本日、移転中のハウスが完成しました。
鉄骨の骨はそのまま使用でしたが屋根の部分の等のユーピロンを全部張り替えたので日数がかかりました。
↑の木材は骨組みで鉄骨でなくタル木を使用していた部分の残骸です。 すべてを鉄骨でハウスを作ると
コストが高くなるので、当初(約30年前?)のタル木も取り替えました。
タル木の劣化の原因はハウス内のの湿度で腐るのもあり、直射日光で焼けるのだそうです。
このハウスの道路を挟んだおむかえさんの畑では山ワサビの収穫をしていました。
網走に金印の練りワサビ工場があるので、契約栽培をしている農家の方が多いです。
うちも、畑作をしていた13年前まではこの山ワサビを栽培していました。
当店の歴史をひも解くと、(大した歴史はありませんが) 当店は、元々畑作農家でした。
斜里町の典型的な農家で、澱粉用のジャガイモ、砂糖の原料のビート大根、麦、の3品目を輪作していました。
ちょうど私が、高校を卒業して(昭和63年)アメリカの西海岸のサリナス(サンフランシスコから2時間程南下したところ)の花屋さんに研修生として渡米した頃に、今話題の農産物の輸入自由化が始まるので第四の作物を作ろうという事で、斜里町内でも数件の農家が切り花栽培に取りかかりました。
しかし、機会化ががかなり進んでいた斜里の農家の人たちにとって、手間がものすごくかかる切り花の栽培は敬遠され、数年後にはわずかうちだけが続けていました。(聞いた話です)
2年後私は帰国しましたが、縁があり、岩見沢の食品商社(小企業でしたが、優秀な会社でした)に就職しましたが2年で、事務仕事に向いていないとわかり、札幌へ出て花屋さんで働きました。
そこで少々経験を積ませていただいて、今の主人と出会い、一緒に斜里に帰ってきて、主人は私の実家の農業をやってもらいました。
畑作と、切りバラの生産をやりながら、当時はカーネーション、スターチス、かすみ草、HBチース、グロボーサ、
など色々作っていました。
私が帰ってくる以前から母が自分で栽培した花をあちこち売っていて、私が帰ってきて、栽培を手伝う傍ら私もその花を売り歩きました。
これが始まりです。
車に花を積んで知床のホテルにアポなしで、フロントに行き花を買って下さいと、
夜には斜里のスナック街に一軒一軒うちで栽培したバラを持ち、いけ込みさせてもらいました。
断られる事が多かったのですが、中には花が好きなママがいて、買って下さいました。 感謝です。
正直なところ、売り歩くのは恥ずかしかったです。 いらないと言われるともっと恥ずかしかった。(若かった)
スナックに来ていた男性客の視線も、何だ物売りか・・ という視線に感じられて・・・
何の後ろ盾もなかったし、知名度はゼロに近いし、自分の身元は峰浜でバラを作っている坂井さんの娘、しかなかった。
でも、母があちこちに売り歩いてくれたので、私が売り歩いても『ああ、あそこの・・・』で怪しまれずに売れました。
両親と田舎の狭さに感謝です。
そして、人のつてで札幌から花を仕入れるようになり、移動販売を定期的に始めました。
農家なので、作業場は昔の畜舎を少し間借りして水揚げをしてパックフラワーにしてあちこちに
車で歩きました。
時には網走(斜里から50㌔程)の喫茶店、一般の家など訪問販売もしました。
網走の反応は冷たかったです・・・・ 2回ほど行きましたが止めました。
中標津へも親戚の職場の長崎屋の従業員食堂で、頼んで花を従業員さん向けに数か月に一度のペースで何年か売らせてもらいました。
なんかハウスから話がかなり脱線したような・・・
この話の続きは
そのうちまた
kay