風船とガチョウ
好きな子のことを、なんて呼ぼうか、考えたことがある
下の名前だったり、勝手に変な名前つけたり
とにかく色々なことを考えた
でも、それが実現することはなく、いつまでたってもやってこなかった。
代わりに、他の女の子と一緒にいる時に、なんとなく、その子のことを、あの夏の夜、考えた名前で呼びたくなる時がある。それは、突然やってきて、僕にいろんなことをささやくのだ。もちろん、何もいわない。ただ、僕は、彼女の話をきいたふりをして笑ってる。ただ、それだけなのだ。
そんな風に過ごしていると、そのうち、「あの名前」が、一体誰のものだったのかさえ、わからなくなる時がある。
「なぁに、その名前?」と女の子がいう。
僕は、しらない、という。
それで、女の子は笑って、僕は、あきらめる。
「やめてよ」
そんなこといったのは、その子がはじめてだった。
だから、僕は無理やりにでも、その子に、あの名前をつける必要があった。けど、彼女は振り向いてくれない。ただ、ぼんやりとコーヒーをすすり、耳をふさいで、目を閉じ、彼女はいる。
「こんなの知ってる?」と僕はいう。
「知らない」と彼女はいう。
「風船の話」
「ふうせんのはなし?」
「風船の話さ」
「……続けて」
「世界で初めの風船は、ガチョウの胃袋を使ってできた」と僕はいった。「生きたまま飛ばすのさ。びゅーん、てさ」
「ガチョウは飛べるわ」
「飛べる。飛べるさ。でもね、そのガチョウは病気だったんだ。生まれる前から、もうずっとさ。だから、そうやって風船になってでも、死ぬ前に一度だけ、大空を飛んでみたかったんだ」
「変よ」
「それで、ガチョウはぐんぐん、天高くのぼっていった」
「で?」
「それきりさ」
「それきり?」
「そう。それきり。ガチョウのその後は、だあれも知らない。たぶん、今でも空を飛んでるんじゃないのかな?」
「ねぇ、ひとついい?」
「どうぞ」
「そのガチョウはさ、なんていったらいいのかな、うん、そう、なぜ、そんなに空を飛びたかったのかな?」
「なぜ?」
「だって、今すぐ死ぬわけじゃない。きっとみんなやさしい人たちが、世話してくれてる。でも、風船になったら、死ぬかもしれないし、もう二度と、今までやさしくしてくれた人たちに会えなくなるかもしれない」
「そうさ。そう。その通り」と僕はいった。「ガチョウはね、実のところ――」
「ねぇ、ちょっといい?」
「なに?」
「アナタ、いま、自分がどんな顔して話してるか、知ってる?」
僕は首をふった。
「なら、トイレに行って、鏡みてきなさいよ。逃げやしないから」
それで、僕はトイレにいって自分の顔を眺めてみた。実に、つまらない顔がそこにはあった。けど、いうほどわるかない。いちいち、話の途中で自分の顔見に行くなんて、ちょっとどうかしてる。
で、元の席に戻ると、彼女は、僕の買ったサンドイッチとともに姿を消していた。
机の上に残されたレシートの上には、えんぴつで、こんなことが書かれていた。
「ガチョウは好きだけど、アナタのいうガチョウは嫌いなの」
それで、僕は、あの名前のことを、また思い出した。
オキテの森
オキテの森には、入ってはいけなかった。入るな、というオキテがあるわけじゃない。入ったとたんに、我々は、数々のオキテを破ってしまうからなのである。しかし、誰も、そのオキテのことを知らない。入った人間、みながみな、もうこの世の人ではなくなってしまったからだ。
死んだ、というわけではない。この世のオキテから、外にあるオキテの内で生きなければならない、ということなのだ。
それは、文字にすると、あんがい、薄く、簡単なことのように思えてしまうのかもしれない。が、それは我々が思っている以上に、考えている以上に、とてもつらく、きびしいものなのだ。そんな風に大人たちはいった。
しかし、それでも村から、森へ旅立つ若者が絶えないのは、森の向こうに楽園があると信じているからなのだ。いかな村の長や長老たちの言葉であろうと、若く恐れを知らない男達を、この貧しく暗い村につなぎとめておくことは、もうできなかったのだ。
