───踊り手のなかには三人の「私」がいる。これが舞踊の芸の、いやあらゆる日本の舞台芸術における芸という方法論の基本である。──
(渡辺保「三人の「私」」『身体は幻』幻戯書房,2014)
肚を決めた大輔さんは、新たにつくり始めた器を「高橋大輔」というコンテンツで満たし、そこに源義経を入れていった。
染五郎さんが言った通りに。
だからこそ、あの義経は大輔さんそのものでもあった。
やっぱり染五郎さんが言った通りに。
私はあの義経さまに
『大輔さんであり、また「高橋大輔」である
源義経』
をみていた。
つまりそれは、素の大輔さん、「高橋大輔」、源義経という役柄が交錯するところにこそ生まれるものであって、染五郎さんが素の大輔さんを含む「高橋大輔」『で』で見せたいものだったんだろうと思っている。
演者の視線がみやる彼方に観客の視線が導かれていく。そこには限りない空間が拡がっていく。
代々木はその物理的な広さ以上の拡がりをもってして、私を異世界へと連れていった。
内には深く、外には広く、どちらにも開かれた世界へ。
それは、紛れもなくプロのパフォーマーの「仕事」であった。
大輔さんはいつかの取材で、染五郎さんのやりたいことが見えてきたような気がする、みたいなことを言ってたよね。
今、シェリルのやりたいこと、あるいはポールやジェリのやりたいことはどうなんだろう。
彼女たちは、観客も驚くほどのamazingなレベルで「高橋大輔(という天才)」『を』見せたいのか。それとも「高橋大輔(という天才)」『で』見せたいのか。
どっちなんだろう。
後者であると思いたいんだけど。
初演からの5公演のうち3公演に出かけ、少なくとも私はそこで、「高橋大輔という天才」『を』見た。
(今だから言える)去年は不本意にも時折感じてしまったある種のいたたまれなさは今年は欠片ほどもなく、彼は彼特有の「身体」を再び手にいれ、ひたすらに美しく、かつ圧倒的な存在感で。無垢でありながら同時に豊かな含意を湛える動きに、魅入られるしかなかった。ぞわぞわと身体反応も呼び起こされた。
それだけの「技」を彼は床でも手に入れていた。
……こんなもんを見せられてしまったら、準備していた覚悟と諦念は、どうしたって追い払われてしまうじゃないか……。
そして欲深な私は思う。「技」は何のためにあるのか。
いつだって、大輔さんが教えてくれたことだ。
『「高橋大輔」の舞』に酔った私が再びオーブに臨み、そこで、『「高橋大輔」の舞』によって何かを観ることができるかどうかは
純粋に私自身の問題──感性とか、あるいは体調とかも含め──なのかもしれない。
だけど私は大輔さんのファンではなくてただの中毒患者だから、そう、欲深のね、だから言ってしまうのだけど、
『大輔さんの「高橋大輔」の観せてくれるもの』が──もちろん、義経のような、人格を持った「役」である必要はなくて──観たいから、それを観せてもらえることを信じて、あと2回(少なくとも、ね)、オーブに行きます。
もしかしたらLOTFという公演にそれを求めるのは、求める方が間違いなのかもしれないけれど。文化の違いというのではなくて、演者と観客との関係性という意味からの、その公演の存在価値を考えると。
LOTF2016が、演者と観客のセッションが生み出したものの大きさによって、大輔さん自身を含めそれに関わる多くの人々に何をもたらしたかを考えると。
それでも…。