※ 妻と息子が寝静まり、ひとり仕事に入る前のちょっとした現実逃避として・・・
これまで何度か書いてきましたが、武州岩槻城(さいたま市岩槻区)は、城を城下町ごと城を大きく囲む土塁と空堀が築かれた城でした。
この土塁と空堀を「大構(おおがまえ)」と呼びます。
この大構は、豊臣秀吉の“北条征伐”に対抗するため、当時岩付城の城主であった北条一族が築いたものだと言われています。
全長数キロに及ぶ土塁と空堀は、北条氏の領国においても、本拠地・小田原城に次ぐ規模だったようです。
さて、この「大構」、現在では、愛宕神社の丘としてしか残されていないと、市史やパンフレットでは述べられています。
私も以前はそんなものかと思っていましたが、その後、かつて大構があったとおぼしき場所を散策する中で、少しずつ『そうではない』と思うようになってきました。
今では、大構の跡、あるいはかつての大構が利用した自然の地形は、現在も街中のあちこちに残されている、と考えるようになりました。
その成果を地形図に書くと下図のようになります。
下図では、青線と黄線で、岩槻城のかつての大構のラインを描こうとしてます。
黄線のラインが、今日でも、大構の跡(あるいは大構が利用した自然の地形)が残る、と私が見る場所です。
岩槻城の大構に関心のある方は、ぜひ、愛宕神社周辺以外も散策してみてください。
これまで何度か書いてきましたが、武州岩槻城(さいたま市岩槻区)は、城を城下町ごと城を大きく囲む土塁と空堀が築かれた城でした。
この土塁と空堀を「大構(おおがまえ)」と呼びます。
この大構は、豊臣秀吉の“北条征伐”に対抗するため、当時岩付城の城主であった北条一族が築いたものだと言われています。
全長数キロに及ぶ土塁と空堀は、北条氏の領国においても、本拠地・小田原城に次ぐ規模だったようです。
さて、この「大構」、現在では、愛宕神社の丘としてしか残されていないと、市史やパンフレットでは述べられています。
私も以前はそんなものかと思っていましたが、その後、かつて大構があったとおぼしき場所を散策する中で、少しずつ『そうではない』と思うようになってきました。
今では、大構の跡、あるいはかつての大構が利用した自然の地形は、現在も街中のあちこちに残されている、と考えるようになりました。
その成果を地形図に書くと下図のようになります。
下図では、青線と黄線で、岩槻城のかつての大構のラインを描こうとしてます。
黄線のラインが、今日でも、大構の跡(あるいは大構が利用した自然の地形)が残る、と私が見る場所です。
岩槻城の大構に関心のある方は、ぜひ、愛宕神社周辺以外も散策してみてください。
(※)青線で書いてしまいましたが、本丸周辺の地形も堀も
(現在はほぼすべて宅地になってしまっていますが)地形自体はかなり残されています。
【参考】
久伊豆神社の北側の“大構”跡らしき窪地については、以前ブログでも紹介したことがあります。
→ 岩付城(岩槻城)址を歩く ~新正寺曲輪~ ~新正寺曲輪(続)~
→ 岩付城(岩槻城)址を歩く ~鎧宮・八幡神社~