浜ロンの言葉ってのは面白い
私は自販機でコーヒーを選んでいた。その自販機に着く前に、トリミングされている犬をガラス越しに眺める親子が目に入っていた。
どのコーヒーにしようか決めあぐねていると、少し離れたその親子の方から声が聞こえた。
「痛いよ~。痛かったよ~。」
その子が転んだらしい。その瞬間に思ったのは、泣き叫ぶのではなくしっかりと痛かった事を滑舌良く伝えているから大丈夫だなと。子供は痛かった事より、親にアピールをしたいものだ。私も子供の頃にそんな事をしていた記憶がある。目を離していたから分からないが、その転んだ原因が親のミスなら軽く責める気持ちで言うだろうし、自分のミスなら助けて・愛して・労ってという気持ちを込めるだろう。
しかしそれより印象的だったのが「痛いよ、痛かったよ」の順番だ。文法的に正しいのだ。
事件が起きた直後に今の肌感覚を伝え、そして次にはもう過去形になっている。
完璧だ。完璧な伝達だ。
つまり「痛いよ」と言っていた瞬間は痛かったのだが「痛かったよ」の頃はもう嘗ての痛みなのだ。それを証拠に「痛いよ・痛かったよ」のリズムのまま、しっかり歩き出した。「痛いよ・痛かったよ・スタスタ」の間だ。
しかし言葉を覚えるというのは改めてこういう事なんだなと思い知らされる。膨大な会話の中から、何となくこう使うのが正しい、と覚えていくのだ。ルールから覚えさせられたらやはり大変だ。住んで喋らないと難しい。
そしてそんな中から、わざと言葉の使い回しを捻ってボケたりツッコんだりするのがジョーク。言葉というのは面白い。
あの子も20年後に転んだ時は、いきなり「痛かったよ~。」と言って「いや何で過去形だよ!」とか、
「痛かったよ~。いや今もまだ痛いよ~。」と言って「いや痛みの伝え方正確か!」とツッコまれて行くのであろう。