とりあえず…completely passive passion

とりあえず…completely passive passion

たぶんとりあえずの書きちらかしばかりかと…

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初めてのTHE ICEは
浅田真央さんの、観客の、共に演じるスケーター達の
いくつもの想いが
あちらにもこちらにも、あちらにもこちらにも行き交う中での
温かで、実に幸せな3時間だった。

旅立ちのTHE ICE。餞のTHE ICE。

浅田真央というスケーターが
一人のスケーターとして稀有な存在だというだけではなく
スケートの世界にとってもそうなのだ、ということを
改めて思い知らされた。

一足先にプロの世界へ入っていった仲間達の今日の滑りは
これまで観てきたものとはちょっと違うものに
私にはみえた。
この先どういう道に進むのか自分自身で決めるべき時を迎えた彼女に
選択をせかす、というのではなく
いくつもの選択の拠り所をプレゼンしているようだった。
誇り高きプロの滑りだった。

うん。きっと、いろんなことができるよ。


大輔さんについてはまたそのうちに。
とにかく昨夜のお酒はしみじみとおいしかった。

とりあえず、一言キャラバンくん(←擬人化)に呟いてみる。
「ほんとうに、よかったねぇ…(´;ω;`)」






───踊り手のなかには三人の「私」がいる。これが舞踊の芸の、いやあらゆる日本の舞台芸術における芸という方法論の基本である。──

        (渡辺保「三人の「私」」『身体は幻』幻戯書房,2014)

肚を決めた大輔さんは、新たにつくり始めた器を「高橋大輔」というコンテンツで満たし、そこに源義経を入れていった。
染五郎さんが言った通りに。
だからこそ、あの義経は大輔さんそのものでもあった。
やっぱり染五郎さんが言った通りに。

私はあの義経さまに
『大輔さんであり、また「高橋大輔」である
源義経』
をみていた。
つまりそれは、素の大輔さん、「高橋大輔」、源義経という役柄が交錯するところにこそ生まれるものであって、染五郎さんが素の大輔さんを含む「高橋大輔」『で』で見せたいものだったんだろうと思っている。

演者の視線がみやる彼方に観客の視線が導かれていく。そこには限りない空間が拡がっていく。
代々木はその物理的な広さ以上の拡がりをもってして、私を異世界へと連れていった。
内には深く、外には広く、どちらにも開かれた世界へ。

それは、紛れもなくプロのパフォーマーの「仕事」であった。




大輔さんはいつかの取材で、染五郎さんのやりたいことが見えてきたような気がする、みたいなことを言ってたよね。
今、シェリルのやりたいこと、あるいはポールやジェリのやりたいことはどうなんだろう。
彼女たちは、観客も驚くほどのamazingなレベルで「高橋大輔(という天才)」『を』見せたいのか。それとも「高橋大輔(という天才)」『で』見せたいのか。
どっちなんだろう。
後者であると思いたいんだけど。


初演からの5公演のうち3公演に出かけ、少なくとも私はそこで、「高橋大輔という天才」『を』見た。
(今だから言える)去年は不本意にも時折感じてしまったある種のいたたまれなさは今年は欠片ほどもなく、彼は彼特有の「身体」を再び手にいれ、ひたすらに美しく、かつ圧倒的な存在感で。無垢でありながら同時に豊かな含意を湛える動きに、魅入られるしかなかった。ぞわぞわと身体反応も呼び起こされた。
それだけの「技」を彼は床でも手に入れていた。
……こんなもんを見せられてしまったら、準備していた覚悟と諦念は、どうしたって追い払われてしまうじゃないか……。

そして欲深な私は思う。「技」は何のためにあるのか。
いつだって、大輔さんが教えてくれたことだ。


『「高橋大輔」の舞』に酔った私が再びオーブに臨み、そこで、『「高橋大輔」の舞』によって何かを観ることができるかどうかは
純粋に私自身の問題──感性とか、あるいは体調とかも含め──なのかもしれない。
だけど私は大輔さんのファンではなくてただの中毒患者だから、そう、欲深のね、だから言ってしまうのだけど、
『大輔さんの「高橋大輔」の観せてくれるもの』が──もちろん、義経のような、人格を持った「役」である必要はなくて──観たいから、それを観せてもらえることを信じて、あと2回(少なくとも、ね)、オーブに行きます。



