ラインスタンプ
LINEスタンプを描き始めて4本目が認証されました。
昨年から試行錯誤を繰り返し
何とか4本認証していただきました。
何をどうやっていいのかもわからない作業の中での試行錯誤。
ようやくデーターをラインに上げても
リジェクト(認証されない)されてやり直し・・・
などと言う事もありましたので、
制作から、半年近くかかった事になります。
しかも
販売認証していただき、スタンプがネットに上がっても
自分で宣伝しなければ、ただただ宙に浮いているだけ。
一番苦手な作業です。
でも頑張りますので、応援よろしくお願い致します
こちらはライン生まれの猫です。
名前はまだありません。
4月の26日
ラインにアップしていただきましたが、
宣伝もアメプロだけ、プログもサボってましたので
まだ宙に浮いてるだけの状態です。
どうぞごひいきにお願い致します。
https://store.line.me/stickershop/product/1102048/ja
2本目・桃色ハート
おみくじ
今年は行った事のない所へ行ってみよう!
水道橋の駅から、5分。
神田明神 に行きました。
![汗2](https://emoji.ameba.jp/img/user/s0/s0111012/2539.gif)
今年一番の仕事
あけましておめでとうございます。
2013年今年もよろしく御願い致します。
皆様は初詣には行かれましたか?
私は近所の天神様にお参りました。
おみくじを引きました。
良いおみくじではなかったので、
木の枝に結び開運のお願いをしました。
小吉で
運勢が向いていないので、今は行動しないで
時を待つと運が向いてくる。と言うおみくじでした。
今年は年明け早々から、行動しようと思っていたので
このおみくじは、私の意に沿わないと思いました。
なので・・・・
明日から開運おみくじが出るまで、初詣をしょうと思います。
おみくじなんて気にしてても始まらないのですが
なんだか出足を削がれたようで気に入らない・・・・。
家の子
その方にお年をうかがうと、戦時中に生まれています。
80歳が見えてきましたとおっしゃいます。
お生まれになったのは、多分昭和10年から20年位の間だと思います。
大きな糸問屋?か織物問屋のお嬢さんだったそうです。
(お話に聞きほれて、詳しい事を伺うのも忘れていました。)
広いお屋敷に、小さな川のある野原。
毎日仕入れに訪れる商人の方に囲まれて育ったそうです。
何時も訪れる商人の方は、野原を眺めながら
長火鉢にあたり、お茶を飲み煙管の火をポンポン長火鉢の中へ叩き落す。そんな光景が今でも懐かしい思い出だそうです。
商売でありながら、ゆったりした時間が流れていたのですね。
私の生家も商家でした。
街中にありましたので、小川や野原は無かったのですが
長火鉢の傍で、お茶を飲み、キセルで煙草をくゆらすお年寄り方が何人もいらっしゃった事を覚えています。
戦後間もない頃。
敗戦から立ち上がろうとしていた日本がありました。
敗戦の中で日本を立て直して行った人々の中には
戦争で夫を失い、子供を失い、職業婦人となり家庭を支えてきた
婦人も多かったのではないでしょうか?
私の家には、仕入れた反物を背中にしょって、商売をしていらしたご婦人も大勢いたように思います。
何時頃までそんな時代が続いたのか、記憶は乏しいのですが、
車もほとんど無い時代、重い荷物を背負い遠くまで商売に出かける。
そんな人たちが戦後の復興を担って来た様に思います。
話を元に戻します。
その方の家の広い座敷には、ニシキヘビが住んでいたそうです。
直径20センチもあるような大きなニシキヘビだったそうです。
床の間を住処として、とぐろを巻いていたそうです。
彼女のおばあさまはそのニシキヘビは、我が家の守り神と言って
とても大切にしていたそうです。
そしてその子を家の子と呼んでいらしたそうです。
職業柄、糊などを大量に使うので、ネズミなどを食べてくれるからだったんじゃないかと思うんだけど・・・と彼女は言っていました。
時には天井の梁(はり)などに絡み付いて、そのニシキヘビは
彼女の生家に住み着いていたそうですが、
足を持たない長い体や毒をもつこと、[[脱皮]]をすることから「死と再生」を連想させること、長い間餌を食べなくても生きている生命力などにより、古来より「神の使い」などとして各地でヘビを崇める風習が発生した。最近でもヘビの抜け殻(脱皮したあとの殻)が「お金が貯まる」として財布に入れるなどの風習がある。また、[[漢方医学]]や[[民間療法]]の薬としてもよく使われる。日本でも白ヘビは幸運の象徴とされ特に[[岩国のシロヘビ]]は有名である。
また、赤城山の赤城大明神も大蛇神であり有名であるといえる。
ウィキペディアフリー百科事典
確かに古来より蛇は神とあがめられ、守り神とされてきたようです。
蛇と共存して行く社会が何とも珍しく、その時代背景は厳しい時代ではありましたが人々の心はとても優しく、神秘に満ちてとても優雅に思えるのでした。
しばらくして彼女の家を建て替えた時、家の子はどうなってしまったかと云うと
ちゃんと物置の中に居たそうです。
その後その蛇はどうなったのか・・・?
