「苦しんでいる人のために、自分が何か出来るなんて、思っちゃいけない。
それは、思い上がり。
私たちは、何ひとつ出来ない。何にも出来ない。
それは、肝に銘じておいた方が良い。
ただ、暗い道のちょっと先に、小さな灯りくらいはともせるかも知れない。
いつか誰かが、その灯りを道しるべに歩き出すかもしれない。
私たちは、ただそれを、信じて動き続けるしかないのよ」
虐待を受けた子どもたちの避難シェルターの理事である、女性弁護士の言葉。
暗闇を生きてきた子どもたちに関わるその人は、いつもはつらつとして明るい。
「私たちが希望を失うわけにはいかないから」と笑う。
その言葉を、ずっと、かみしめている。
シェルターの子どもたちや、心療内科の患者さんに接するときは、今でも緊張する。怖い。
誰かの心に寄り添い、一緒に時間を過ごすというのは、生半可なことでは出来ないのだから。
思い上がってないか、想像力に欠けた言葉を放っていないか、無神経な言動をとっていないか、ひとつひとつ自分に問いかけながら進む。
「私、怖いんだ」とつぶやくと、児童福祉に関わる人は言った。
「私たちは、自信満々の人ほど、怖い」
自分は、とても素晴らしいことをしている、自分は分かっていると思い込んでいる人の方が、傷ついた子どもたちを混乱させる場合が多いのだと。
今、被災地に向けてさまざまな活動をしている人たちの動きを見る。
エンターティメント系の出番は、まだ先。
ゆっくりと眠れる場所、あたたかい食事、帰れる家があってこその、娯楽。
もちろん、歓びは生きるために不可欠だけど、被災地は、まだ受け取れる状況にない。
自分が良かれと思って行っているあれこれが、全てを失い深い悲しみにある人の心を踏みにじっていないか、立ち止まって考えなければならない。
想像力を働かせ、本当にこれで良いのかと葛藤し、心を寄り添わせるようにしたもの以外は届くはずもない。
絶望の中にいる人が、今必要としている音、色、香り、言葉、形…
それは、穏やかな、静かな、柔らかなもの?
それとも…
届けるものが、透明になるまで、手に取った人が贈り物だと気づかない位に透明になるまで、自分の心を練り続けるのが、今の私に出来ることだ。