虹の約束♪ -30ページ目

虹の約束♪

「いつも喜んでいなさい・・・」

自分を証言する意識・・・「心の声」 ⑤(前掲)

 

 

・・・

 

そして肝心なのはその良心という意識は、

物事を深く考えず心が死んでしまえば全く働かない。

 

心と同様麻痺してどんどん鈍くなってしまうからだ。

良心の声は人間たる存在であり続けるための最終ラインだ。

 

 

 

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最近ネットで配信される

わけのわからない悪意の映像や中傷は、

法律では裁けないし、模倣犯が後を絶たない。

 

それこそが人の良心の問題だからだ。

 

ある一線を越えてしまえば、

人間は簡単に獣になり人を殺したり、傷つけたり、

全くの無関心になるのに躊躇がなくなる。

 

そればかりか

人間の間のコミュニケーションも絶ってしまい、

社会や人間にも興味を失くし、

生きるための最低のルールを守らなくても、

それへの罪悪感が持てなくなる。

 

 

 

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忙しいとは文字の如く、

心を亡くすという意味で、

心も良心も殺してしまうということだ。

 

 

考えるにはきっかけがいるー「心の声」 より

 

 

 

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God Bless You ❣️

 

 

 

 

 

 

人に勧められ誘われて持てるというものではない・・・④ (前掲)

 

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神学者カルバンは人間の「良心」の定義をこのように説明する。

 

 

 

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自分の中で、自分を証言するという意識。

 

つまり私の心を自分で観察し洞察し見張り、

自分の心の中で自問自答するという意識のことだ。

 

それは自分の中に存在する自分の罪を認識し自覚する意識で、

その意識は自分の中で秘められ、隠れていた罪を、自分自身で暴き出し、

内側で罪が隠れたままでいることを許さず、

自分の罪を憎むという意識が、「良心」だ。

 

「良心は一千人の証人」という古いことわざがる。

 

 

 

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この説明で分かるように、人の良心、

自分の中に罪意識とは、統一化することは不可能で、

各々程度も重さも深さも自覚も大きく違いがあり、

自分で認識できているかさえ曖昧だ。

 

あまりにも頼りない不確定なものではあるが、

それでも私達は自分の良心の声を聞かなくてはならない。

 

それが自分の心と向き合うということだからだ。

 

 

 

 

考えるにはきっかけがいるー「心の声」 より

 

 

 

 

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God Bless You ❣️

 

 

 

 

 

自分の思い通りにならない神などいらない・・・

 

・・・

 

そしてその一年後、生まれて初めて心の声を聞き、

神の存在を信じることで、姉の死も受け入れられた。

 

すべてのことは意味があるのだと理解できたからだ。

 

それは悲しみからの完全な解放ではなかったが、

納得し前へ進もうとする力ではあった。

 

 

 

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だから私は心で神を信じることと、宗教活動とは別の次元と考える。

その二つは区別するべきなのだ。

 

たとえ宗教団体に属さなくても、信仰とは心で実感するもので、

人に勧められ誘われて持てるというものではない。

 

コミュニティーが欲しくて属するとか、人間的な慰めや道場とか、

ボランティア活動的博愛主義ではない。

 

「人間愛」をうたい文句にするなら、宗教である必要はないはずだ。

 

他人を助ける活動が必要ないとは言わないが、

信じるという定義は形や行いではなく、まずは心の問題だ。

 

「心の声」は神を信じない者にもある。

それは信仰ではないが、自分の心の裡の「良心の声」だ。

 

・・・

 

考えるにはきっかけがいるー「心の声」 より

 

 

 

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God Bless You ❣️

 

 

 

 

 

 

一つの条件を出して決めたことだった

 

姉は独りで宗教に関わることを怖れたのだ。

それは当然だった。

 

・・・

 

しかし当初私は病気で苦しむ姉が

少しでも心が和らぐようにと考えていただけで、

自分がなるとは想定さえしていなかった。

 

姉の気持ちを汲んで二人で入信した。

 

 

 

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それは口約束だけのもので、

教会の伝道者の前で祈りと告白をしただけで、

正直何の実感も湧かず深い考えもなかった。

 

私の願いはただ一つ姉が少しでも楽になることだけで、

心で神を信じたわけではない。

 

 

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その後姉が亡くなるとすぐにクリスチャンをやめることを決め、

祈ってくれた伝道者に電話してその旨を伝えた。

 

そもそも信仰とは、なるとかならないとかの問題なのか、

それさえ検討の余地なく、ただ感情的なものだけで、

自分の思い通りにならない神などいらない

という気分だけの決断だった。

 

そして一年後・・・

 

 

考えるにはきっかけがいるー「心の声」 より

 

 

 

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God Bless You ❣️

 

 

 

 

 

 

 

何より面倒くさかった

 

「私はここにいる」

 

・・・

私はすぐにこの声は神の声だと直感した。

 

しかしその時の神という概念は、

姿かたちのあるものでもないし、

聴覚による幻聴のようなものではない。

 

音ではなく、心の深淵から気付かされる摂理とか、

意味とか、真理みたいな思念で働く存在のことだ。

 

 

 

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そして直感は確信に変わる。

 

姉の死の意味や、背景や、一連に流れるストーリーや、

そこから得た全ての命の連鎖を思わせる、

人間には計り知れない大いなる意志があるのを

教えられた気がした。

 

姉が亡くなる少し前、私と姉は家族のみんなには秘密にして

クリスチャンになろうと話し合った。

 

それは神を信じたからではなく、

わらをもすがりたいという気持ちからだった。

 

 

 

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それは私が提案し、姉が一つの条件を出して決めたことだった。

 

そしてその条件とは妹である私も一緒に

クリスチャンになるということだった。

 

姉は独りで宗教に関わることを怖れたのだ。

それは当然だった。

 

 

 

考えるにはきっかけがいるー「心の声」 より

 

 

 

 

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God Bless You ❣️