今度お会いしたら続きをうかがいたいと思っています。
放射能さえ無かったら・・・・
福島県へ行ってまいりました。
福島駅に立つと、何事もなかったようなどこの都市とも変わらない
日常生活がありました。
駅ビルの商店街も平日のお昼なのでそこそこの人出。
道路には車も行きかい、よく見る都市の風景です。
福島駅からバスに乗り、2時間余り・・・南相馬の海沿いの町へ。
津波の被害の大きかったところです。
原の町駅に着くと、そこからは交通手段がありませんので
タクシーに乗りました。
東北電力は28日、東日本大震災で甚大な被害を受け、現在復旧中の原町火力発電所(南相馬市、定格出力1・2号機、計200万キロワット)の試運転を年内に始め、来年3月末から営業運転を再開すると発表した。同日、仙台市で開かれた記者会見で海輪誠社長が明らかにした。同社は当初、13年夏前までの営業運転再開を予定していたが、作業員の増員などで復旧を急ぎ、工程を前倒しした。
主力火力発電所の運転再開により、本県を含む同社管内の電力安定供給がより進むことになる。
同社によると、2号機は11月下旬、1号機は12月下旬に試運転による発電を再開する。営業運転の再開は、2号機が来年3月末、1号機が同4月末を予定。
(2012年9月29日 福島民友ニュース)
倒壊した家屋もありますが、壊れていない建物も多く見られました。
今回の見直しについては、住民の安全・安心の確保を最優先にした年間積算線量の区分に応じて、年間20ミリシーベルト以下の「避難指示解除準備区域」、年間20ミリシ-ベルト超50ミリシーベルト以下の「居住制限区域」、年間50ミリシーベルト超の「帰還困難区域」の3つの区域に再編されるものです。
なお、今回の見直しに伴い、4月16日(月)から区域への出入り等が一部緩和されるようになりますが、引き続き避難指示が継続されることになります。
(南相馬市のホームページより)
午時花
命と向き合う事
その子はもう三十歳を超えているかも知れないと
しばらく連絡を取っていない友達のお子さんの事を思いました。
「二番目の子が生まれたんだけどね、ダウン症なの。」
電話があり、彼女の家に出かけました。
「ダウン症の子はね、心臓が弱いとか腸が短いとかいろんな欠陥を持って生まれてくるけど、この子は腸が短くて今は人口肛門にする手術をしたの。見る?」
記憶が確かではありませんが、多分生まれて数ヶ月・・・・
幼い赤子のお腹に巻かれた包帯の下に痛々しい穴が開けられておりました。しばらくしたら肛門に繋げる手術をするんだと、その様にいっていた記憶があります。
それから何年かして電話をかけると、その子は元気に育って
とても音楽が好きだとかで、
「私が音楽や絵を描くことを学んできたのは、この子の為だったのだと実感してる。三人の子供の中で、この子が一番素直でやさしいの」
二人目の子が障害を持って生まれ、三人目の子を生むと聞いたとき、彼女の偉さを思いました。
その障害を何事もなく、とても自然に受け入れておりました。
人が誕生する時、ダウン症は何パーセントかの確立で必ず発生する。その子供達はその確立を引き受けてくれたのだと、もう何十年も前ラジオで園綾子さんが話していた事が記憶に蘇ります。
障害の確立を引き受けてくれた子供たち。
もしその子供を自分が授かった時。
彼女の様に自然に屈託がなく受け入れる事が出来ただろうか?
