「ただ観る者」がただ観ていた | 深層意識の力を利用し、夢を実現する

「ただ観る者」がただ観ていた




いらっしゃいませ、マスターの濱田です。


このブログでは、わたしがどのようにして

「悟り」という概念と出会い、

目が覚める経験をしていったか、

その経験談を書かせていただいています。


これから目が覚めていく方、

またもう既に覚めつつある方の

一助になれば幸いです。


これまでの経験談は、テーマ内の

悟りへと誘われた道 」をご覧ください。


わたしは病院の受付で先生がやってくるのを、

車椅子に座ったまま待っていた。


意識は朦朧とし、

気力や体力はほとんどなくなっていってた。


どんどん気力が失われていくのが、わかった。


自分の姿を見たわけではないが、

おそらく目を開けたまま廃人かのような姿を、
そのときはしていたのではないかと思う。


車の燃料のレベルゲージが、

急速に下がっていくように、
意識はどんどん朦朧とし、

気力も失われていくのがわかった。


そんな最中だった。


あるアイデアが浮かんできた。


ほとんど何も考えられなくなっている最中、

そのアイデアは浮かんできた。


「このまま手を離してしまおう」


そんなアイデアが浮かんできたのだ。


おそらく普通の感覚なら、

なんとか意識を失わないように、
意識を保とうと抗うんじゃないかと思う。


だけどこのとき、

ほとんどなにも考えることができないこの状態から、
無我の中に入ってしまおう、

そうアイデアが浮かんできたのだ。


そしてわたしは無思考の中へと入っていった。


そのときは座禅や瞑想のように、

呼吸に意識を向けるという必要さえもなかった。


水槽の中で手を離したら、

コインは自然にスーッと落ちていく。


わたしもただ、意識を保とうすることをやめた。

本当にただそれだけだった。


コインはスーッと落ちていった。







「濱田さん、濱田さん」





そう呼ばれ、肩を叩かれ、わたしは我に返った。


「先生がいらっしゃいました」


そう言われた。


そしてわたしは、

今自分に何が起こっていたのかに気がついた。


景色は観えていた。


病院の受付の景色は観えていた。


そして音も聴こえていた。


看護師さんたちの話す声、

治療器具を運ぶ音、それら音は聴こえていた。


だがそれは観ているとか、

聴いているという感覚とは全く違った。


後によりはっきりと、

なにが起こったのかを理解することになったのだが、

そのとき、景色を観、

音を聴く「わたし」が存在していなかったのだ。


それはまるで、誰もいない映画館の

スクリーンに映画だけが映し出されているかのようだった。


映画を観る者は誰もいない、

映画を映写する技師もいない。


誰もいない。


映画が映し出されていることに気づく者は誰もいない。


誰もいない。


まったくそんな感じだった。





またはそれは、誰一人立ち入ったことのない

静かな森の中の湖、
その湖面に映像が映っている、そんな感じだった。


湖面になにかが映っていることを、誰も知らない。


まったくそんな感じだった。


そして「濱田さん」と越えかけられた瞬間、

音を聴き、景色を観る、
わたしという観察者が顕れたのだ。


わたしという観察者がいなくても、

なにかが観ていた。


観るという行為を行う行為者がいない中、

観照するなにかが確かに存在していたのだ。


それが「ただ観る者」と呼ばれてきたものであることを、
わたしはもう少し後に、深く理解していくことになる。


つづく。


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