もしかしたらLOTFという公演にそれを求めるのは、求める方が間違いなのかもしれないけれど。文化の違いというのではなくて、演者と観客との関係性という意味からの、その公演の存在価値を考えると。
LOTF2016が、演者と観客のセッションが生み出したものの大きさによって、大輔さん自身を含めそれに関わる多くの人々に何をもたらしたかを考えると。


それでも…。




ひろかった。
あの全日本の時と比べようもなく。



らくたぶの天井席よりずっと近い席で
大音量のはずの音楽が遠くに響くのを感じながら
大輔さんの、美しく整えられた舞を観ていた。
最後まで、スクリーン越しに。


もう彼は「私のために」は滑らないのか。


常の彼に比して滑らないとか
ジャンプがいま一つとか
そんなことは今までだってあったこと。
そんなことはとるに足らない些末なことだった。
私にとって彼のスケートを観るということは、常に、
「観賞」ではなく、個人的かつ内的な「経験」であった。


あの日、らくたぶで再び喚び覚まされた私の欲望は
LOTFでは「次は氷上だから」と、
FOIでは「次は広いリンクだから」と、
重なる「しばし待て」に制御不能なほどに膨れ上がり
結果として
大輔さんと私の間の隔たりとなってしまった。

そして私は、
彼の作り出す美しい世界に入れてもらうことができなかった。




ただただ悲しかった。

もう彼は「私のために」は滑らないのか。



喝采を贈り続ける彼を愛するひとたちのために滑り続けるというのなら
それはそれで尊いことだろうけれど
その「場」に私の居場所はない。


私は彼のファンではなくて、ただの中毒患者だから。
高橋大輔という人物にどれほど惹かれても
あの舞を忘れることなんて
諦めることなんて
できようはずがないじゃないか。





そう、あなたは強かった。
そして「私たち」は強かった。
10日間13公演の時間をかけて、オーブを新横に変えてしまった。

観客は演者という鏡に映った自分を愛し
演者は観客という鏡に映った自分を愛し
熱を帯びた濃密な空気が収斂していって生じた重力場に
覚悟し、観念しながら
取り込まれ
楽日の私は、ものすごく幸せで、ほんのすこし悲しかった。

LOTFは参加型一大エンターテイメントで
しかも劇中劇。
「高橋大輔30歳、再始動!」という物語の一幕。
金曜の大輔さんの言葉を読むまで、迂闊にもそれに気づいていなかった。
確信したのは楽日の朝のインスタで。
そして私は、私の役どころを果たしにホールに入った。
もとより千秋楽はそのつもりだったけれど。

あの時あの場にいた皆が、それぞれの役回りをたぶん完璧に演じきった。
もちろん大輔さんも「高橋大輔」を。



ソチ後の幕張の放送、kissingラストのアップに思ったのは
大輔さんがものすごく上質な「コンテンツ」だということだった。
その後PIW東京に通いながら、「高橋大輔」と格闘したのを思い出す。



誰が書いたシナリオなのかわからないけれど
おそらくその人の思惑以上の見事な物語を作り上げてしまうのが
高橋大輔というひとで。
その物語の中に「共に在る」ことのできる大輔さんのファンは
ものすごく幸せで。

心底、秀逸なエンターテイメントだと思う。




でも、私は欲深だから、少し悲しい。




休演を挟んだ水曜、大輔さんの動きに「余地」の気配を見てとって
つい願ってしまったから。

極限まで収斂していった空気が
自らの重力に堪えかねて噴き出す「場」が
未知なるものであらんことを、と。



嘆いているのではない。yはyでいい。そこにも次のフェーズはある。
歩き出した大輔さんの向かうところは
ひとつである必要はない。



とりあえず、長生きしなきゃな、とは思ったから
今は、それでいい。

あの視線に捉えられたら、そりゃもう抗う手だてはあるまい。
神?……というより、白いモンスター。
あ、大急ぎで付け加えれば、
それは、表現者に対しては最大級の褒め言葉のひとつであるとは思ってます。


白を写したその繭を、
切り裂くのでも、引きちぎるのでも、噛みきるのでもいい。
そっと脱ぎ捨てるのでも。

ともかくも、
次は、そこから出ていくのでしょう?
闘いの待つ場へと。