わたしの「悟り」のお話 | 深層意識の力を利用し、夢を実現する

わたしの「悟り」のお話




いらっしゃいませ、マスターの濱田です。


わたしはこれまで、講演の場など以外では、

あまり「悟り」について、詳しいお話はしてきませんでした。


ですがなぜか昨日、ふとお話しようかなという

思いが浮かび上がってきて、

はじめて詳しくメルマガ で書かせていただきました。


今日はそれをこちらに転載しようと思います。


メルマガから若干変わっているところはありますが、

それは「その方がいいんだな」という思いと

行動が起こってきましたので、

きっとその方がいいいのだと思います。


以下メルマガ文


今夜は今までお話しすることのなかった、わたしと、
わたしの「悟り」のお話をさせていただきたいと思います。


この、わたしの「人生の体験」が、
「実は人生とはどのようになっているのか」ということを、
わたし自身に理解させてくれたからです。


世界も、人生も、
わたしたちの多くが思っているようなものとは、
実はまったく違っています。


ですが、わたし自身がこのことは、
人生の中で体験を通してみないと

理解できなかったことです。


ですので今夜は、そのお話を

させていただきたいと思います。


わたしは幼少の頃からなぜか

「あらゆる物事は、本当の本当には、
これ以上ないほどシンプルで簡単なはず」だと

感じていました。


大人はみんな、すごく世の中のこと

難しく捉えて言うけれど、
「本当はこれ以上ないほど、

シンプルで簡単なはずだ」と感じていたんです。


今から振り返ってみたらそれは、

感じていたというより、

本当は「知っていた」のだと思います。


ですが、みんながそうであるように、

大きくなっていくうちに、
他の人と同じように生き、

同じように競争する世界へと入っていき、
そのことを忘れてしまいました。


わたしは中学時代、
「2001年宇宙の旅」という映画に

なぜかとても惹かれました。


そして「アインシュタインの相対性理論」に

とても惹かれました。


どちらも当時、とても難解に感じました。


だけど、なぜか惹かれたんです。


なぜ惹かれたのか?


そのことは、ずっと後に知ることになりました。





わたしは子供のころか何故か、ずっと何処か、

なにか満たされないものがあるのを感じていました。


大人になって、仕事に充実感を求めたり、

いろんなことにチャレンジしました。


ですが何処か欠けている、

なにか「根本的なこと」が欠けているのを

どこかでずっと感じていたのです。


お金をたくさん稼げるようになったら、


こころから打ち込める大好きなことを見つけたら、


生涯をささげられるライフワークに出会えたら、


人生の目的をみつけられたなら、


そう感じていたのでしょう。


わたしはたくさんの本を読み、

ビジネスやスピリチュアルのセミナーやクラスに

たくさんたくさん参加しました。


そして成果も上がっていました。


ですが、それでもどこかが欠けている感は、

払拭されなかったのです。


でもわたしは、その感覚が何処から来ているのかは、

まったくわかっていはいませんでした。


ただ、まだ本当の夢が叶っていないから、

ゴールへと至っていないからそう感じるのだと、

思っていたのです。






さて、わたしが「悟り」なる概念を知ったのは、
あるビジネス系のセミナーに

参加したことがきっかけでした。


たまたま隣に座っていた男性と話していたとき、
彼が「座禅で人生が変わった」と

言ったことがきっかけだったんです。


わたしは何故かとても、

気になり、惹かれました。


なぜ惹かれたのか?


