「乞食の手ぬぐい」と、まともな人なんて存在しない問題w | 花緒no心理学ブログ

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ものの見方転換アドバイザー、心理カウンセラー花緒の、昔話分析
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こんにちは!ものの見方転換アドバイザー・花緒です!
今日もご覧くださいまして、ありがとうございます(*^^*)
 
昔話を心理学的に読み解くこのシリーズ、思ったより続いておりますwww
きっと自分で飽きちゃうと思ってたんですが(苦笑)

人様に読んでいただけているというのって、うれしいもんですね(*^^*)
本当にありがとうございます。
 
 
さて、今回は「乞食の手ぬぐい」という昔話をご紹介します。

小さいころとても好きなお話でした。これもいろんなバージョンがあるのかもしれませんが、ここではわたしの記憶の中にあるストーリーをご紹介します。
 

ざっくりストーリー
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昔、あるお屋敷で年頃の女中が働いていました。女中はとても気さくで優しい、細やかに働く女性でしたが、容姿だけは残念でした。
 
屋敷の女主人も、「まったくおまえは器量が悪いねえ」と顔を見るたびに言い、村に住む若者たちも垣根の外から覗き込んでは、女中の容姿をからかいました。

ある日、ひとりの男がお屋敷の門を叩き、どうか食べ物を恵んでくださいと頭を下げました。身なりはボロボロで汚らしく、垢で全身が汚れた乞食でした。
 
屋敷の女主人は、女中に、乞食を外へ追い出すよう命じました。

ですが女中は乞食を気の毒に思って、自分の昼ご飯の握り飯を、乞食にあげました。乞食はいたく感謝して、お礼にと懐からこれまた汚く汚れた手ぬぐいを一本、女中に渡すと、何度も何度も女中に頭を下げながら去っていきました。
 
女中は乞食が喜んでくれたことをうれしく思い、もらった手ぬぐいは洗って、懐にいれました。
 
翌日、また近くを通った村の若者たちが、働く女中を指さしてその用紙をからかいました。「みろよ、あの顔!いつみてもみっともねぇ顔だなあ!!わははは!」
 
女中はいつも無視するようにしていましたが、自分の器量の悪さは自分が一番よく知っています。その場にいたたまれず、小走りでその場を離れると、だれもいない木陰で泣きました。そして、涙で濡れた顔をあの乞食がくれたてぬぐいでぬぐいました。
 
なんとか気を取り直して仕事に戻ると、まわりの女中仲間や使用人たちがびっくりして「あんた、その顔どうしたの!?!」と驚きます。女中は顔に何かついているのかと思い、水がめの水に顔を映してみると・・・
 
そこには、とてもとても美しい顔になった自分が写っていました。
 
不思議に思って再度手ぬぐいで顔を拭いてみると、女中の顔はそのたびに美しくなっていきました。
 
女主人もびっくり!!女中からその乞食のくれた手ぬぐいをひったくると、ごしごしと自分の顔を拭いてみました。すると、なんと、拭くたびに女主人は醜くなっていくではありませんか!そしてしまいには、馬の顔になってしまったということです。
 
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小さいころ、この話をわたしは大好きでした。決して美人ではない自分にとって、これほど希望にあふれる話があったでしょうか?いや、ない(キッパリ)
 
この手ぬぐい、欲しかったっけなあwww しばらくの間、乞食が近くにいないかとあちこち探してまわった記憶がありますw 残念ながら乞食というものには一度も出会ったことはありませんでした。(←お金を求める浮浪者は、食べ物を乞うてはいないので自分の中では乞食ではない)
 
