天道蟲の星七つ | 花やっこ

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 掌に這はせ天道蟲の星七つ


 「きけわだつみの声」 から
戦没学徒・菊山裕生

出征の日、 父九園は
 吾(わ)も唄う征く吾(あ)子送る冬の唄
と詠み、 また母享女も
 今日よりは枯野千里を汝なれとゆく
と詠んでいます。
 昭和19年10月、 比島より裕生からの第一信が届きました。 そこには
 ふるさとの祭や父母はいかにますか
の句が添えられていました。
これを読んだ享女は、 すかさず、
 この月に祈れる母はわれのみか
と詠みましたが、 この母の思いを裕生に届けるすべなどあろう筈がありませんでした。
 裕生からの第二信は20年2月、 同じく比島より発信され、
 如月の北斗光れり祈るなり
の句が添えられていましたが、 このハガキが戦地からの最後の便りとなりました。
20年4月29日、 ルソン島エチアゲ飛行場で戦死
悲報が伝えられた日、 父九園は
 汗の手に戦死の報を受けとりぬ
 秋風や千里帰りし遺骨抱く
と詠んで、 23歳の若さで親より先に逝ったわが子を悼みました。


 裕生の遺した文章です。
 
「一体私は陛下の為に銃をとるのであろうか。 或は祖国の為に (観念上の) 又或は私にとって疑いきれぬ肉親の愛のために、 更に常に私の故郷であった日本の自然の為に、 或はこれ等全部又は一部の為にであろうか。 然し今の私にはこれ等の為に自己の死を賭すると言うことが解決されないでいるのである。 自分のようなものでも、 どうかして生きたいと言う感じを持っている現在の私にどうして銃を持って戦線に赴く事が出来るのだろうか。」 (『きけわだつみのこえ』 に収載)

 菊山裕生は、 おしどり俳人として知られた菊山九園・享女の三男として、 大正10年9月6日に生れました。 三重県立上野中学、 第三高校を経て、 昭和17年10月に東京帝国大学法学部に入学、 いわゆるエリートコースを歩んだ俊才でした。
 早くから両親の影響を受け俳句に親しみ、 「有星」 の俳号で京大三高ホトトギス会に所属しました。



 

※ 画像は世田谷蘆花公園にて