命と向き合う事 | 花だより

命と向き合う事

その子はもう三十歳を超えているかも知れないと

しばらく連絡を取っていない友達のお子さんの事を思いました。


「二番目の子が生まれたんだけどね、ダウン症なの。」

電話があり、彼女の家に出かけました。

「ダウン症の子はね、心臓が弱いとか腸が短いとかいろんな欠陥を持って生まれてくるけど、この子は腸が短くて今は人口肛門にする手術をしたの。見る?」


記憶が確かではありませんが、多分生まれて数ヶ月・・・・

幼い赤子のお腹に巻かれた包帯の下に痛々しい穴が開けられておりました。しばらくしたら肛門に繋げる手術をするんだと、その様にいっていた記憶があります。


それから何年かして電話をかけると、その子は元気に育って

とても音楽が好きだとかで、

「私が音楽や絵を描くことを学んできたのは、この子の為だったのだと実感してる。三人の子供の中で、この子が一番素直でやさしいの」


二人目の子が障害を持って生まれ、三人目の子を生むと聞いたとき、彼女の偉さを思いました。

その障害を何事もなく、とても自然に受け入れておりました。


人が誕生する時、ダウン症は何パーセントかの確立で必ず発生する。その子供達はその確立を引き受けてくれたのだと、もう何十年も前ラジオで園綾子さんが話していた事が記憶に蘇ります。


障害の確立を引き受けてくれた子供たち。

もしその子供を自分が授かった時。

彼女の様に自然に屈託がなく受け入れる事が出来ただろうか?

悩んで、悩んでくたびれるかも知れない。


昨日、ある方の記事を読ませていただき

なんとなく何十年も年賀状だけの交流になっていた彼女の事を思い出し、

今日は電話をしてみたいと思っています。


命の尊さとは別に

障害を持って生まれた子を育てるのは大変な事でもあります。


五人の子供の末の子がダウン症だった義父は、数学者で思い切り学者タイプの人でしたが、

「僕がねなかなか死なないのは、ふくちゃん(そのこをそう呼んでいました)がいるからですよ」

数学の事以外は何も頭に入らないそんな義父でしたが、

いつもその様に言っていました。

戦後間もない頃、障害者の施設も何もなかった頃、当時山だった場所を開拓し、校外に父兄の力で施設を建設しました。

そして

大学のある都心の家と、施設の傍の家を一ヶ月半分ずつ過ごすのでした。

(私たちはその送り迎えで、大変だったんですけどね・・・・)


計り知れない苦悩と、労力を掛け子供の障害と向き合った事は

学問だけに生涯をかけたった義父の、計らずして成しえた偉業だったとも言えます。


予期せぬ出来事と否応なく向き会わざるを得ない時、

人間はすごい力を出します。


お仕事で出会った方です。

当時保育園に入ってたはるちゃんのお父様がそうでした。

奥様を癌で亡くし、小児麻痺で体に障害を持ったはるちゃんの為に

お仕事を辞め、子育てに従事しておりました。

でも彼の悩みは

お母様方はさらっと子育てをしてる。

それがうらやましいと言われていました。

にわか子育てのそれも男性の身、それまでは仕事いちずに来たそうですので

戸惑いは大きかったかも知れません。


普通の状態のお子さんでも、育児には神経を注ぎます。

はるちゃんは、家の中でもハイハイをしなければならないほどで

トイレも手助けが要るほど体に障害が残っていました。

そんな状態のはるちゃんを、普通の児童と一緒に教育を受けさせたいと

彼は奔走し、その権利を勝ち取りました。


人は通常から事なると、より多くの物事を考えます。

何もなく平穏に暮らした人より、

広い範囲の試行をめぐらし、思慮深くなると思います。

そして

何事にも負けない強さを持つのだと

はるちゃんのお父様を見ていて感じました。


あれから10数年。

はるちゃんはもう高校生くらいになっているかも知れません。

一度お伺いしたいと思っているのですが、まだ当時の処にお住まいかしら?