 
まあ、大人になってからは、「お化粧」という科学的かつ現実的な「手ぬぐい」を見つけたんですけどねwww
 

心理学的にみると、
 
「顔」というのは、容姿を含めて他人からどう思われているかや、自分の本当の気持ちなどを暗示します。
 
また、「食べ物」というのは人が生きていくために必須なものであることから、愛情だったり快楽だったり、人として喜びを感じるものを指します。
 
興味深いのは「手ぬぐい」です。現代でいう「タオル」ですね。これで顔を拭くという行為は、新しい恋の始まりを暗示するんです。
 
つまり・・・
 

このお話の裏読みをするなら、こんな感じです。
 

女中は小さいころからお屋敷で奉公していましたので、朝早くから夜遅くまで、一生懸命働く毎日を過ごしていました。
 
年頃になっても汗とほこりにまみれて働いていたので、肌にニキビがたくさんでき、あちこち赤くなって、みっともない。自分でも気にしていました。
 
村の若者たちが、時たま屋敷の前の道を通ります。若者たちはわざわざ垣根に上って、女中の顔をからかいました。

その若者たちは女中が小さいころ、よく遊んだ、幼馴染たち。実は女中は、その中の一人の若者に恋をしていました。
 
なのでその若者がほかの男たちといっしょになって、自分をからかうのがたまらなく悲しくつらかったのです。
 
そんなころ、乞食から手ぬぐいをもらいます。
 
若者たちがしょっちゅう来てからかうたびに、年頃の女中は悲しくて涙が出るので、そのたびに水がめで涙を洗い流し、手ぬぐいで顔を拭きました。
 
 
もうわかりましたね?w

それまで汗や汚れが原因で吹き出物がたくさん出ていた肌は、こまめに水で洗い流されることで、吹き出物がなくなっていったのです。
 
ぶつぶつと、炎症で赤く斑点ができていた顔は、炎症が消えて綺麗になりました。
 

若者の中の一人も、実は彼女のことが好きでした。だから彼女の気を引きたくて、わざわざしょっちゅう屋敷に行き、垣根に上って、声をかけていたのです。
 

なんてほほえましい(笑)
 
このふたりがこのあと、お互い素直になっておつきあいできたならいいな(*^^*)
 
 
人は、みんな違う。それは、顔であれ性格であれ「個性」。

小さいころ、古き良き昭和の時代、わたしの学校には「特別学級」というのはありませんでした。発達障害の人たちも、全員同じ教室でいっしょに授業をうけていました。
 
ですのでそういった子のひとりが、授業中に突然奇声を上げるなんてことも日常茶飯事でしたが、だれ一人、彼らをいじめる子はいませんでした。
 
当時の担任の先生に、「人はみんな違う。それは個性なんだよ」と教わったからでした。
 
その後、ある事件のニュースを見ました。人を殺した犯人に対して、ワイドショーのインタビューに答えた近所の人(?)は「全然気づきませんでした。普通に挨拶する人でした」というようなことを答えていたのですが、わたしはこのとき、思ったんです。
 
人は、まともに見えてもまともでない人もいる。

その人がどんな人なのかなんて、「まとも」なのかそうでないのかなんて、だれにもわからない。
 
もしかすると、

「まとも」な人なんて、

この世には存在しないのではなかろうか?
 
 
もちろん自分も含めて。
 
だってわたしなんて、石油ストーブつけたばっかりの不完全燃焼のニオイがたまらなく好きだし、車に乗ったら歌わずにはいられないし(←警察に止められたことがある)www

もっといろいろありますけど、これってほかの人から見たら、変態の域なのかもしれないでしょ?(苦笑)
 
「まとも」の定義なんて、人それぞれなんです。

それをその人がどうとらえるかの違い。
 
人は、みんな、ありのままでしかいられないんですよね。無理して他人を装う必要はないんです。相手を見るとき、自分の価値観を押し付けるから、勝手にがっかりしたり裏切られた!とか思ってしまう。相手はなにも悪くないのに。
 
世の中を生きていくには、そんな甘々なことばかり言ってはいられないこともありますが、この思いは忘れないようにと、いつも心がけています。
 
相手も、自分も、みんなありのままでオッケー!!(*^^*)