毎度! おばんです!
今日は世間一般「こどもの日」・・・
鯉のぼりが泳ぐ? 神戸線・都賀川を渡る阪急1011F「SDGs」。
晴天に恵まれて、それぞれの休日を過ごされていますが・・・
今でこそ各駅停車が近い時間帯ですが、
40年前の、1984(昭和59)には・・・
(報道写真をお借りします)
こんな惨状に・・・
もう何度も説明していますが、
六甲駅通過中のK1104列車と、
K1104列車退避中だった、六甲駅止まりの山陽1004K列車の運転士、
「H口Z治」が禁じ手の「ATS確認」ボタンを押して、15㎞/hで走行中に、
(ATS確認ボタンを押すと、通常は15㎞/hしか出せません)
(当該運転士の本名は今でも覚えてます!)
K1104列車の進路を完全にふさぐ形で衝突。
これも何度も書きましたが、
東須磨駅で勤務中に聞いた運転指令の速報の、
「阪急六甲駅で1004K列車が脱線、折り返しの1107K列車は帰ってきません!」
が今でも思い出されます。
で、ニュース速報は流れましたが、本格的に流れたのは夕方のニュースで・・・
(当時のABC朝日放送のニュース映像です)
マスコミ公開速報値ではケガ人61人ですが、
この時すでに、100人近く負傷者が出てる情報は入ってました。
でも、現場の状況はほとんど入らかった時代、
どうしてもテレビのニュースは見がちになってしまいます。
(ABC朝日放送より)
記者さんが現場で手書きで作成した状況でも、
当時はかなり参考になりました。
(ABC朝日放送より)
後で聞いたところによると、
阪急当該2050Fの衝突時の速度は45㎞/hまで落ちていたとか。
それでも、あの損傷はすさまじかったでしょう。
(ABC朝日放送より)
阪急2050の運転台は壊滅状態。
当該の阪急・井本運転士は直前で逃げても負傷。
それでも、下り各駅停車の接近を察知して、
列車防護に走ったのと、
負傷車を収容する救急車も、最終分まで残って、
現場に立ち会ったことは有名な話。
(ABC朝日放送より)
駅の側壁にもたれ込んで倒れ掛かってるのは、
当時の3号車・3507でしょう。 エアコンが2台もげてます。
(ABC朝日放送より)
これは4号車・3637。 完全にホームにもたれてます。
こんな状況見ながら、駅業務もこなして、
現場情報を収集してました。
個人的には、とんだ「休日出勤」でしたよ。
一方、現場ではその日のうちに阪急2050Fは西宮北口に収容。
翌日に山陽3064Fは、3200Fの救援で一旦東須磨に収容。
そのシーンは勤務抜けて撮りましたが、
「1.17」で被災して、写真は残ってません。
でも、各車の損傷状況はリアルに見ました。
翌日のうちに東二見に収容され、事故証拠品で押収。
裁判終了まで、ブルーシートを被されて、東二見に留置され、
その後補修されました。
で、翌日の神戸新聞。
山陽の当該運転士・「H口Z治」は事故当日に逮捕。
同時に懲戒免職処分。
(これは休み明けの社内通達に掲載されました)
それから約2週間後には当該車掌・「M田H男」さんが、
(車掌さんの本名も覚えてます!)
警察の事情聴取前日に、担当する列車に飛び込んでしまいました。
(昼夜乗務の後半の担当列車、
翌日の事情聴取のために、後半勤務を休まれていたそうです)
この事故処理には、あたしも駅勤務の傍ら少しですが加わりました。
「嫌疑なし」確定らしかったですが、度重なる事情聴取で疲れていたかもしれません。
その後山陽には運輸省(今の国土交通省)から査察は入るわ、
「ATS確認」ボタンは何度も場所変えるわ・・・
毎年5月5日には阪急乗り入れ全列車(三宮折り返しも含めて)の添乗指導が行われたり、
集合教育では六甲事故を振り返るカリキュラムも行われました。
1998年のダイヤ改正で六甲(御影中線)への乗り入れは終わりましたが、
その後の、5月5日の添乗指導は継続されました。
ですが、ここ数年はそんなシーンは見ませんでしたが・・・
全列車ではありませんでしたが、添乗は復活したようです。
半分は添乗されてました。
冷静に考えたら、あたしの年代(1983「昭和58」年入社組)が、
六甲事故をリアルタイムに知っている最後の世代。
どこまでこの事故を風化させずに伝えていけるのか?
今日も普通に? 「F582運用」で阪急に乗り入れてました。
淡々と運用に就いていた姿を見て、今日はこの辺で・・・
来年も、5月5日にはこの話を続けるかもしれませんが、
この事故を忘れないために、同じ内容でも続けていきます。
ほな! ドテテン!