それも後になってわかりました。


ですが、このときは勿論、

そんなことは解かりませんでしたし、
「なぜ惹かれるのかな?」なんて

思いつくこともありませんでした。


とにかく惹かれたのです。


そしてわたしは、興味に惹かれるまま、
ネットや本などで禅について調べるようになりました。


そこで「悟り」という概念に出会いました。


そしてとても「悟り」というものに惹かれました。


「悟ってみたい、

悟ったらきっとすごいに違いない」そう思いました。


とても惹かれました。


ですが、「座禅ってとても厳しそう」と思って、
なかなか実際には踏み出せませんでした(笑)。


実際に禅修業に行ったのは、
座禅のことを知って半年後のことでした。


それだけ厳しそうなのは、
イヤだなぁと思っていたんです(笑)。


でも、不思議なもので、


ある日ふいに「行こう」という思いが湧いてきました。


あんなに「厳しいのイヤだなぁ」なんて避けていたのに。


人生ってそのようにできているんだなと、

今では解かりますが、
当時はふいにその気になったくらいの感覚でした。






禅の修業は、わたしの期待を、

いい意味で裏切ってくれました。


そしてはじめて、アタマのおしゃべり、
思考が静かになるという経験をしました。


考え事が止む、思考が静かになる。


このことがどれくらいこころ穏やかで、
冷静で、素晴らしいものだったのかを、
このときはじめて知ることになりました。


そして四六時中浮かび続けていた考えごとが、
実はどれくらい体力を奪い、
疲れさせるものだったのかを

知ることができました。


それは体験して初めて理解できたことでした。


「アタマでどんなに理解しようとしても、
それは体験してみないとわからない」と

よく言いますが、これは本当に体験してみないと

わからないことでした。


わたしは座禅を体験したことで、
こころ静かになることが、
どれくらい人生の質を変えてくれるのかを体験し、
理解することができました。


はじめての座禅から帰ってきたとき、
友人が会ってすぐに

「マスターが大人になって帰ってきた!」
と驚いていたのもよく覚えています(笑)。


それくらい雰囲気が変わっていたのでしょう。


ですが、このときは「悟る」ということには、
残念ながら至ることはできませんでした。





その後、座禅だけでなく、何十日も山に篭っての
瞑想修行などにも、何度も行ったりしました。


悟りたかったんですね。


なんかこのように言うと、
「ずいぶんストイックな人だなぁ」って

聴こえるかもしれませんが、


ちゃんと(笑)思考では「めんどくさいなぁ」って

思っていたんですよ。


ただ、なぜか行ったんですよね。


それが何故だったのかも、

後になってわかりました。


わたしに悟りの一瞥(いちべつ)の体験が訪れたのは、
最初の座禅に行ってから4年後のことでした。


そしてそれは、座禅や瞑想などの
修行のときに起こった経験ではありませんでした。


きっかけは、ある気づきでした。


ある日のこと、ふとしたきっかけから、
「あ、オレってホントに悟りたかったんだ」って

気づいたんです。


それまでも「悟りたい」とは思っていました。


ですが「悟り」とは孤高のような体験で、
おいそれと凡人のようなものに、
訪れるようなものではないと思っていましたので、


「生きているうちに悟れたらいいなぁ」というような
実際には、憧れのようなものどまりでした。


ところがある日、「あ、オレ、ホントに悟りたいんだ」って、
それが本当の望みだったと気づいたんです。


そのいきさつはこちら


不思議なもので、

本当に望んでいたことだったと気づくと、
人生の流れって変わり出します。


目に付く本、出会う情報が、その日から
「悟り」に関するものばかりになりました。


「意識が向くようになったから」と

説明はできそうですが、
もっと大きな何かが、

人生の背後で動いていたんです。


そして悟りの一瞥(いちべつ)を

経験してわかったのですが、


それまでに出会った本、出会った情報はみな、
その経験が起こったときの、
大切なサポートになるものばかりでした。


実は着々と準備は整っていたんです。


それは今振り返るとば、

仕組まれたものだったように思います。






悟りの一瞥は、覚者との不思議な出会いにより訪れました。


それは常識では説明できない、不思議な出会いでした。


その人は表には自分からは出てこない人なので、
それはやはり不思議な出会いとしか思えない感じでした。


今ならその出会いは、不思議でもなんでもない、
「そうなっていたんだ」とわかるのですが、
当時のわたしには、奇跡としか思えない出会いでした。


よく「成功したかったら、成功者に会いに行け」
というのを耳にすることがありますよね?


覚者との出会いは、まったくそのことでした。


ほとんどの人は、「成功者に会いに行け」と聞くと、
行ってノウハウや、

考え方を教えてもらうことだと思い込んでいます。
(わたしもそうだったのですが(笑))