悩んで、悩んでくたびれるかも知れない。
昨日、ある方の記事を読ませていただき
なんとなく何十年も年賀状だけの交流になっていた彼女の事を思い出し、
今日は電話をしてみたいと思っています。
命の尊さとは別に
障害を持って生まれた子を育てるのは大変な事でもあります。
五人の子供の末の子がダウン症だった義父は、数学者で思い切り学者タイプの人でしたが、
「僕がねなかなか死なないのは、ふくちゃん(そのこをそう呼んでいました)がいるからですよ」
数学の事以外は何も頭に入らないそんな義父でしたが、
いつもその様に言っていました。
戦後間もない頃、障害者の施設も何もなかった頃、当時山だった場所を開拓し、校外に父兄の力で施設を建設しました。
そして
大学のある都心の家と、施設の傍の家を一ヶ月半分ずつ過ごすのでした。
(私たちはその送り迎えで、大変だったんですけどね・・・・)
計り知れない苦悩と、労力を掛け子供の障害と向き合った事は
学問だけに生涯をかけたった義父の、計らずして成しえた偉業だったとも言えます。
予期せぬ出来事と否応なく向き会わざるを得ない時、
人間はすごい力を出します。
お仕事で出会った方です。
当時保育園に入ってたはるちゃんのお父様がそうでした。
奥様を癌で亡くし、小児麻痺で体に障害を持ったはるちゃんの為に
お仕事を辞め、子育てに従事しておりました。
でも彼の悩みは
お母様方はさらっと子育てをしてる。
それがうらやましいと言われていました。
にわか子育てのそれも男性の身、それまでは仕事いちずに来たそうですので
戸惑いは大きかったかも知れません。
普通の状態のお子さんでも、育児には神経を注ぎます。
はるちゃんは、家の中でもハイハイをしなければならないほどで
トイレも手助けが要るほど体に障害が残っていました。
そんな状態のはるちゃんを、普通の児童と一緒に教育を受けさせたいと
彼は奔走し、その権利を勝ち取りました。
人は通常から事なると、より多くの物事を考えます。
何もなく平穏に暮らした人より、
広い範囲の試行をめぐらし、思慮深くなると思います。
そして
何事にも負けない強さを持つのだと
はるちゃんのお父様を見ていて感じました。
あれから10数年。
はるちゃんはもう高校生くらいになっているかも知れません。
一度お伺いしたいと思っているのですが、まだ当時の処にお住まいかしら?
10円
連日猛暑が続きます。
何が何でも暑い・・・・
一日でもっとも気温の上がるお昼頃の事でした。
多摩センターの駅の道路の端っこに、
ホームレス?の人が座っていました。
「生活費10円めぐんでください」
その前のコンクリートに、封筒位の紙に書いたものが貼り付けられていました。
10円かぁ・・・・・
お財布を見ると50円玉が入っています。
彼の望みより若干多い・・・・
という事で50円を置いてきました。
夕方
家に帰り思いました。
今時50円で、パンの一個も、おにぎりの一個も買えやしない・・・・。
ならばせめても100円を置いてくるべきだった。
と連れ合いに言いますと、それなら105円だよと言われました。
10円と表示されると50円でも多いように感じる。
100円と表示されると多いと感じるのは500円になるのかな?
ならば彼はアピールの方法でずいぶん損をしてるな・・・・。
今度出会った時には、105円か?500円か?
3週間ほど経過して、もう一度彼を見ました。
この前と同じように、猛暑日でした。
ほんの少しの日陰の中に
「生活費10円めぐんでください」その紙の前に座っていました。
ボロボロの大きなバック。
疲れ果てた表情が目に付きました。
私は
105円置いてきたと思いますか?
500円置いてきたと思いますか?
いいえ
1円も置いてくる気にはなれませんでした。
なぜならその時彼はタバコを吸っていたからです。
めぐんでください
そう書きながら、タバコをたしなむ余裕がある。
そう思うと、
何日か50円しか置いてこなかった
自分を攻めていたのが
急に馬鹿馬鹿しくなったのです。
やっぱり彼は
とてもアピールが下手な人なんでしょうね。
さようなら原発10万人集会
「さようなら原発10万人集会」
主催者発表で17万人とか~!
炎天下代々木公園には、気温に負けず、脱原発の熱い思いがありました。
福島を繰り返してはいけない。
皆の想いが流れます。
よくまとめてて書いてくださいました。
報道も少しずつ変化してきたように思います。
皆様お疲れ様でした。
主催者のの皆様ありがとうございました。
ゆっくりお疲れを取ってくださいね。
皆の想いがかないますように~!