稲取温泉旅館 食べるお宿 浜の湯 板前の道
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久しぶりに、

浜の湯調理場デス。

久しぶりに、書き込みします…

約二ヶ月ブログお休みしてました。
年末、年始の忙しさに負け、
ブログをサボりにサボって今日迄
来てしまった…トホホ…。

さて、寒の入りも過ぎて寒さの真最中
な訳ですが、

正直、寒の入りとか寒中とか、大寒なんて
言葉は忘れられつつある言葉のようにかんじ
られるのは私だけでは無いと思われます。

私は、雪国の生まれなので、寒さの厳しさ
や、寒さのなかでの生活はいやというほど
経験して来ているのだが…
最近の暖房設備やら、それに伴う
食材の季節感の無さ、

この季節には、これを食べる、
この行事にはこの食べ物が付き物である…
そんな慣習みたいなものが、かなりな割合
で私の中から消え去りつつある。

調理人をヤっているから、まだ少しは
忘れてはいけ無いと思い、気を使うこともある
のだが、

自身の食生活はそんなものに成りつつある。

日本人特有の季節を感じる能力もかなりの
割合で失われつつあるのは事実、
また、食生活も叱りである、

年の区切りの正月は色々と季節感や
その雰囲気がまだあるのだが、
それからの季節毎にある行事や習慣
も、
もう一度見直さなければ…

なんて、職業柄思っております(`_´)ゞ
以上‼

飾る

浜の湯調理場デス。

料理を飾ると言う仕事は、
一つ間違いを犯すとたちまちその
料理は下卑た物になり兼ね無い…

味わう前に下品な装飾が成された
料理は食べる意欲が失われる物で
ある。
例えば、日本人が愛してやま無い
お刺身なら大葉や、
花穂、小菊などの飾り花、
紅蓼、水前寺海苔などの添え物など、

主役が霞む程一つの器に盛り付け
られたら、たまった物では無い

いくら、季節感の演出、清涼感などの
表現をしたくとも、主役が霞む飾りは、
趣味が悪く、日本的な美しさの妨げに
しかなら無いのである。

やはり、主役の素材を効果的に装うのが
第一である訳だから、
なるべく単純にそして控え目にするべき
である。

単純でシンプルな美しさは日本人が古く
から追求して来たものである、
茶室の壁に掛けられた、一輪の季節の花
その美しさは、世界中で認められている
日本的な美しさの一つである。

茶室に派手なフラワーアレンジメントが
成されていたら…
その趣味の悪さに胸が悪くなるのはまちが
い無い。

料理の飾りは、
その場や、器の中の料理素材に合わせた
ごくシンプルで控え目に合わせる事を知る、
そこが肝心である。

和敬静寂、
こんなことばに通じる控え目な美にたいする
思いを、
盛り付けに活かしたいものである。










最低限のエチケット

浜の湯調理場デス。

日本式の食事作法だけでは
事足りなく、
最低限のテーブルマナーを知ると言う事が求められたのは一昔前の話しになってしまったようである。

しかしながら、和、洋、中、にとどまらず多国籍料理が大量に溢れかえる時代、
どの料理をチョイスするにしても、

やはり、最低限のエチケットは必要である。
堅苦しい茶懐石の作法や、ヨーロッパの格式の高いテーブルマナーと迄はいかないまでも、
食事の際にもてなされる側として、少人数が集まる会食でも、多人数の集まる宴会でも、食事の際に恥をかきたく無いのが人情な訳ですから、
やっぱり周りの人に、迷惑を掛け無い
不快感を与えないのが第一番のエチケットである。

第二はサービスされた料理を楽しみ、そして美味しそうに食べる事であろう。

しかしながら、美味しそうに食べる、その行為自体
結構難しいのである…

例えば、上品そうな感じの女性が宴席で、とってつけたように、旨そうに次から次に笑みを浮かべながら料理を食べる姿を想像して見ると、そのアンバランスな感じに違和感を覚えるに違いない。
美味しそうに食べる姿は本来違和感を与える事はないのだが、
その表情や仕草が周りを不快にさせる事もあるのだ、度が過ぎた表情や仕草が仇となる場合もある…。