ですが、その本当の意味は、

その人と同じ空間を過ごす、
そのことが「なにか」を変えてしまう

ということなんですね。


わたしは覚者と一対一で会い、
そしてはじめてそこで悟りの一瞥を体験しました。


体験してはっきりわかったのは、
これは体験しなければ、

絶対にわからなかったということでした。


どんなにアタマでわかろうとしたところで、
アタマでは、つまり思考などでは

解かるはずなどありませんでした。


なぜなら、「それ」は思考を超えたものだったからです。


同時に、どうして座禅や瞑想をがんばっても、
当時は悟れなかったのかが、

体験してみてやっとわかりました。


わたしは、

というより、わたしの思考が、

悟りに関して様々な思い違いをし、


同時に「思考が悟ろうとしていた」のです。


ですがこれも、アタマでは、
けっして解かることではありませんでした。


一瞥のこの瞬間「ああ、もう探す必要はないんだ」
という確信が訪れました。





チルチルミチルの「青い鳥」のように、
それはたしかに「ここ」にあったんです。


ずっと「ここ」にあったのに、
それが今までまったく見えなかったんです。


見えなかった理由は明白でした。


探していたから見つからなかったんです。


ですがそれも、

アタマでは絶対に解からないことでした。


一瞥は起こりましたが、

その後も思考の思い込みはありましたので、
それが落ちていくプロセスが始まりました。


悟りの入り口を通ると、
不可逆の流れがはじまると聴いていましたが、

それは本当でした。


一旦悟りの入り口を通り過ぎると、

もう元に戻ることはできません。


はじめのうちは、
戻ったような気にさせる「思考が悪戯」をしてきましたが、

でも、もう戻ることはありませんでした。


悟りが起こると、

悟る前とは全く人生の流れが変わりはじめます。


悟る前に起こることは、

「もういいかげん目を覚ましなさいよ」
というような出来事が起こっていました。


それはいろんな問題や、

葛藤という形でやってきました。


以前うまくいっていたようなことが、

なぜかうまくいかなくなって、
「どうしてだろう?」と感じるようなことも体験しました。


なぜそうだったのかは、今はよくわかります。


悟ってからは、生き方のルールが全然違うからです。


もうとっくにルールは変わっていて、

だからうまくいかないんだけど、
でも、アタマ、思考にはそんなことは解かりません。


なので、一生懸命、なんとか立て直そうなんてことを、
アタマは考え、やろうとするのですが、

そもそもルールが違ったんです。


もっともっと、これ以上ないほど

シンプルな生き方があって、その簡単な生き方を

すればよかっただけのことだったのですが、
アタマ、思考にはそのことが解からなかったんです。


今世の中では、たくさんの人が「大変」って
言いたくなる体験をしていますが、
それは「もうそろそろ目を覚ましなさい」ってことを
体験しているのかな?と、わたしは感じます。


悟りの一瞥が起こってから、
これまでの思い込みが

落ちていくプロセスが始まりました。






どれも本来のシンプルで、
これ以上ないほど簡単な生き方をするのには、
要らないものばかりでした。


すごく簡単で、シンプルで

「わぁ楽で、そして楽しい」って
いっぱい楽しめるこの人生を、

思い込みは、まるでホラー映画かのように、
難しく難しく、複雑なものに、

わたしに思い込ませていました。


この世界はマーヤ(幻想)だと耳にはしていましたが、
目が覚めてみると、
どれだけありもしないことに怯えて、
不安になったり、
すごくシンプルで簡単なことが、
複雑に複雑にしか見えなかったのか、
目が覚めてようやくわかることができました。


どれもこれも、アタマ、思考が作り出していた、
ありもしないホラーストーリー、
アタマが作ったでっち上げの作り話だったんです。


そして目が覚めて、
思い込みというありもしない呪縛から解放されたら、

なぜ天才と呼ばれる人が、
ごく一握りだったのかも解かるようになりました。


ホントは誰もが例外なく、その人にしかない、
その人の個性が生かされた「天才的な才能」

というものがあると、わたしは感じています。


でも、多くの人のその種は発芽してくれません。


それも目が覚めてみたら、実は社会や、

生きていく中で「本当に違いない」と信じ込んでしまった、

本当はありもしない思い込みによるものでした。


つまりアタマ、思考が語る作り話を、真に受け、
本当だと思い込んでいるせいだったのです。


そしてわたし自身が、まったくそうだったんです。


思考が囁く作り話というか、ウソを、

真に受けていたために、自分にしかない天才的な才能を

解放させて生きるのではなく、

他の人と同じように生きるのが「幸せ」なんだと、
思い込んでしまっていたんですね。


才能で生きるってどんなものか、
才能が解放され出してみて、
わかるようになったのですが、

こんな喜びが溢れ出るものだとは、思いもよりませんでした。


人だけでなく、自分自身が、自分自身に感動する。

それが天才性の解放された人生だったんです。


ですがそれは、世の中で「これが幸せ」とか

「これが成功」という「フォーマット」に

自分を合わせないといけないと思い込んでいたときには、

想像もつかないことでした。





さて、


わたしは中学生のとき「2001年宇宙の旅」と
アインシュタインの相対性理論に、とても惹かれたと、
はじめにお話しました。


今、はっきりとわかるのは、

それらは、わたしが「目が覚める」こと、
そして自分の「才能」を解放させ生きることの、
実は全部道しるべだったんです。


気がついてみたら、

わたしが人生の中でこころ惹かれたもの、
魂というか感性が惹かれたものって、
みなすべて、ここにつながっていたんです。


まさにそれらはわたしの「魂の道標」、
ソウルマイルストーンだったんです。


目が覚めてわかったのは、

人生とは、そして世界とは、
わたしたちが思っていたようなものとは、
全然違うものだったということです。


ホントは、その人にしかない天才性を解放して、
無上の喜びとともに生きることができる。


それが本来の人生だと、わたしは感じています。


今夜のお話は今までは、

詳しくはお話してこなかったお話です。


でも、今日はふいに「ああ、お話しよう」という思いが
浮かんできました。


また「なにか」が変わったのでしょう。


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