ある男がいった。
「何のためにオキテがある」
長老は答える。
「守るために」
「その先には?」
「なにもない」
やがて、その若者は森へといくことを決めた。オキテの森へだ。
しかし、その森は美しく静かではあったが、どんなオキテも存在しなかった。ただ、広がる森と空。鶏が飛び、男は心安らかになった。ただ、それだけだった。
そのうちに、森を抜けると、そこには、見たこともない美しい町があった。男は、そこで妻を手にいれ、子を育て、財産を築いた。そして、子供が成人した後、こういった。
「あの森はオキテの森だ。入ってはいけない」
あるかいわのきおく⑦
そのトイレは、まだ閉まっていた。男はイライラしながら、自分の席へ戻るべきか、それとも、このままトイレが空くまで待っているべきか悩んだ。
しかし、結局、男は席に戻った。
「ねぇ、いつになったら、着くのかしら?」と女はいった。
男は、もううんざりしていたのだけど、とにかく何か答えないと、と思った。
「じきにさ。じきにつく。そういうもんだろ? ねぇ、なんていったらいいのか、よくわからないんだけど、考えすぎさ。キミは、ちょっと疲れて考えすぎてる。だから、そんなこと思うのさ」
そうかしら? と女はいった。
「なぜ、わかるの? なぜそうだって、アナタにはいえるの?」
「いえるさ。いえる。いえるとも。そうじゃないとおかしいじゃないか。いいかい、キミは――」
「もう何度もきいたわ。もう何度もよ。ねぇ、アナタがいったこと、もう何百回もきいている気がするの」
「そりゃあそうさ。僕らは婚約してるんだもの。ずっと一緒にいたんだもの。でなきゃ――」
「ねぇ、いうわ。アタシいう。まだ、アナタに話してないことなの」
「なんだい? ねぇ、なんだっていうんだい?」
「ボンヤリしてるの。ボンヤリよ。ねぇ、すごくボンヤリしてるの。私達のこと。この飛行機にのる前、ほんの少し前からもよ。ほんの少し前から、もう何もかもが、ぼんやりしているような気がしているの。まるで、アタシ、ここで産まれて、ここでアナタと出会って恋をして、それで、まるでここで、いつまでたっても――」
「そんなことない。そんなことないさ。僕らは、三年前にあってから、ずっと一緒にいる。二人で飛行機にのったのは、これが初めてだし、僕はキミが赤ん坊の頃の写真もみたことがある。そこにはキミの両親や兄弟や、たくさんの猫もいて、君はその中で、楽しそうに、幸せそうに笑ってた」
「わかるわ。わかるのよ。アナタのいってること。でもね、それもボンヤリしているの。でも、この飛行機のことのほうが、もうずっとハッキリしているの。ねぇ、それがどれだけ、不安なことなのか、アナタにわかって? もう、ここに何百年もいるような、ずっとここに乗り続けているような、そんな気がして、頭が変になりそうなの」
「そんなことないさ。じきにつくよ。目的地は、もうすぐなんだ。あとはパイロットとスチュワードにまかせておけば、何も心配なんてすることないんだ。ねぇ、そうだろ?」
すると彼女は、こめかみを、そっと手でつまみ眼を閉じた。それから、男は何回もため息をこらえ、じっと時間が過ぎるのを待った。
あるの? と突然、女がいった。
なにが? と男はいった。
「今まで、アナタはその目的地っていうところに、ついたことが、今までにあるの?」
「ねぇ、一体キミは何のことを――」
「答えて? アナタは、一度でも、目的どおりの場所についたことがあるの? 教えて」
「あるさ。あるよ。あるに決まってる」
「例えば?」
「例えば、そうさ、そう、例えば、ひとつの例としてだな、誰にでもあることなんだろうけど、大学受験だ。僕は小さい頃から、どこの大学に行くのか、ハッキリ決められていた。それで、僕はその通りに生き、そして目的地についた。簡単な話だ。僕は目的地についた」