多人数で食事を楽しむ為には食事の最中の会話もまた大事なエチケットの一つですが、
日本人は欧米の人達に比べ此れが下手であるから、始末が悪い。
まあ、せいぜい話し掛ける相手が料理を口に運んだ時ぐらいは会話を控えるぐらいの作法は知らなければならないのである。

食は人間の欲の一つであるから、欲は度が過ぎると醜いものである、
節度をわきまえなければ、その行為は
動物的なものに成り下がる可能性さえあるのだから、最低限のエチケットは身につける必要は人として大事な事であろう。

旨さを左右する色

浜の湯調理場デス。

料理は色で食べる…
なんて言葉が昔から言われていますが。

正にその通り、色は、
食欲を大きく左右する、食べ物にとって大事な物なのである。

しかしながら、案外に食べ物と色の関係について無関心な所が我々にはあるのではないか。

食べ物はまず、見た目で安心感が
あるか、無いか、
が肝心で 調理する素材の良さが一番に上げられるのだが、
その良し悪しを見極める際にまず、
素材の健康な色艶を見て選ばなければならないのである。
素材選びからして、我々は人は、色を頼りにしているのが事実なのである。

そして、食材の加熱による色の変化、器、照明、食卓の装飾、相手がいる場合の服装の色などなど…
食欲とその料理の美味しさに、大きく影響を与えるのが、「色」なのである。

科学的、心理学的、統計学的に食と色の関係は真面目に昔から研究されて来た事柄であり、その結びつきは切っても切れないものに間違いない所なのだが、
一昔前までの 、余りにも色や見てくれにこだわり健康を害する食品添加物満載の加工食品が溢れかえった時代が過ぎ去り、(ハムやソーセージ、菓子に代表される)
自然で健康的な食材を求めるのが当たり前の今現在の思考に変わって、
今更ながら自然の食品の色の美しさに気ずいて来たのが現実である。

昔は何処の調理場でも、色をつける為の添加物が有り、使用頻度はかなり多かったのであるが、

現在は余り使わなくなっているのが現実である。

食品の色は、自然の色が健康的に付いた食べ物が身体に良いと云う事は、大昔から我々人間にうえつけられた感覚であるのだから、余りにも人工的な色相はやはり、受け入れることが出来無いものなのかもしれない。

そんなところで、食い物の「色」は非常に大事な所である、我々調理する人間がしっかりとした認識を持ち続けなければ、
一昔前のなんでもありの見た目だけが良い醜い食べ物が横行するハメに逆戻りしてしまうのである。

食い物の「色」を見極める力を養うのも、我々料理する人には絶対的に必要な所だと云う事である。


新米

浜の湯調理場デス。

秋も真っ盛り、農産物、海産物なんでも美味い時期では在りますが、

やはり、
何と言っても日本人に生まれ秋の収穫で一番嬉しいもの、尊ばれてきたもの
は「米」なのであります。

日本人は、古く縄文の時代から稲作に励み米を主食にして来ました、
単にタンパク質の補給にとどまらず、
菓子、油 、米麹を使った酒、みりん、酢、米味噌、漬物、などなど
米が無ければ日本人の食の根幹が失われるほどである。

米粒一つの中に神様がいるとまで、
言い伝えてきた民族である訳ですから
もはや我々のDNAの中にしっかりと刻み込まれている大事な、食べ物の域を超えたものであると考えます。

さて、米屋に限らず、スーパー、
デパート、デスカウントストアに至るまで、新米が売り出されているのであるが…
一昔前までの流通ルートと違い、
政府管理から解き放たれた米である。

自主流通米と名付けられ、パッケージも自由、価格も民間主導の検査期間で決められる、その上卸業者は届出さえすれば良い現在、消費者はどの米を選べば良いのか難しくなっているのが現実である。

まあ、数ある米のブランドから、しっかりと新米の旨さを味わう為に最低限の米への知識が我々消費者に必要と云う事だろう。
例えば、 ○○産コシヒカリ、
○○さんが作ったコシヒカリ、
なんて名前が付けられ、どの米を選べば良いのか迷うのが現実だろうし、

同じブランド米の名前で10キロ3000ぐらいの奴から、一万円近い米まで、あるのだから大変に困る…のである。

米の銘柄だけでも、覚えきれ無いほどあります、

自分や家族の口に合った米を探す苦労も新米の出揃う今時期の食の楽しみの一つでは無いかと考えます。

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