ああ!
いつのまにか、自転車で岩槻城の地形をめぐってから一週間経ってしまいました。

急いで残りをまとめます。


前回は、本丸跡と二ノ丸跡を巡り、遊水池まで行きました。

今回はそこから、岩槻城の北の守り「新正寺曲輪」をまるっと巡ります。

岩槻城絵図で見る「新正寺曲輪」↓。
下図の黄色丸のあたりに、前回見た遊水池があります。


遊水池から再びスタート。↓

住宅街の中、本丸ー宮町地下道を潜ります。↓


地下道をくぐって、宮町側へ。
最初の信号手前に、岩槻総鎮守・久伊豆神社の看板が見えてきます。↓しかし今回は看板を無視して直進します。

信号を直進すると、左手に久伊豆神社裏の散歩道が出てきます。↓

過去に何度か紹介してきましたが、あの森の辺りは凹地になっていて、今も沼が点在します。

【過去の投稿】

かつて久伊豆神社のすぐ裏を流れていた元荒川の川筋跡と見ることが出来そうです。↓


岩槻城古城八景のこの風景↓は、上の写真の眺めだったのだと思います。
(撮影:はみ唐、2017年10月

 
かつて久伊豆神社の裏を流れていた元荒川は、岩槻城(岩付城)の天然の水濠でした。

秀吉の北条征伐の際には、上方の軍勢による元荒川(当時は荒川の西遷前なので「荒川」)渡河が岩槻城攻略上の切所となり、ひとつの“物語”が語り継がれています。

それは、岩槻城を攻める上方軍が陣を敷いたのは荒川の北岸の八幡神社。その八幡神社の神様は、「上方軍来る」の知らせを、荒川南岸(荒川を挟んで岩槻城内側)の久伊豆神社の大明神を伝えようとしたのですが、その時、地元民しか知らない荒川の浅瀬を渡る姿を上方軍に見せてしまったのです。

あそこが浅瀬だ!
八幡神社の神様のおかげで浅瀬の場所を知った上方勢は、一気に荒川を渡り、岩槻城を攻め落とした・・・

そんなお話です。

童話民話の類いですが、もしかしたら、地元民が荒川浅瀬を渡る様子を上方勢が目撃したという実話がもとになっているのかもしれません。

このお話に出てくる八幡神社は、上方の鎧武者らがひしめき合った光景から「鎧宮」と呼ばれるようになりました。

先ほどの眺めの場所から北に目を向けると、この鎧宮・八幡神社の手前の公園が見えます。↓

あの公園の奥に八幡神社があるのですが、今回は寄りませんでした。

ご興味のある方は、↓をご参照ください。


さらに進むと、進んできた道が、県道65号線=日光御成街道と交差します。↓


この交差点で左折。
日光御成街道を南下します。↓


旧街道ということで、お地蔵さまも。↓


人間総合大学の付近で、道は大きく蛇行。↓
自動車スケールではなく、ヒューマンスケールあるいはお馬さんスケールで作られた道であることが感じられます。


清水自転車さんの交差点。↓
この辺りは新正寺曲輪の中。かつて「田中口」があった付近です。

この交差点を左折すると、新正寺曲輪のど真ん中を突っ切る、久伊豆神社への参道を進むことになります。↓


久伊豆神社。↓

ちなみに↑の写真ですが、左奥に向かう道からやってきて、鳥居の前を通り過ぎてから、振り向き様に撮った光景です。

そして、また振り向けば、久伊豆神社の鳥居前の踏切。↓

この踏切の向こうは、住宅地が広がる広大な凹地。
坂道を降り、道を進めば再び登り坂となって台地を登ることになりますが、そこは三ノ丸後の「城址公園入口」交差点。↓

そうなのです。
久伊豆神社の鳥居前の踏切越しに見た、広大な凹地は、三ノ丸と久伊豆神社の乗る新正寺曲輪の間に広がる水濠地形の名残だったのです。↓


この水濠が、どれほど広大なものであったか。

久伊豆神社の鳥居前から「城址公園入口」交差点まで進んで見れば、それを実感することができます。

ちなみに、今は住宅地となっているこの水濠跡地ですが、地名は「本丸」。

性格の悪い私は、ここを通るたびに、
「ここ、本丸じゃなくて、濠の底なんだよな・・・」
と、失礼なことを考えています。

さて、これで新正寺曲輪をまるっと、ぐるっと巡ることができました。

次回が、いよいよ最終回です(たぶん)。