うまくいかず、
そのイライラを息子や夫にぶつけていた
そんな姿が祖母にソックリだった
祖母にソックリな自分を否定しながら
祖母のようにできない自分も否定する
そんなめんどくさい自分を発見したら
ぢんさんの
お母さんみたいになってもいい
お母さんみたいにならなくてもいい
と言う魔法の言葉が
一段深く心に沁みました
それは
母に似ている自分も
母のようになれない自分も
否定しなくていい、ということ
そのままの自分でいていいということ
本来の自分でいる限り
母にソックリであろうが
母のようにできなかろうが
それは問題ではなく
自分は完全に自由で独立した存在だということ
そうやって本来の自分に戻ってくために、様々なトラブルって起こるんだろうな〜なんてことを考えました