「でも、アナタはもう大学にはいないわ。ずっと前に卒業して、それから――」
「研究所入って、いまは国に勤めてる。だろ?」
「いいえ、違うわ。アナタは、いま飛行機にのってるのよ」
「そうさ。僕は飛行機にのってる。キミと南の島にいくためだ」
「なぜ、そうなったの?」
「なぜ? なぜって――、そりゃ、僕らの共通の友人が、いい島があるって、教えてくれて、それで、有給をつかって――」
「違うわ。そんなの全部ウソよ。ねぇ、いい?」
「いや、よかないさ。よかない。だいたい、キミはね――」
「いいの、きいて。いまは、いいからきいて。お願いだから、アナタにきいてほしいの」
「よかないさ。よかない。そんなの少しだって、よかないさ。僕はね、もう頭がどうにか、なりそうなんだ。ねぇ、わかるかい? 友人が死んだんだ。戦争でだよ。僕らはお互い能力を認められて、それなりの待遇をうけてる。戦時中だって、どこにだっていける。いいかい? どこにだってだ。だから、僕らはいま、飛行機にのって、のんきに南の島になんていこうってんだ。実に馬鹿げてる。こんな馬鹿げてること、他にないよ。他にない。きいたこともない。それでも、キミが――、キミが行きたいって、そういうから、僕は……」
「……ごめんなさい」と女は悲しそうにいった。「でも、でもね、わかるわ。わかるのよ。だから、だから今、アナタにきいてほしいの」
「…………」
「私ね、こんな風に思い始めたのには、きっかけがあるの」
「……きっかけ?」
「そうよ。きっかけ」
「……なんだい?」
「アタシね、ここが、この飛行機の中が、もしかして、私たちの、私とアナタの目的地なんじゃないかって、そう、ふと、ほんとにふと思いついたの。そしたら――、そしたら――」
「もういいよ」と男はいい、席を立ちトイレにいった。
だけど、まだ、トイレはしまり続けていた。
嫌な汗が、じっとりと男の下着をぬらした。
そして、そのトイレは、もうずっと長い間、いやこれから何百万年もの間、しまり続けているのではないだろうか? と男は、ふと思ってしまった。
ドアノブの下には、赤い文字で「閉まっています」と表示され、中には確かに誰かが入っているようだった。
そして、奇妙なことに、男の頭の中には、そのトイレの中に、その閉ざされた扉の向こう側に、確かに彼自身が、まだ座り続けている姿が、ハッキリと映し出されていた。
割れたコップ
割れたコップは恋をした
彼女は、同じガラス工場で産まれ、とてもキレイにキラキラ輝いている。だから、割れたコップが、彼女に恋をしたのは、別に不思議なことではなかったのである。
だけど、割れたコップは、やはり、割れたコップなのだ。水を入れても、砂を入れても、その割れ目から、何もかもが漏れていってしまう。ただ、それでも、割れたコップは、彼女に対する恋心だけは、この気持ちだけは、しっかりと掴んで離さないでおこう、そう思っていた。
そして、それは彼女が、いなくなってしまってからも、ずっと続いた。
もう、彼女はいないのに、いつまで、ぼくは彼女への気持ちを抱え込んでいきていかなきゃいけないんだろう? そんな風に割れたコップは思った。幸いなことに、割れたコップのご主人様は、割れたコップを捨てないでいてくれた。あのきれいな子と一緒に、いなくなった、女の人を待っているのだ。いつか、彼女が家に戻ってくることを夢見て。それまで、できる限り、家にあるものを変えたくはないのだ。だから、コップが割れたまんまでもいいのだ。ほしいものも買わないでいるのだ。毎日、最後の日に口にしたものしか受け付けないのだ。声すら発せず、あの時の最後の言葉を、そのまんま、胸にとどめ、あれから、少しも時間がたっていないかのようにして、毎日を過ごしているのだ。
割れたコップは、そんなご主人を前にして、おかしな気分になってしまった。けど、それでも、やっぱり、割れたコップも、恋人を失った、一人のひ弱な青年も、ただ同じ日を繰り返し、繰り返し、続けるしかなかったのだ。