「みちびき地蔵」と、わたしたちは「生かされている」という話 | 花緒no心理学ブログ

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ものの見方転換アドバイザー、心理カウンセラー花緒の、昔話分析
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こんにちは!ものの見方転換アドバイザー・花緒です!
今日もご覧くださいまして、ありがとうございます(*^^*)

 

今日は、宮城県気仙沼市に伝わる「みちびき地蔵」のお話をご紹介します。
東日本大震災でこのお話を子供たちに伝えていく大切さが見直された、民話です。

 

 

ざっくりストーリー

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昔、気仙沼の大島に、「みちびき地蔵」と呼ばれるお地蔵様が立っていました。


「みちびき地蔵」には翌日に亡くなる人の霊がお参りに来るという言い伝えがあり、お地蔵さまはその霊たちを天国へ導いてくださるのだそうです。

 

端午の節句を迎えようという前日のこと。

 

大島に住む母子が、隣の村へ田植えの手伝いに行った帰り、地蔵の前の道を通ったので、お参りしていくことにしました。

 

小さな息子とふたりで目をつぶって手を合わせると、なんとなく自分たちのまわりにたくさんの人たちの気配を感じます。そっと目を開けて周りをみると、年よりから若者までたくさんの人たちがまわりにいるのが見えました。中には牛や馬まで混じっています。

 

ああ・・この人たちは明日亡くなるのでお参りにきたのだな、と思った母親でしたが、それにしてもなぜこんなに人数が多いの?

 

なんとなく恐くなった母親は、子どもの手を引いて急いで家に戻りました。

 

翌日、端午の節句の日。


この日は潮がかなり遠くまで引いていたので、村人はみな浜に出て海草などをひろっていました。息子にせがまれて、母もいっしょに浜に海草をたくさん拾いました。

 

しばらくして・・・


誰かが突然叫びました。

「津波じゃ!!逃げろーーーー!!!」

 

村人みんながはっとして海を見ると、沖のずっと遠くが、不気味に盛り上がっています。そしてその波の山は、だんだんと浜のほうに近寄ってきるではないですか!

 

村人たちは叫び声をあげながら、走り出しました。ですが突然のことで、足がすくんで何度も転ぶ者、ただただ海を見つめたまま、身動きできない者もいました。

 

母は息子を背負うと、家の裏の山へ向けて必死で走りました。ふたりはなんとか逃げ切りましたが、村は濁流に飲み込まれてしまったのです。逃げ切れなかったたくさんの村人と牛や馬などの家畜たちが、命を落としました。


それ以来、この「みちびき地蔵」はいっそう村人に大切にされたということです。


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「みちびき地蔵」は、東日本大震災で被災し、いったんは海に流されてしまったものの、お社を再建した際に海に流されたほうのお地蔵様も見つかって、現在は古い像と新しい像がいっしょにならんで祀られているそうです。

 

心理学的に見ると「死」は再生であり、再出発であり、幸運の兆しを意味します。


ただこのお話の場合は、「津波が来る直前には波が異常に引く」という事象を伝えるものですから、海辺に住む者に言い伝えられてきた「災難に合わないための教訓」なのでしょう。


亡くなった人の魂がお地蔵様を頼って集まる、というのはわかりますが、次の日亡くなる人たちの魂が・・・というのは初めてききました。

 

ということは、いつ死ぬか、という運命はあらかじめ決まっていて、前日になると魂は体を離れてしまっているということなのでしょうか?

 


わたしの知り合いで、若いころ地元で有名な霊能力者に未来を見てもらったという人がいました。あなたはしごとではこうだ、ああだと細かく教えてくれたにも関わらず、○歳以降については「見えない」と言われたので、その先は仕事、どうなるのかなあと言っていましたが、その方は言われた年齢ドンピシャで亡くなりました。

 

ということはですよ。

 

人は皆それぞれ、死ぬ時期はさいしょから決まっているということですよね?細かいディテールなどは場合によるとしても、ほぼだいたいは決まっていると。


これ、考え出すと毎回止まらなくなっちゃうんですよね(苦笑) 決して結論なんて出ないとわかっているんですけど。

 


東日本大震災からまださほどたっていない頃、ある人から聞いた体験談が今も忘れられません。

 

その方は男性で、仕事で海の近くにおられました。そこに津波がやってきて、彼は一度波にのまれて沖まで流されたのですが、本当に幸いなことにその後、浜まで波に戻されて、助かったのだそうです。

 

その方はこういっておられました。
「神様がいるかどうかはわからないが、俺たちは生きてるんじゃなくて、生かされているんだ」と。


あの頃、生き残ったわたしたちはみな、そんな不思議な気持ちに包まれていました。

生と死は本当に紙一重です。

「あの世」と「この世」の境界線はとてもあいまいで、あの頃はふたつの世界が混ざり合っているような、そんな感覚でした。

 

生きるってなんだろう?
どんな意味があって、自分は助かったのだろう?

 

そんな答えの出ない疑問を、毎日考えていたんです。

 


もし、寿命があらかじめ決まっているのだとしたら・・・?

 

一度きりの自分の人生、一生懸命、好きなように生きたい。


失敗することもあるかもしれないけれど、それもまた経験になります。

 

やりたいことがあるなら、やろう。
なんでも挑戦しよう。

明日に後回しにしないで(*^^*)

 

それが、わたしたちが生き残った「意味」なのかもしれませんね。

そんなことを思った、昔話でした。