その日の香子の父の帰りは12時を過ぎていた。年度末に退職を控えて仕事を大急ぎでまとめているからだった。

敬一郎がリビングに入ると、次女の香子がソファに座って本を読んでいた。普段はもう寝ている時間だ。

「ただいま」

「おかえりなさい」

「お母さんもう寝ただろ」

「うん、お夕飯食べたよね」

「うん。どうしたんだ」

「いや・・・聞きたいことがあって」

「どうした?」

敬一郎は鍵の字に並んだソファの香子が座っていない一辺に座った。香子がわざわざ敬一郎に話を持ちかけるのは、敬一郎が忙しいのを承知の上でそれでも話したいことがるときだけだったからだ。

「・・・できれば、少なくとも卒業まで。ここにいたいんだけれど・・・むり?」

「それは無理だなあ。おじいちゃんの仕事手伝わないといけないんだから」

「いや、そうじゃなくて、私だけでも残っちゃダメかな」

「・・・駄目というより、それも無理だと思う」

「無理?」

「ここは官舎だから引き払うことになる。君が一人暮らしをすることは中学生だからできない。このあたりに学生寮があるということは聞いたことがない」

「一人暮らしは中学生だとしちゃいけないの?」

「できないことはないが、それは親の無責任だと思う。親が子供の面倒を見ないのは、無責任だ。生活のことをするのはとても大変なことだから、親が子供の世話をしないのはそれだけで虐待なんだ。香子は、もう中学生ではあるけれど、自分で生活するのは大変だ。僕もお母さんと結婚する前は一人暮らしをしていたけれど、朝と夜はご飯が付いてくる寮にすんでいたし、昼はいつも裁判所の食堂とかだった。料理なんてしたことがなかった。服はいつもスーツにワイシャツだからクリーニングで、下着やパジャマなんかしか洗濯はしなかった。でも、それでも大変だったし、君の場合はそうはいかないだろう。炊事洗濯は、手伝いでやることはできても全部まかなえるほどではないだろうし。勉強の時間なんかもなくなる」

「誰かの家に下宿させてもらうことは?」

「無理だろうし、相手に申し訳ない。誰かと一緒に住むことは大変だ」

「やってみてないのに、わかる?」

「僕は、結婚した当初、お母さんとやっていくのが大変だった。お母さんもだ。それに、これは試してみることはできない類のことだろう?一緒に暮らしてみました、ダメでした、じゃあどうする?5月から君もくるなんてことのなるのなら二度手間だし君も大変だ」

昇降口で靴を履き替え、いつものように中庭を通って門へ向かう。淳は、前夜の雪がかき寄せられて、誰かが作ったかまくらが崩れた形に残っている旧体育館のあとを見た。秋の初めにあった彼はもうそこにはいなかった。死体になっていた彼もいなかった。二人とも、自分の死体が発見され自分の罪が露見したから安心してしまったのだろうと、淳はいつものように自分に言い聞かせた。香子にも、まだ建物が見えていたが、2階部分で一番頻繁に出ていたもう走っていく少年はいなかった。ときどき、ほかの人が通るだけだ。

淳は、お互いが考えていることから考えをそらそうとした。

「そういえばさ、珍しいな香子塾さぼんの。どうした?」

香子が眉根を寄せるようにして顔をしかめた。それも普段はないことだった。

「うん、淳にね、言わなきゃいけないことができたんだ。昨日親から言われたことなんだけどね」

そこで香子は話を切った。しばらく沈黙が続いた。話すときよりただ呼吸しているだけのときは息の白さが薄く見えて、頼りなさを強調する。

「え、なに、黙られると気になるんだけど」

淳は、香子が別れ話を始めるのか、でも、親に言われたことだというのなら、親の反対でもきたか、しかし反対されるほどたいしたことしてないが、ということを文章ではなく一瞬のイメージで考える。

香子は、淳がやさしいと思った。死者の声を無視することに決めたとしても、38年前の少年の声を無視してしまっても。ああ、私はこの人が大好きだ。そして立ち止まった。丁度普通の学生が通る道から見えないあたりだった。

「来年、引っ越すことになった」

淳は、一瞬何を言われたのかわからなかった。淳の人生には引越しと言うのは他人事で自分の友人よりも近しい位置で起きることは考えられないことだった。

「中三はほかの学校に行くことになる」

「どこ」

「・・・ここから電車で2時間くらいのところ」

「思ったより近いな」

「特急でだけどね。あと、通えない」

「・・・そうだな」

そして、どちらからともなく前に出て、抱きしめあった。二人が話し合って決めた一番近い距離だった。香子が淳の肩に顔を伏せた。淳は誰か来ないか、前を見ていることにした。

「もともとおじいちゃんの家がそこなんだ。おじいちゃんが自分の弟と弁護士事務所やってて、お父さんはどっちかが引退したら戻ってあとを継ぐことになってたの。でも、この間おじいちゃんの弟が倒れて、リハビリとかもいるみたいだから、戻ろうってことになったみたい。で、お父さんが仕事やめられたらっていうのは聞いていたんだ・・・こんなに早いと思わなかったんだけどね」

「そう」

「姉はね、丁度大学に入る年だから、どちらにせよ一人暮らしする予定だったんだ。でも、ここには残らない。だから、無理やり二択で、姉と同居」

「そう」

「お父さんとかはもともと予定していたことだし、それが早まっただけだから、家もおじいちゃんの家に同居だし、丁度移動の時期だったし、3月末で引っ越そうって」

「そう」

「・・・ねえ」

香子が顔を上げた。淳の顔は見ない。

「そう以外を、言って」

「じゃあ・・・ここに残れないの」

「どうだろう・・・」

「聞いてみたら、だめ?」

「・・・一人暮らしするってこと?」

「誰かのうちに下宿でも。・・・うちも聞いてみる」

「・・・男子の家は無理だよ」

香子は少しのどを鳴らして笑った。

「中学生だからね・・・あと一年は」

「・・・子どもって、不便だな」

「・・・うん」

香子が思い切るように身を起こし、淳の顔を見るようにして離れた。

「とりあえず、帰ろう。言っちゃったら、ちょっとだけ気が晴れた。これをね、言うかどうかで一日うじうじしてたんだよ」

淳が少し笑った。

「なんだよ、言わないって選択肢があったのか?黙ってたら怒ってたぞ」

「まあまあ」

お互いに、不安を軽口に紛らわせながら歩き出した。手袋につつまれた手をつないで。

みるということ 9


これは、二人の別れの話。

2月に入ったばかりのある日、二人のとっての終わりが始まった。

きっかけは、12月に香子の父の叔父が軽い脳梗塞で倒れたことだった。

その日も、香子は図書館にいた。いつもと違うのは、今日が本当は塾のある日だったことだ。

今日は塾に行かないで図書館にいることは、授業が終わって香子が掃除当番に行き、淳が陸上部に行くときに話してあった。香子は、本当はもっと早くに話そうと思っていたが、一日中タイミングを逃して結局追い詰められた放課後に話すことになったのだ。話が切り出せなかった理由は、香子は自分でも理解していなかったが、帰り道で話さなくてはいけないことを話したくなかったからだ。

そしていつものように淳が図書館に迎えに来る。香子はいつもと違い勉強をしておらず、小説を読んでいた。淳が声をかけると、何も言わずひらりと手を振ってから、本を棚に返してきた。

「何読んでたの?」

図書館から出てから、淳は何気なく聞いた。

「聞いてもわかんないだろうけどさ」

香子は少し笑って答えた。

「長いお別れ」

そして、かばんを肩にかけた。